飯田一史、海老原豊、藤田直哉、宮本道人=座談会 震災のはざまで、僕らは 『東日本大震災後文学論』(限界研編/南雲堂)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年3月17日

飯田一史、海老原豊、藤田直哉、宮本道人=座談会
震災のはざまで、僕らは
『東日本大震災後文学論』(限界研編/南雲堂)刊行を機に

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東日本大震災から丸六年を迎える二〇一七年三月十日、若手批評家集団「限界研」の十人による評論集『東日本大震災後文学論』(南雲堂)が上梓された。本論集は、二〇一一年三月十一日以降にうみだされた膨大な作品群を「震災後文学」と捉え、十人の批評家がそれぞれの切実さとテーマ、独自の評価軸をもって「震災後文学」に向き合い考え続けた論考である。震災のはざま、原発事故後を生きる、いまこのときを鋭く切り取った一冊。本書の刊行を機に、編著者、著者に名を連ねる四名の方にお集まりいただき、座談会を開催した。 (編集部)

震災後の世界で 文学に何ができるか

飯田
限界研は二〇代、三〇代を中心とした、専門分野の異なる批評家の集まりです。今回の論集では主に東日本大震災後の純文学について論じていますが、それ以外にもSFやミステリ小説、映画やアニメなどからも多角的に三・一一以後の文化状況を論じています。企画成立のきっかけをお話すると、限界研は本書以前に同時代のミステリやSF、映像などをテーマに六冊の論集を作ってきました。二〇一五年に次は何をやるべきか議論した際、文学はどうかという話になった。そして今の文学を考えるときに、三・一一の影響は大きいだろう、と藤田直哉氏から意見があった。実は「三・一一以後」という軸の設定に対し、限界研の中では賛否両論でした。ただ肯定にせよ否定にせよ、他のトピックとは比べられないくらい、語る温度の高さだけはみな共通していた。「震災の影響なんかない」と言う人も何か引っかかっていることは明らかでした。それを手がかりに、それぞれが掘り下げていったら何か見えてきそうだ、というのが出発点です。そしてその「引っかかり」はわれわれだけが感じていたものではなかった。文芸誌ではいまだ三・一一以後を想起させる作品がいくつも書かれているし、昨年は映画「シン・ゴジラ」(脚本・総監督:庵野秀明)、「君の名は。」(新海誠監督)、今年は「サバイバルファミリー」(矢口史靖監督)や村上春樹の『騎士団長殺し』(新潮社)など、三・一一の衝撃、そしてその後の社会状況をいかに捉えるか、その中でわれわれはどう生きるのかを扱った作品が話題になっている。三・一一を考えることは過去の振り返りではなく、現在進行系の問いです。
藤田
この本を最初にやろうと言い出したのは、たぶん僕と飯田さんで、それに杉田俊介さんと藤井義充さんが加わって四人が編著者となった。僕の問題意識としては、三・一一がどういうことだったのか僕自身が分からない、経験が共有できないということでした。だから作品を介して僕自身が理解したいというのがあった。震災に対して一番対応が早かったのが現代美術で、その関心は『地域アート 美学/制度/日本』(藤田直哉編著/堀之内出版)にまとまりました。次に早かったのがドキュメンタリー、その次くらいに純文学でした。純文学は、SF、ミステリ、エンタメに先んじて震災の直後くらいに応答し出していて、この対応の速さ、変化の速さに率直に驚いた。ゼロ年代とは違って、急速に社会や世界など、大きいことを扱うように変わったのが大きな変化のように僕には見えました。

個人的なことを言うと『文學界』の「新人小説月評」を二〇一五年に担当し、一年間、下読みも含め新人の小説を読み続けて、明らかに文学のモードが変わっているのを感じました。この変化をきちんとまとめて、どういう意味があるのかを検証するというのと、作品を通じて東日本大震災というよく分からない経験をどう理解するのか、そしてどう共有するのかの方法論が手に入るんじゃないかなと思ったのが、この本をやらなきゃいけないと思った理由です。現代文学の存在意義があるとしたら、これまでの文学では書かれていない、あるいは経験したことのないものにぶち当たったときに、人はどういうふうに世界を理解するのか、自己を理解するのかという新しいモデルを提示できることだと考えていたので、同時代人としての現代文学あるいは現代の表現に対峙した「同時代としての震災後」を書いたわけです。

