第二部 「生/性」、宗教、ガンダム小論 【座談会の続き】飯田一史、海老原豊、藤田直哉、宮本道人|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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2017年3月22日

第二部 「生/性」、宗教、ガンダム小論
【座談会の続き】飯田一史、海老原豊、藤田直哉、宮本道人

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東日本大震災から丸六年を迎える二〇一七年三月十日、若手批評家集団「限界研」の十人による評論集『東日本大震災後文学論』(南雲堂)が上梓された。本論集は、二〇一一年三月十一日以降にうみだされた膨大な作品群を「震災後文学」と捉え、十人の批評家がそれぞれの切実さとテーマ、独自の評価軸をもって「震災後文学」に向き合い考え続けた論考である。本書の刊行を機に、編著者、著者に名を連ねる四名の方にお集まりいただき座談会を開催した。(座談会の第一部は『週刊読書人』3月17日号1・2面に掲載)(編集部)


世界の変容、「生/性」と生殖

飯田
この評論集の中では、震災後の純文学における「生/性」の問題も、藤田さんの論考で扱われていますよね。
藤田
本書に二つ目の論考として「<生>よりも悪い運命」を書きました。震災後に、ディストピアSFの形式を使いながら、「性、生殖」を主題として、セクシャリティとかジェンダーを問題とする作品が目立って出てきていて――ジェンダー的に問題がある言い方かもしれませんが――女性作家が科学的知見を使いディストピアSF的な、クリアな構造の作品を純文学として発表するようになったというのが観察されました。笙野頼子、松浦理英子のような、ある種身体を対象に有機体的なぐちゃっとしたものを描いていたのが九〇年代、ゼロ年代だとすると、ちょっと違う感触の作品群だな、と思い、論にしました。
これは震災の直接的な影響かどうか定かではないのですが、竹林美佳さんの「地に満ちる」(『すばる』2015年11月号)という小説は女性の人工授精技師を描いていて、そういう小説が出てきているというのは、ある種の生殖とか性の問題を科学的知見なり確率の問題なりを経由して、自身の出産、生殖、性の行動を理解する視点が発生しているということなのだと思うのですよ。それは厳密には震災や放射性物質の影響だけとは言い切れなくて、高年齢出産の増加とか、出生前診断の普及とか、いろいろなファクターがあるんでしょうし、他にも若者のセックス離れ、肉体離れといった言説や、恋愛離れ、出産しなくなっているとかそういう現象とも内的な関連を持つように描かれています。
合理的に考えれば(現状の世界において)人は子どもを産む根拠がないよねというような、殺伐とした論になってしまったんですが(笑)。それはある種の皮肉でもあるんですけど。こんなリスクを負うことを決断する根拠を人はどうやって得るんだろうかということが僕の中で分からなかったので。子どもが生まれる、あるいは着床する、その理不尽とも言える瞬間、不確定な未来が確定しちゃう瞬間を、人はどう受けとめるのかという……。
飯田
子供を作った人間の感覚からすると、着床した瞬間に何かが確定するという感覚はないですね。妻は切迫早産で入院したし、難産だったし、何が起こってもおかしくなかった。生まれるまでは本当に無事に育ってくれるのか、無事に出てきてくれるのかわからないし、生まれたあとだって危険だらけで、何が起こるかはわからない。むしろ命というものは確定も安定もしていない、つねに危険にさらされ、変転してしまう可能性にさらされたものであることを自覚しましたけどね。
藤田
例えば、ぼくが論で例に出した松波太郎さんの『LIFE』(講談社)に出てきたダウン症のケースでのトリソミーとかは、確定しちゃうわけじゃないですか、ある程度は。
海老原
出生前診断ですね。
飯田
人間の生が数値化可能なものだ、人間もまた一面では数字に置き換えられるものにすぎないという認識は、「人と人との関係がモノとモノとの関係として現象する」というマルクス主義の物象化論、あるいは二〇世紀前半のフォーディズムやフレデリック・テイラーの科学的管理法など少なくとも一〇〇年くらい前からある。今まではわりと「数字に置き換えられてしまった生を、人間的に、ゆたかなものへと取り戻す」的な疎外論に持って行くのが文学の人たちのクリシェだったような気がします(今でも言っている人はよくいます)。しかし反・データ、反・確率的な生の方に着地していかないで、「それはもう覆せない基本認識でしょ」という感じで貫いているのが藤田論考で扱われている今の作家たちの特徴なのかなと。震災後には被爆の問題もあったし、これから起こる南海トラフ地震についても注意が向いたし、人間の生はさまざまな確率の中にあるものだと多くの人間が感じるようになったのでしょう。
藤田
データとか確率といった科学的知見と、自分のガンとか自分の子どもとか一回性のある人間的な問題との乖離がある。データとしてそれは何%とか、他人事では言えるんだけど、自分の問題となるとそうは処理できないという乖離が極端化する例が病気と死、生殖にあらわれる。科学的知見と科学的世界観の問題と生きている個人の問題が重ならないところをどう人間的に咀嚼するのかを悪戦苦闘している作品として見れば、科学と文学の問題系と確実に繋がっている。

