表象の裂け目に、遭遇するもの イエジー・スコリモフスキ「イレブン・ミニッツ」 |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2016年7月8日

表象の裂け目に、遭遇するもの イエジー・スコリモフスキ「イレブン・ミニッツ」 

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8月20日(土) ヒューマントラストシネマ有楽町、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開! ©2015SKOPIA FILM,ELEMENT PICTURES,HBO,ORANGE POLSKA S.A.,TVP S.A.,TUMULT


ある青年が部屋から外を眺め、空に謎めいた黒い点を見る。どうやら、女好きの映画監督も嫉妬深い新婚の男も同じものを見たようだ。そして監視カメラのモニターのひとつにもそれは映っている。イエジー・スコリモフスキの『イレブン・ミニッツ』に描かれるこの黒い点は何だろうか。人が知覚するのは実在ではなくその表象である。表象は人の主観によって都合よく組織化されているが、この組織化には当然限界がある。空の黒い点は表象のこの限界点を示しているようだ。

映画のラストをここでは語れないが、最後に起こる出来事はこの黒い点によく似ている。明確に表象された出来事であるからもはや限界点とは言えないが、この限界点と強く結びついている。どういうことか。社会は、正しい者は報われ、悪い者は罰せられるといった様々な虚構の価値観に基づいて成立している。一人一人の人間はそんな価値観を実際には信じていないが、それでも各人が知覚する表象はそれぞれの個人的な虚構の価値観に基づいて組織化されている。映画のラストで起こるのは、そんなあらゆる価値観をあざ笑うかのように表象の安定を突き崩す出来事なのだ。

勿論、映画は表象の戯れであり、表象の限界をめぐるこの作品の物語も表象の操作によって語られている。悲劇と喜劇の間を自在に行き来する演出はその典型だ。本質的に悲劇的な出来事を特異なカメラ位置やスローモーションによって喜劇的に語るのではない。実在世界のいかなる出来事もただ単に起こるだけで、悲劇も喜劇も表象における虚構の価値であるということだ。同じ時刻の様々な人物の行動を描くモザイク状のプロットも、通常の時間の表象と異なるとはいえ、表象の戯れに変わりはない。ローアングルのあおりやハイアングルの俯瞰などの自在なカメラアングルに基づく空間の独特な表象も、全く同じことだ。

しかしながら、こうした特異な表象は一見映画のラストに向かって巧みに構築されているように見えながら、実際には表象の無根拠性を絶えず明らかにしている。例えば、パンクヘアの女は元恋人から犬を返してもらうが、この場面は犬の視点を模倣するかのようなローアングルのあおりで示される。この映画の最も斬新な描写のひとつであるが、注意すべきはここでカメラが犬を模倣するいかなる必然性も存在しないことだ。より正確に言えば、必然性のなさが全く隠されていない。映画のあらゆる演出が極めて構築的であるようで実はたがが外れていて、恣意的な表象の継ぎはぎを露にしている。黒い点は至る所にある。それが表象の操作によって示されているのだ。

ドゥルーズは『差異と反復』で次のように書いた。「カタストロフとしての差異は、有機的な表象=再現前化のみかけの安定の下で活動し続けているひとつの不屈の反抗的な基底を証示しているのではないだろうか」黒い点とはまさにこうした有機的な表象の裂け目ではないか。そこで人は、表象のみかけの安定の下でうごめく新たな生に遭遇する。表象に目を瞑るのではない。唐突に現れる首吊り死体や轟音とともに飛行するジェット機、ホットドッグ屋や新婚の女優の微妙な表情に新鮮な眼差しを向けよう。そこに裂け目があり、それを通じて人はカタストロフと称される反省概念から解き放たれた差異に出会うのだ。

今月は他に、『裸足の季節』『マネーモンスター』『クリーピー 偽りの隣人』などが面白かった。また未公開だが、オリヴィエ・アサイヤスの『5月の後』も良かった。

2016年7月8日 新聞掲載(第3147号)
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