これは大江健三郎の『同時代としての戦後』(講談社文庫)からタイトルを借りていますが、同じく大江健三郎の『核時代の想像力』(新潮選書)の中で書かれている核兵器についての議論を下敷きにしています。ドストエフスキーをはじめ傑作の文学があるのに、今なぜ書くのかという問いについて、「昔は核兵器はなかった、核兵器に常に狙われているような状況で生きている人々のことはドストエフスキーは書いていない」と大江さんは答えた。それと同じ意味で、原発が事故を起こしている中で生きている状態を過去の文学は書いていない。だからこそ現代に、たとえ傑作のレベルとしては過去のものに勝てないとしても、いま文学をやる意義、あるいは文学を論じる意義があるんじゃないかと思いました。震災後に新しく固有に生まれてきた部分をクリアカットすればそれを示せるだろうと。特徴が大きくは二つあって、ひとつは和風『1984』とでも言うべき状況が訪れている。ニュースピークのようなものやダブルシンク、言葉があれこれ入れ替わったり歴史が変わったりする、ディストピアSFの構造が使われるような純文学が増えてきた。純文学が一斉にこういう変化をするというのは意外なことで、ゼロ年代は身辺雑記と揶揄されるようなフリーターとかニート系の主題が多かったのが急に変わった。もうひとつは、同じ問題の延長線上で、言葉に対する意識、言論統制というか、言葉がちゃんと発せられないということ自体を問題化している。作家は言葉のプロフェッショナルだから、この辺は感じるんでしょうね。戦争の予感というのも重なってきます。

エンタメ、SF、科学 震災への応答

飯田
私は過去に『ベストセラー・ライトノベルのしくみ』(青土社)と『ウェブ小説の衝撃』(筑摩書房)という単著を出していますが、ラノベやウェブ小説では震災をモチーフとした作品はなかったわけではないものの、数としては目立つほどではなく、純文学で言う『恋する原発』(講談社)や『想像ラジオ』(河出書房新社)クラスで話題になった作品すらほぼない。その後、小説誌のバックナンバーを漁り、ミステリなど中間小説の動向も調べたけれども、エンタメではやはり数が少なく、純文学だけが極端に多い。しかし結果として三・一一を想起させる国民的なタイトルは純文学からではなく特撮(「シン・ゴジラ」)とアニメ(「君の名は。」)から生まれることになった。これが興味深い。純文学の動向だけ見ていると小説は二〇一〇年代を通じて震災を延々扱ってきたかのような錯覚に陥りそうになる。そういう意味で、外からの視点を入れられたことはよかった。ちなみに私は、東北が故郷でもなければ直接の被災者でもないにもかかわらず、三・一一直後から現在に至るまで震災をテーマに書き続けている数少ないエンタメ作家・重松清さんを論じました。純文学の外からの視点という意味では、海老原さんは三・一一の後に『3・11の未来 日本・SF・創造力』(作品社)という本を編集し、そして今回の論集ではその後のSFの動向を検証している。
海老原
私と藤田さん、笠井潔さん、巽孝之さんの四人で、SF作家、評論家の方たちから、三・一一の直後、小説ではなくエッセイや評論を集めました。刊行はその年の九月です。SF作家に限定したのは、原発の問題が大きかった。原子力や核エネルギーをSFはずっと扱ってきたので、SF作家は意見を問われることもありました。それをまとめた『3・11の未来』刊行から五年以上経ち、SF小説で何か変化があったのかという問いが私のスタート地点でした。結論から言うと、ありました。私の評論「情報の津波をサーフィンする 三・一一以降のサイエンスなフィクション」では、瀬名秀明さんが指摘した次の三つの要素を切り口に三・一一後の表象を分析しています。(1)たくさんの人が亡くなった物理的な津波、(2)原発・放射能の問題、(3)地震・津波・原発事故についての情報がSNSやウェブにあふれた情報災害。(1)と(2)についてはSFでは大きな変化はないと思います。SFの世界では、日本は沈没したり宇宙は爆発したり、何でも起こってきたし、核戦争の後の世界もSFはずっと描いてきました。ところが(3)の情報災害に対しては作家自身も混乱していた。震災後にSFに変化はあったのかという問いに対して、情報災害を扱った作品が出てきたというのが私の答えになります。
飯田
宮本さんの論考も文学評論プロパーからは出てこない発想だと思う。
宮本
僕も、科学と文学の関係を一つの切り口にして論考を書きました。「対震災実用文学論―東日本大震災において文学はどう使われたか」という論です。震災に対して、科学でなく文学にしか出来ないこととは何なのか、「震災後文学の論」というより、「震災後の文学論」として何が言えるかを考えてみたんです。そこで思ったのは、今後の震災に備えて文学を効率的に活かせる方法論を提示できれば、震災後に書かれる文学論として役割を果たせるかな、と。論の中では、文学の実用性を五項目(自分を癒す、交流を生む、現場知を伝える、現実を動かす、次世代に残す)に分けて論じました。我々はこういう可能性を感覚的に認識してはいても、あまり深く考えていない。多くの人が文学を作品として見ていると思いますが、文学をひとつの行動、アクションとして見たときに、別の意味が浮かび上がることもある。だから僕の論では、作家の書いた小説だけにはフォーカスせず、被災者による作文プロジェクトや伝承などもフラットに扱って、文学が役に立つ可能性を多方面から拾い上げていったという感じです。
飯田
文芸誌でこのあといくら震災後文学の特集を組んだとしても、宮本さんや海老原さんのような論考は絶対に載らない。そういう外部からの視点が入ったことで、狭義の震災後文学が何を扱い、何をしなかったのかがより見えてきた。もちろん、彼らの意見に対して、限界研の中でも杉田俊介さんや藤田さんのような純文学プロパーの批評家からの反発もあったし、そのあたりの議論は実は各々の原稿にかなり組み込まれている。論集を通して読んでいただくと「こいつらお互いに批判しあっているな」というのがわかる本になっている。 
和風『1984』と ポスト・トゥルース