希望論と何を信じるか問題

飯田
それはそうですね。多くの人が亡くなったことに甚大なショックを受け、ポスト・トゥルース状況に巻き込まれ、多様なリスクにさらされた確率的な生であることを突きつけられた。そのとき、この不安な主体は、はたしていかに生きられるか、ということだよね。私は重松清論と「シン・ゴジラ」論をくっつけた論を書いたけれど、テーマは「希望」でした。それは重松さんのこだわりだったからという点が大きいけれど、ようするにこの震災後の状況において、いったい何だったら信じられるんだろうか、どうやったらその信じられるものをつくれるのだろうか、という問いです。それを「希望」と言ってしまうと建前くさいというか、非常に薄っぺらく寒々しい感じがするけれども、しかし、信念なり理念が何もない状態に、人間は耐えられない。指針や理想があり、信じられる人間がいるから、そこへ向かうなり、寄りかかるなりして方向感覚をたしかなものにできる。人によっては頼るものが“放射脳”的な偽科学や宗教原理主義かもしれない。しかし、問題は偽科学やISILだけにあるのではなく、それを求める原因を作った側にあり、それらよりも魅力的な選択肢を提示できなかった側にもある。信じられるものをどう選ぶか、どんなものを、いかにして立ち上げれば信ずるに足るものになるかを三・一一以後の重松さんはずっと書いていて、その姿勢は支持したいんです。
藤田
神とか信仰がなぜ発生したのかという話にまで少し踏み込んだつもりなんですよ。不安が生じたり、生きる意味を見失ったり、懐疑の無限後退が発生すると、ここ以上は疑わない、ここ以上は考えないというのが必要になって、神とか運命が必要になる。他にも、機能的に同等の働きをするものとして、常識だったり、家だったり、国家だったり、歴史だったりがある。そこの不安と後退を止める為に構造的に必要とされるもののことを、ぼくは「宗教」と呼んでいます。一見、それが宗教の装いで見えなかったとしてもです。
宮本
人間の上に科学が覆い被さっちゃうと、個性が数字や統計に押し込められて、自分から自分らしさがはく奪される感覚があるんですよね。でも結局、科学だけじゃなくて神も震災も、人間個人と比べるとあまりに大きな存在。問答無用で逆らえない広大なスケールの目線を経由するだけで、自分が宇宙の塵だと自覚して怖くなるときがある。逆に、「世界」みたいな超巨大な存在でも、インターネットを通したら意外に身近だし、科学技術が進歩した今、無責任な人間の行動ひとつで世界は想像もつかない混乱に陥るかもしれない。現代人が、生は数字のひとかけらでしかないって当たり前に思うのは、そういう環境に生きているって側面もあるんじゃないでしょうか。
そんな中で文学に何ができるかって考えると、大きいスケールではなくて、小さいスケールで生に寄り添うことだと思います。科学や神や震災のような畏怖すべきものとしてではなく、変わったことを言いあえる友達のような存在として。文学は科学に支配された社会から生きる意味を復権する、みたいな話もいいけれど、文学は単に個人個人の手に届く範囲に在り続けてくれるだけでもいい。そのためには、文学は学校の国語の授業にもっと目を向けるべきなんですよ。

