縫わんばならん / 古川 真人(新潮社)口語の謎を裏に潜める  小説の形式の枠を揺さぶるエネルギー|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年3月17日

口語の謎を裏に潜める 
小説の形式の枠を揺さぶるエネルギー

縫わんばならん
出版社:新潮社
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縫わんばならん(古川 真人)新潮社
縫わんばならん
古川 真人
新潮社
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いま、話しているのはだれか。なにを、どのように話しているのか。話しているエネルギーとは、どう燃え、どう終わっていくのか。こういった口語の謎を裏に潜めている小説である。

九州の島の漁港で暮らす八十代の女とその一族の四代にわたる人々が、語り手となって一族に関するさまざまな記憶や思い出を語っていくのだが、ふだんほとんど脈絡のない断片的な景色や会話が現れては消える。多忙な彼らは、家にひとがあふれ、いつも働き、そして一刻も声のやまない状態を維持しているのを働く理由としてきた。自分がいつでも帰って来られる居場所を求めて港のあたりで大家族によってひたすらあくせくと働いてきたのであり、幸福でありたいと願った目標に向かって目の前のことに必死であった。現在では島から遠く日本各地で離れ離れになって暮らし職業もさまざまになっているにもかかわらず、一族の人であれば、ほんのささいなことでも深い共感があり、理屈をぬきにして一致するものをみることができるのだった。たとえば亡きばあさんが「家も、だいぶん古かけん、ほどいてしまわねばならんね」と言ったということがのち彼らのこころに末ながく響いてくるのは、家の修理がまるで一族の運命の象徴であるかのように感じるからであろう。

語りの中心をかためるのは女たちである。たとえばある女の話し方に特徴があり、話しているうちに「いっそう喧(やかま)しく話しだした。その話し方とは絶え間のない冗談と大仰な返事、引き伸ばしたように甲高く笑い声を上げて、急に溜め息をつく、これらを辺りに憚らない大声によっていつまでもつづける」、その話し方を代々の女たちは確実に受け継ぎ、「彼女たちの会話は、すべて港のことばによって話されたが、それというのも、ほかのことば遣いによって自分たちの喜びを表現できるとは、だれも思わなかったためだった」、という話し方をする。この話し方はそのまま彼らの生き方ではないか。一言で言って底抜けの陽気な明るさがあるのであろう。ただしこの生き方は、懸命になって追い求め日々努力してきた結果できるものにちがいない。この特異な話し方にこもっているのは、こう生きたいという強い願望である。人生の苦難や重大な災害に逢ったとき人々は今後どうすればいいのか路頭に迷うのであろうが、おそらくこの生き方がどんな障害も乗り越える原動力になっていたのではないか。

後半一族のテンションが最高にあがるのは、葬式のときである。葬式があると九州各地や東京など関東各地へと散っていた親戚が古里の葬式場に一挙に集まる。すると死者を弔うという儀式であるというのに、不思議とこの葬式の場で彼らは笑い声をたてる。はじめから「悲しいっていう気持ちとは別の、何かがあるったい」という雰囲気があると言うのだが、それではこの場の話題にすべきことはなになのかと思いだそうとしてもだれも思いだすことができない。でも、彼らは笑う。笑い声だけは確かなものであって、この笑い声こそが一族のエネルギーにほかならない。けれども「笑い声」とは言うものの、笑いを発する人自身からの、笑い声そのものの描写ではない。夢中になって話している彼らを見る隣人からの描写、たとえばこの一族に婿入りした夫の驚きの目から見た描写、あるいは小説概念に染まった作者の視線による描写であって、あくまで外部からの他人の目の介入による描写である。つまり、「笑い声」という小説表現とは、「港のことば」とは似ても似つかない標準語による「ほかのことば遣い」にすぎない。

であれば、どうしても「港のことば」の核心をめざした回帰がなければならない。大事なのは、話しことばの表現に徹するという一点である。この弔いの死者は、もうあの世へ行っちゃたのだろうか。いやいや、まだ、居るよ、まだ「死んどらんで、あの頃の姿のままで島の家に居る感じがしてくる」、「ここに来ることのできんで、忙しくしとるんやないか、そんな気がしてくる。そうたい、話しつづけるあいだだけは」。集まった人々が笑ったり泣いたりしながら思いだすところに死者の全体があるから、彼らは記憶の断片を担って、持ち寄り、充たすために話しつづけていく。話の中心は声であろうし、話に終わりがないのだろう。その点では反小説的である。中心は書くことであり、終りがあることで成立する小説にたいする、いわば背理の、叛逆の、渾沌のエネルギーが波うっているのであろうか。このエネルギーが燃え上がり小説の形式の枠をいま揺さぶっているのだが、この事態は今後小説をどんな芸術に仕上げていくつもりなのか、予想のたたない無限の可能性を潜めているものなのにちがいない。

この記事の中でご紹介した本
縫わんばならん/新潮社
縫わんばならん
著 者:古川 真人
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年3月17日 新聞掲載(第3181号)
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