藤田
衝突や対立を原稿に活かすような本作りのやり方をしたし、会合も毎月あって、お互いに批判しあいながら、ディスカッションしながら原稿に反映し続けましたね。矛盾や衝突も隠さない、むしろ震災に対してニュートラルに対応する評論のほうが不誠実だから、きちんとおのれを出してぶつかろうというのが最初の方針で決まった。僕ら自身のモチベーションは個々にあるわけだし、それを隠してもしょうがない。ニュートラルに特権的な立場で震災後文学を語ることは不可能なことだから、それぞれの違いも違和感も個人のバイアスも全部含めて出しちゃおう、そういう評論の方法論しかないだろうというのが最初のほうの確認でしたね。だからそういう本になっていると思います。お互いに意見は大きく違っていますよ。やるのは嫌だと言った人もいますし、不誠実だとか震災を食いものにするのかとか。
飯田
最終的に、書かなかった人もいるからね。
藤田
祖父が福島にいるからこそ、ナイーブでむしろ書きたくないと言っていた冨塚亮平君が、実作を読んでいく中で少しずつ意見を変えていったり、震災はオワコンと言って実際に書かなかったメンバーもいるし(笑)。でも、それも尊重すべき意見だし態度だとして受け止めながら作るしかなかった。
海老原
今の世界情勢と比較していくと、三・一一以後の日本の文化・社会状況はポスト・トゥルースというキーワードで語れると思います。この論の中ではこの言葉は出していません。原稿を入稿した後に、ポスト・トゥルースという言葉を聞くようになりましたが、変化はすでに起こっていたのでしょう。ポスト・トゥルースを「事実なんてない、意見があるだけだ」という態度だと考えると、原発・放射能にまつわるさまざまなデータや数字が膨大に津波のように押し寄せたときに、科学的な事実やデータよりも、人々の感情や、何を言っているかよりも誰が言っているかが重要とされた、あの時の空気を的確に示しています。アメリカ大統領選の混乱を日本で理解するには、三・一一直後の日本の混乱を思いだせばわかりやすいのはないでしょうか。
藤田
情動政治が有効になったり、単純な啓蒙モデルでは効かなくなるようなアメリカの状況と、震災後の日本の情報災害の状況とか原発のデータをどう判断するかというのも繋がっていますね、確かに。アメリカで『1984』が売れているようですが、日本もそんな感じになっていますよね。
海老原
米国大統領選も終わって見直してみるとそんなふうに思いました。
飯田
そういう意味でもアクチュアルであると。
藤田
一年前ぐらいに論はもう書いているわけなのに、あとから『1984』が売れているとか、ポスト・トゥルースが流行語になってきて、ちょっと恐ろしかったよ(笑)。
宮本