今回の評論集のためにいろいろ震災後文学を読みましたが、僕が一番心を揺さぶられたのは、『女川一中生の句 あの日から』(小野智美編/羽鳥書店)という、被災地での授業から生まれた俳句が載っている本でした。一つ一つの言葉に、生きるっていうことへの願いが詰まっているんです。こうやって、文学を生業にしていない人でも、言葉を希望として扱える環境を整備することが、文学を支援する者の新しい使命ではないかとすら感じます。『オープニングアップ 秘密の告白と心身の健康』(J・W・ペネベーカー著、余語真夫監訳/北大路書房)って本では、トラウマを背負った時には打ち明ける相手の存在が重要で、体験の筆記もその代わりに成り得るってことが書いてあります。共同体内ではしばしばトラウマの語りが抑圧されてしまいますが、多くの宗教では告白を主要な要素として、それを引き受けています。震災後でも、やはり感情を他人に吐露しづらい状況が続いていますが、文学もそういうひとに手を伸ばして、ある種の祈りを執筆に出力する方法論を一緒に探ってあげるような試みが増えたらいいなと思います。
藤田
ぼくは文芸誌に載っているような狭義の(純)文学を対象にしたけれども、本当はそういうものも含めて、「文学」とは何かを問い直したり、枠を拡張したりするべきだったのかもしれないとも思っている。この本を編んだ結果として、そういう被災した当事者の書く「文学」を集めてみようと思って、文芸誌を立ち上げるクラウドファンディング始めちゃったよ。宮本くんの意見は、非常に重要だと思う。

神なき世界のガンダム共同体

飯田
「何を信じるか」問題を考えるさいに、いま放映されている「機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ」(毎週日曜十七時~MBS/TBS系列)というアニメは重要だと思っています。あの作品では、火星が地球の植民地状態になっていて、そこにヒューマンデブリ(人間のゴミ)と呼ばれる子どもたちが、中小企業に搾取されてタダ同然で働かされているという状況から始まり、まずは混乱に乗じて企業を乗っ取って「鉄華団」という組織をつくり、火星を経済的にマシにしようと活動しているリベラルお嬢様のクーデリアを利用し、腐敗したギャラルホルン(地球政府側。現体制)の不満分子マクギリスと手を組んだり、テイワズというマフィアの傘下に企業舎弟として入ったりしながら、のし上がっていく。
鉄華団のメンバーはほとんどが文字も読めず、自分たちで考える能力がない。ただ、オルガ・イツカという集団のリーダーの言うことを信じることを選ぶ。しかしオルガがなぜそういう判断をしているのか、どういう状況に自分たちが置かれているのかは、よくわかっていない。じゃあ、このオルガが大きなビジョンを持っているかというと、持っていない。彼は自分たちの生活をよりマシにすること、なんとか生き残ることしか考えていない。彼は彼で、さらに力のあるやつの中で、誰が自分たちに利用価値があると思ってくれているのか、信じられそうかという判断しかしていない。その過程で、全体の状況など分析できないままに代理戦争に巻き込まれ、道具として使われながらなんとかやっていく。

これはシリア内戦に似ていると思うんですよ。シリアでは、アサド政権がまずクソで、かといって反体制派は頼りなく、その中でISが第三極として台頭という中で、バックにロシアやトルコ、欧米諸国の思惑があってやはり代理戦争という面もある。そこで駆り出されている現地の少年兵たちは「オルフェンズ」の少年たちと同じで、正しく状況を認識しているわけではなく、何を信じたらいいのか合理的な根拠はないけれども、とりあえず生きていくために「あいつを殺す」とか「こいつを信じる」という属人的な判断をしているはずです。
シリアにも「オルフェンズ」の中にもポスト・トゥルース的な状況がある。そして「オルフェンズ」では、鉄華団のメンバーたちは「俺たちは家族だ」と言って、この中にいる人間だけは家族だから信じよう、と言う。あるいは、テイワズというマフィア的な組織の人間と(ヤクザ映画さながらに)義兄弟の杯を交わすことで、信頼を担保する。現実世界では世界中で二〇世紀後半に比べても明らかに宗教の力が強まっていますが、これは何を信じたらいいのかわからない状況に陥った人々に対して、価値判断の体系、絶対的なよりどころになるものを提供できるからでしょう。
しかし、「オルフェンズ」の世界には宗教は出てこない。何を信じられるのかわからない、神もいないという状況では、結局、属人的な判断をするしかない、「俺とおまえの関係は絶対だよね」と契りを結ぶことで生きていくしかない、ということを(宗教フォビア的な国民性の日本人に対して)示しているのが「オルフェンズ」だと思います。ちなみに脚本に参加している鴨志田一さんの小説家デビュー作は『神無き世界の英雄伝』(メディアワークス)というスペースオペラだったのがおもしろいところですが。
藤田
杯を交わしたり、仁義のシーンがあるじゃないですか。あれは宗教的なモチーフ、宗教のようなものではないですかね?
飯田
義兄弟の杯は疑似血縁関係を築く契約だから、宗教ではないと思うけど。
藤田
僕のいう宗教は、それを守らせる超越的深究の実力がないのにもかかわらず、人がある超越的な倫理を守るようなシステムのことを呼ぶので……。宗教的な何かに見えます。
飯田
広い意味ではそうかもしれないけれど、「神を信じる」という意味での宗教ではないと思います。神もいなければ、リベラル左派が言う「戦争根絶」みたいなさまざまな「理念」も信じられないというのが「オルフェンズ」のベースの認識ですよね。「オルフェンズ」はロボットアニメなのでロボットに乗って戦うわけですが、そのロボットは三〇〇年前の戦争の遺物です。人類はかつて大戦争をして、これ以上続けると破滅すると判断したからテクノロジーを封印したはずなのに、それを掘り起こしてきて戦争をしてまた破滅に向かっていく。「遺物のロボットを掘り起こして戦争に使う」というモチーフは「機動戦士ガンダム」の富野由悠季監督も「伝説巨神イデオン」や「機動戦士∀ガンダム」で使っていましたが、「オルフェンズ」の場合は「人類の進歩のなさ」の強調が冨野作品よりもはるかに際立っている。たとえば、主人公のミカは物語開始時点では五体満足な状態だったのに話が進むにつれてガンダムに乗るとき以外は半身が動かなくなり、視力も失う。逆「どろろ」といった感じで身体を失っていく。これはファーストガンダムでアムロがニュータイプ能力に徐々にめざめていくのとは逆ですよね。富野由悠季がつくったかつての「ガンダム」では、ニュータイプという宇宙時代に適応した知覚能力を持つ存在があらわれ、シャアとアムロは「人類の進むべき道」をめぐってファーストガンダムや「逆襲のシャア」では戦っていた。しかし「オルフェンズ」の設定や展開に込められているものは、どう考えても「人類は進歩しない」「人間は崇高なる理念など信じず、実利と手近な人間しか信じない」という強烈なアンチテーゼであり、それは今の時代を生きる人間の実感に発しているものだと思います。
藤田
海老原さんは信仰の問題についてどう思いますか?
海老原
藤田さんの図式は非常に理解しやすいし、納得できます。人間は複雑なことを考えるのには手間暇かかるから、それを代わりにやってくれるものを宗教・文化・伝統として「発明」してきた歴史があります。共同体の維持でも、農業の効率化でも、「こうやった方が良い」というのを合理的に説明できても、合理的に説明し理解させるコストがかかる場合は、言い伝えにしたり「おばあちゃんの智恵」にしたりする。伝統は理性の別種の形ともいえます。コストを自前で負担するか、共同体としてサバイブしてきた先祖にアウトソースするか。日本は、終戦後はまがりなりにも、複雑な思考のアウトソース先を学校とかメディアが担ってきたと思うんです。学校やメディアは世の中の複雑な仕組みを、啓蒙思想的に、人々がわかるように提示し、皆を教育してきましたが、同時に受け取る方でも「学校の先生がそういうなら、そうだろう」「まあ、新聞は噓つかないし」というように、最終的な判断の根拠は自分ではなく外部に投げてきました。