この本のゲラを直している時くらいから、ポスト・トゥルースが話題になり始めて、僕も正直すごく驚いたんです。自分の論考の中では、フィクションという方法論にしかできないことは何かを論じている一方で、フィクションが逆に社会にマイナスの影響を与える可能性についても危惧していました。そんな悩みながら書いた内容と同じような話が、突然ニュースで話題になり始めたぞ、と。しかもそれは僕の論だけでなく、他の各論考にも通じるところがある。論の骨子は去年の春くらいには書いているわけで、当然日本の震災後だけしか考えていなかったのに、いざ発表しようと思ったらアメリカでも似たような状況が同時代的に発生していることが分かったという。
飯田
日本は世界に数年先んじて様々な事象が起こっていた。日本は震災、欧米などではシリア難民問題とIS、テロによって不安が高まり、情報が錯綜し、高学歴エリートで構成される既成権力は嘘をついて真実を隠しているという陰謀論、きれいごとを言っているリベラルは非常時にも建前ばかりで実行力がないという感覚が蔓延した。そこに橋下徹やトランプ、ドゥテルテのような攻撃的でタフそうなポピュリストが現れると、人々は不安の解消と既得権打倒の夢を託してしまう。あるいは身近にいる他者に自分たちの不満の原因を見いだし、スッキリしたいがために排外主義に流れる。そういう一連の流れの中に、いわゆる“放射脳”問題、情動不安に駆られた人たちが科学的なデータをいくら示しても信じてくれないという状況がある。上杉隆が「メディアは真実を隠している」と陰謀論を唱えながら放射能デマをバラまいていたことと、トランプが「主要メディアは全部フェイクニュースだ」と言ってデタラメ言いまくっているのはまったく同じ手法です。人々の不安につけ込んで「真実を知っているのは俺だけだ」論法で支持を集めている。震災後の五年、六年間を検証したわれわれの論集は、世界でこのあと起こっていくこと、いま世界中の作家が書いていることを理解しやすくすると思う。
藤田
みんなもっと作家を尊敬すべきだと思うんです。たとえば僕は、和風『1984』とか言語統制の状況を書いてその系譜を辿っているんですが、二〇一一年くらいからそれを書いている人がいるわけです。いわゆるポスト・トゥルース的状況とかこの空気の状況とか、言語を入れ替えることによって現実を変えてしまうようなことが起きると警告している書き手はいっぱいいるんですよ。それで和風『1984』の論を書いたあとに、トランプ後のアメリカで『1984』が売れている。ちょっと怖い。さらに僕は『新世紀ゾンビ論』を二〇一〇年ぐらいから準備していて、ゾンビは壁を作ってあっちに脅威としての他者=ゾンビを押し込めて、生き残るために自分たちを壁の内側に入れて、それをサバイブを根拠に正当化するというモデルが流行っているというのを指摘して警告していたのですが、壁をガチで作りはじめたじゃないですか。メキシコやEUも壁を作ると言い出している。作品とか作家が時代の早いところで予言的に書いているというのは怖いくらいで、いわゆる「炭鉱のカナリア」ですね。作家のアンテナをもっとみんな信頼し、耳を傾けないと。警告は発せられていたにもかかわらず、僕らも含めて社会の人々や世界の人々がそれに耳を貸さなかったからこうなった部分はあるよ。
文学は無力なのか