ところがかつてなかったような未曾有の大震災が起り、今まで一貫して正当性や正しさを主張してきたところが、違うことを言ったり揺れたりするので、どれを信じたらいいのかわからなくなってしまった。それと機を同じくしてSNSやウェブが社会に浸潤し、従来の権威とマスメディアの地位が相対的に低下する中で原発災害ふくむ巨大地震が起こってしまうと、人々の動きが不安ベース、感情ベースになったということですよね。『鉄血のオルフェンズ』を出したのは確かに象徴的です。血縁的な繋がりはないけど、一番身近にいて苦楽生死を共にした仲間を無条件で信じるというガンダムヤクザの話なんです。〈ガンダム〉には初代から主人公たちが乗る艦船を疑似家族とみなす「伝統」がありますが、『鉄血のオルフェンズ』ではもっと濃縮された、何度も何度も共同体そのものを再確認する共同体主義が回顧してきているかなという気がします。アニメ以外でも、バラエティ番組には日本礼賛番組が数として増えています。
藤田
取りあえず共同体を信じるということですね。それは必然的な合理的な選択かも知れない。グローバリゼーションの反動かもしれませんが……。しかし、共同体を支えにするのが良いのか悪いのか、それは「近くにいる人たち」次第だな、って気がする。ISILの中で生まれたり、バイブルベルトにいる原理主義の家に生まれたり、「共同体」を喪失してしまっているから安易にカルトの人に縋ってしまったりしたら、それを肯定できるかと言えば、難しいんじゃない。やっぱり、共同体主義は、心理的安定のためには有益なんだけど、それだけじゃ足りないよ。
海老原
グローバリズムの逆張りと言えばそうなんでしょうけど。
飯田
「オルフェンズ」の話ばかりして恐縮だけれども、あの作品は共同体主義だけを描いているわけでもないのがさらにおもしろいところで。鉄華団は疑似家族ですが、それだけで経済的にも社会的にも自立できるわけではない。じゃあどうするかと言えば、地球を仕切っているギャラルホルンの中でのはみ出しもの、体制転覆をもくろむ詭弁家のマクギリスと組む。これは生まれたときから住んでいる田舎で家族や友人関係を作って一生過ごすような「置き去りにされた人々」が、傍流であったはずの過激なポピュリストを支持することで大きなうねりを作り出すというブレグジットやフランスの国民戦線躍進などとやはり同じ構図なんですよ。しかしそれが何をもたらすかと言えば、アニメ第一期の終わりでギャラルホルンの腐敗を暴いたところ、体制への不満が高まり暴動が加速して治安は悪化、少年兵の利用価値がわかってしまったことでヒューマンデブリの状況も悪化したという衝撃の事実が第二期冒頭で明かされたわけですけど。これはもう、めちゃくちゃひどい……いや、凄い話ですよ。現実と照らし合わせて見たときには。
藤田
新しい生き方を、アニメの形で模索しているような感じがあるよね。応援しているのに、悲しいかな、あんまり視聴率ないんだよ(笑)。
海老原
生々しい現実だから辛いんじゃないですかね。後ろ盾がないものがのし上がるには、自分たちの命をかけるほかないんですよね。さまざまなヤクザ的意匠がちりばめられた『オルフェンズ』を、ヤクザ映画との連想なしに見ることは難しくて、深作欣二の『仁義なき戦い』のような結末を迎えるのではないかと私は毎週、悲しみながら見てます。
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