海老原
それは文学が無力ということだったと思いますね。先見的に予言していたけれども、予防にはならなかった。実際、この前の国会でのやり取りで「武力衝突」か「戦争」かというのが話題になっていましたけれども、あれもオーウェルが言うところの新語法(ニュースピーク)ですよね。ただ、予言的に言われていても、現実には流れは変わらない。変わらないどころか加速していくように思うわけです。
藤田
変わるものは変わると思う。
飯田
文芸誌に書く人は「高学歴エリートでリベラル」な側に属しているわけで、その人たちの言った言葉は、いま「右でも左でもない、下からの運動」(トドロフ)を起こしている「置き去りにされた人々」には届かない。
海老原
そういうことですよね。
藤田
いや、そんなことはなくて、ヘイトスピーチ規制も法律が出来たし、「WELQ(ウェルク)」みたいなデマニュースのサイトもみんなで問題化して消滅した。永久に続くかに思われていたああいうものが、一気にもう無いわけです。問題だと思って誰かがちゃんとやれば、変わるよ。
宮本
文学は単体の作品としては無力だったとしても、ムーブメントになれば存在感を示せるかもしれません。被災体験を吐露できる俳句を作る高校のプロジェクトとか、研究者による防災ゲームを作るプロジェクトとか、取り組みとしての力もありますし。それに僕は、批評なら一つ一つの作品の価値を体系化して社会に橋渡しして少しでも波を作れるんじゃないかと淡い希望を抱いていたりして、だからこそ論集に参加したという側面もあります。ちなみに、三・一一が起こる前に書かれた震災シミュレーション小説を色々読んだのですが、たとえば高嶋哲夫さんの『TSUNAMI 津波』(集英社文庫)だと、津波や原発の事故がリアルに予想されているんです。こういう小説があるのに、今回は結局社会が震災に備えられなかったというのは、科学と批評に携わっている人間として忸怩たる思いにもなりましたね。大げさかもしれませんが、震災前にたくさんの人に紹介しておけば良かったな、とも。僕はSFをよく読むんですけど、目の前の社会のリスクに具体的に警鐘を鳴らすような作品にあまり目を向けてこなかった。でも、これから震災が来ないわけではないから、今からでも遅くはない。論集でムーブメントを作りたいです。
飯田
「君の名は。」は要するに「彗星の落下が予測できてたらみんな逃げて助かるよね」という話だけど、いつか来るとわかっていても、たぶん多くの人は現実には信じなくて死ぬ。実際、東北ではそういうことも起こっている。
藤田
しかしね、文学が無力であるとも言えない。世界の認識の仕方を作るものですからね。ジョージ・オーウェルの『1984』があったからこそ、今の事態をこういうものとして僕らは認識することが可能になっている。だから世界を認識する枠組みをちゃんと提示しておくということは、現実に関与する行動なんだよ。トランプの前に読んでおけよ……とは思うんだけど、遅きに失したとしても別にこれから変わるし、現状がこうなっているという認識をシェアするために文学は有効な力を持っていると思う。だからこそ日本でも何十万部も売れているんでしょうね。
ファクトとフィクション

飯田
ただ、そうは言っても「ジャンルの限界」も絶対にある。「シン・ゴジラ」は大ヒットしただけでなく評価も高く歴史に残る作品になった。他方、震災後文学(純文学)は無数に書かれたのにほとんど売れず、おそらく後世に読み継がれる作品も残念ながらあまりないと思う。純文学作家は痛みを感じている人に寄り添い、ネガティブな警告を発することは得意だけれど、不安を感じている人を救ったり、答えを示すことはできなかった、あるいはやらなかった。「シン・ゴジラ」はそれをやった。みんなが「シン・ゴジラ」的になっちゃったらそれは気持ち悪いけど、ひとつでもふたつでもいいから先行してああいうのがあってくれてもよかったのに、なかった。そこに、それぞれのジャンルの向き不向きがあらわれている。ひとつのジャンルだけ見ていると気づけないこと、できないこともある。別に、どのジャンルがいちばんいいか、ということではなくてね。
海老原
SFのここ十数年のトレンドは認知科学的なものが当たり前になってきたということだと思います。認知科学とは、簡単に言うと、ある刺激を与えるとある反応をするという発想で物事をとらえ、人間もまた例外ではないと考えるものです。目の前のちょっとした不安のほうが遠くの大きな危険よりも過敏に反応してしまうとか、デマは広がりやすいけどデマを打ち消すのはコストがかかるとか、人間の脳の構造はそうなっているらしい、というのが認知科学的な知見です。SFでは二〇〇〇年くらいから認知科学的なアイディアが色濃く表れます。海外のグレッグ・イーガンという作家が翻訳され、国内では二〇〇七年に、今はもう亡くなってしまいましたが、伊藤計劃が『虐殺器官』(早川書房)でデビューしました。早川書房が二〇一二年からハヤカワSFコンテストという新人賞を再開しましたが、これは伊藤計劃以降の作家を発掘するという明確な目標があります。そこでデビューした作家などもこの流れにあると思うんです。認知科学的な発想を持つことの利点は、データと、そのデータを歪んで見てしまう人間の両方、科学的事実と人間的情動の両方の部分をバランスよく描ける可能性があることです。事実と感情の両面を描こうとするSFのトレンドがあっても、SFの影響力の少なさもあるのかもしれませんが、残念ながら社会的にはそうなっていません。これは先ほどの文学との話と繋がっているようにも思います。人間は感情ベースになることも多く、それを一回括弧に入れて事実を見たほうがいいよというメッセージはSFの中にいっぱいあるんですけれども、なかなかそれが広がっていかない。
藤田
僕はSFの人たちの発言を見ていて、理性や科学を信仰しすぎだなって思うんですよね(笑)。
海老原
文学とは異なる意味で、それはジャンルの限界かもしれません。
藤田
本当に科学的であるなら、神経科学とか認知科学とか情動科学とかの知見を参照して、人間は情動のほうが動きやすいとか理性の影響力はこのぐらいだとかそういうことも把握した人間観になっているべきなんじゃないかと思うんですけど。そこは結構海老原さんと僕とで意見が割れるところなんですね。海老原さんはファクトや科学的真理を啓蒙すればいいという立場で、僕はそれには限界があるんじゃないかという立場でわりと議論になる。
海老原
啓蒙というほど大それたものではありません。SFは事実と事実に基づいた感情をともに描く。フィクションなのでSFがつねに正しい事実を提示しているわけではないんです。ただ、不安に寄り添うものが文学だとしたら、SFは事実プラス感情で、心理的な安心だけでなく科学的な安全も提示できるのではないか、と。
宮本
どの話がファクトに基づいているか、どのデータが科学的でないか、みたいな指摘って、ツイッター上でどっちが正しいか論争して炎上して騒ぎになりました。はい終わり、という感じになってしまって、インパクトある作り話だけがアタマに残るようなことって多いんですよね。だからフィクション作品でも、ここの部分はリアルだとか、科学的評価が一箇所に集約されて、後で参照しやすいよう残るシステムがあったらいいなと思います。ページ上の別レイヤーに批評・論争がコメント的に載せられて、文章もヴァージョンで変えられ、それらを一緒に読める電子書籍システムとか。研究論文でも、権威ある論文誌掲載前の査読重視からオープンアクセスの論文誌掲載後のコメント重視へ、的な動きが一部にあるので、そういうイメージです。フィクションが良いフィクションであるためには、いつかは自身のデマ拡散性を抑える枠組みが必要になるんじゃないかと思います。逆にそういうツールさえあれば、信頼できる情報が少ない話題についてリアルタイムで執筆する心理的負担も減るかもしれません。
ポスト・ノーマルサイエンス

藤田
たとえば低線量被曝とか甲状腺がんとか、原発が今どれぐらい危険なのかとか、そもそも原子力政策が良いか悪いかとかの判断は、ポスト・ノーマルサイエンスの問題で、つまり、「事実が何かは確定せず、論争的で価値判断が割れ、政治的状況の影響も受けるし、でも判断をしないといけない危急の事柄である」、そういう特殊な問題ですよ。つまりファクトもトゥルースも上手く確定していない領域が膨大にあるわけです。放射性物質が現にどうなっているか上手く観測できないし、低線量被曝とかもチェルノブイリとかいろんな過去の例からある程度確実と言える範囲と、まだよく分かってない部分があって、ポスト・ノーマルサイエンスとしてのコアはそこにある。ノーマルサイエンスとは違う態度が必要で……。真理や事実は一個だというモデルじゃなくて、どっちの可能性もありうる、矛盾を同時に受け入れるみたいな状態に耐えるしかないんですよ。低線量被曝はガンを生むかもしれない、甲状腺を過剰診療してマイナスのほうが大きいかもしれない。どっちも可能性はある、そういう量子力学的状態に耐えるしかないよ。この状態の耐え難さが不安を生んだり、安易な答えに飛びつきたくなる心性の背景にあると思う。
飯田
そこで評論が果たす役割とは何だろうと考えると、批評は完全に客観的ではないし、といって一〇〇%が主観でもない。研究は第三者も検証できるデータを提示できなければ価値がない。でも評論は必ずしもそうではない。主観が入ることによる説得力もあれば、読者の情動に訴えかけられる部分もある。そう考えると、ファクトと意見が切り分けられないことが前提になり、データを示すだけでなく感覚に訴えかけることの重要性も増した今の時代にマッチした、ポスト・トゥルース的な表現形態なんじゃないかと。
海老原
象徴的だったのが私も藤田さんも飯田さんも自分の論の中で、個人的な話をしているんですよね。藤田さんと飯田さんの論考を読み直して、「二人とも自分語りしてるな」と思った直後、自分のを読み返したら一行目から「個人的な話からはじめたい」となっていた(笑)。
藤田
それはみんな自分語りをしようって言って、やっているんだから。確か、杉田さんの提案でしたよ。
海老原
主観と客観の混じり合いの中で、評論が立ち上がってくるということでしょうね。
飯田
客観性を装った記述にしようとすると、被災者や作家に対して非常に不誠実な感じがしたんだよね。読者が感じるであろう「で、おまえはどうなの?」にきちんと応えないといけないと思った。客観的に検証できるほどの時間はまだ経っていないということなんだと思う。その作業は三・一一を経験していない、後世の人間に任せたほうがいい気がする。
藤田
僕は飯田さんと海老原さんに反論したいのですが、純文学に固有の価値というのが僕はあると考えているんですよ。エンターテインメントではなく純文学であることの価値は何なのか。マスメディアやエンタメのレベルでは世界観は単純で、単純化した二項対立的な世界をすぐ作ってしまう。対して純文学はもっと複雑で多様な葛藤や矛盾をそのまま出すような内容が出来るわけです。たとえば原発にしても賛成か反対かみたいなそういう単純な感情を煽る図式ばかりだけど、現実にはそんなに単純じゃない。石油に変わるエネルギー源としては安いし資源争奪が減れば世界は平和になるかもしれない。経済的にもプラスはある。でも廃棄物の処理の仕方は分からない、事故が起きた場合は途端に人類を滅ぼしかねない、ヤバいものになるという両義性がある。その両義性をそのまんま抱え込むのがたぶん文学とか純文学の仕事。『シン・ゴジラ論』を出しておいて言うのはヘンだけど、「シン・ゴジラ」は、答えを与えすぎている。大事なのは、何が答えなのか分からないような不確定で矛盾して葛藤のある状態をそのまま生きることに耐える能力を鍛えることだと思うんですよ。純文学はそれが出来る。簡単な二項対立図式にならないように、あるいはひとつのものが何重の意味も持つような存在として、原発とかもね、そういうことをそのまま伝えるという。
飯田
君の言っていることはまさに「純文学とそれ以外」という二項対立図式に落とし込んでいると思うけど?
海老原
エンタメは駄目で純文学は良いといったときに、藤田さんの考える純文学にいわゆるエンタメとされるものも入っていますよね。それはちょっとズルい(笑)。単純じゃない話を描いてるのは、純文学に限らず様々あると思います。
飯田
両方必要なんだよ。わけがわからなくなっているときには見通しが良くなるものも必要だから。
藤田
在日がいなくなれば日本は問題なくなるとかそういう単純な答えに飛びついてすぐスッキリする人がこれだけいる以上、あまり答えを与えないで、答えがない状態に留まる訓練をみんなにさせた方がいいんじゃない?
海老原
訓練といってもみんな好きな本を読むわけだから、つまらなかったら読まないのが現実です。「これは良い社会を作るために必要な本です」と提供しても、「在日が」「イスラム教徒が」という本に飛びつく人も多いわけです。超越的なファシスト藤田が道徳の教科書を提示し、みんなで東日本大震災後文学を読もうと言ったって、それはまた別種の「単純な答え」を提示しているだけではないでしょうか。
飯田
藤田学園を作ろう(笑)。 

『東日本大震災後文学論』座談会・第二部〈「生/性」、宗教、ガンダム小論〉は、近日「週刊読書人ウェブ」に掲載いたします。
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年3月17日 新聞掲載(第3181号)
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この記事の中でご紹介した本
東日本大震災後文学論/南雲堂
東日本大震災後文学論
著 者:飯田 一史、藤田 直哉、海老原 豊、宮本 道人、杉田 俊介
編 集:限界研
出版社:南雲堂
以下のオンライン書店でご購入できます
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