第10回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 表彰式 授賞理由と栗原康氏記念講演「こん棒をもった猿の群れ なにから盗むべきか」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年3月27日

第10回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞 表彰式
授賞理由と栗原康氏記念講演「こん棒をもった猿の群れ なにから盗むべきか」

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「授賞理由」(選考委員・田中尚史氏)


3月3日、東京都新宿区の日本出版クラブ会館で、第10回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞の表彰式が開催された。本賞は作品に対してではなく、賞の趣旨にふさわしい人物に与えられるもので、本年度は政治学者(アナキズム研究)の栗原康氏が選ばれた。

選考委員の田中尚史氏は、「授賞理由」を次のように述べた。
「受賞者の作品を拝読して二つのことを考えさせられた。ひとつは「言葉は誰のものなのか」、もうひとつは「思考、考えは誰のものなのか」ということ。例えばソクラテスの言葉というのがあるが、それを書いたのはプラトンで、どちらの言葉か考え始めるとわからなくなる。では、その人の言葉と言えるようになるには何があればいいのだろうと考え始めると厄介である。ただ、ひとつだけ言えることはその人の言葉と言えるものが何かしらあって、言葉は確かにみんなのものなんだけれども、その人でなければならない、その人らしい言葉は確かに存在する。本にはその人の言葉が書かれているけれども、本からその人らしい言葉を読み取るためには、すごく乱暴な言い方をすれば、愚直でも読んで読んでぎゅうぎゅう詰め寄っていくしかないのではないか。おそらくその愚直な振る舞いをもっとも激しくやっているのが栗原さんではないだろうか。まさにぎゅうぎゅう詰め寄って、暑苦しいくらいまで詰め寄っていって、果てにはその人になってしまうという、この乱暴さが楽しい。読んでいると、そもそもこの文章は栗原某が言っているのか大杉栄が言っているのか、伊藤野枝が言っているのか、もしかして言っているのは僕なんじゃないかとすら思えてきて、やっちまえ!みたいな気分にさせられてしまうところがある。無茶苦茶で掟破りに近くて、普通の人がやると怒られるくらいの振る舞いがちゃんと成立している。そこまで突き抜けてしまっている。そこが栗原康の成果なのではないか。大杉栄、伊藤野枝、栗原康、僕らの誰のものでもあるし誰のものでもなくなってしまう。そういうところまで栗原さんはいってしまっているんじゃないかと考える。誰のものでもあるし誰のものでもない言葉は歌に似ていて、一遍上人の伝記の中で念仏ライブというシーンがあるが、まさに誰のものでもない言葉、みんなの言葉になっているライブの圧倒的な熱力、そういうものが栗原さんの言葉にはまぎれも無く存在すると我々は確信した。僕ら自身の言葉じゃないかと思えるくらいまで人を巻き込んでいける力はひとつの才能ではないか。どちらかというと革命家には必須の才能で使い方によっては危ないことにもなるかもしれないが、そして栗原さんがこれからどういう革命を起こそうとしているのかはわからないが、どんどん我々を踊らせてくれるような新しい表現に向かってくれることを期待して、この賞を贈りたい」

栗原康氏受賞記念講演「こん棒をもった猿の群れ なにから盗むべきか」


よく、文章を書くときに、まわりの評価なんて関係なくみたいなことをアナキズムと絡めて書いたりしていますが、チヤホヤしてもらえるのって嬉しいですね(笑)。完全に舞い上がっていて、僕は貧しくしてきたもので、貧乏性で普段ジーンズもはきつぶれるまではいて1本しか持ってなかったんですけど、副賞でお金を貰えると聞いて、皆さん気付かないかも知れないんですけど、実はジーンズを新調してきました。しかも2本も買ってしまった(笑)。チヤホヤしてもらって嬉しくなって、もしかしたら段々ブルジョワみたいになっていくのかもしれない(笑)。是非、今日ご来場いただいた皆さんには、栗原が舞い上がってヘンな方向に行かないように厳しい目で見張っていただけたら嬉しいなと思っています。
本題の講演ですが、池田晶子賞で僕の文章について評価していただいたので、僕の方からも自分が文章を書くとか本を読むってどういうことなんだろうということをお話ししようと思って、友だちとも相談しながら考えてたんですけど、「こん棒をもった猿の群れ なにから盗むべきか」という言葉が出てきて、その話から自分の文章について喋らせてもらおうと思います。副題の方で何から盗むべきかと書いてみたんですけど、実は僕が文章を書く上で参考にしている評論家の平岡正明さんという方がいて、もう亡くなられたのですが、その方がレーニンの「何をなすべきか」からパクって、「なにから盗むべきか」というタイトルの文章を書いていたと思うのですが、平岡さんはよく万引きの話をする方で、なんでこの人は万引きに拘るんだろうと、そこから考えたことをお話しさせていただきたい。

みなさん、万引きってしたこと……ないですよね(笑)。僕もないんですけど、ちっちゃい頃はそういうこともあったかなとかいろいろ思う方もいるでしょうし、書店の方もいらっしゃるので、万引きは天敵だと思っている方もいらっしゃると思いますが、思想の話なので少しだけお許し下さい(笑)。
テレビで万引きGメンの番組を放送していて、万引き犯がいろんな姑息な手段、半分はレジを通して半分はバッグに入れるとか、あの手この手をやるんですけど、最後はバレてしまって出入口で声をかけられる、というような番組で、すごいなと思ったのが、万引き犯の話で80歳くらいのおばあちゃんが冷凍食品のコーナーにフラフラ行って何するのかなと見ていたら、冷凍庫に手を突っ込んで、アイスをその場で袋を開けて食べ始めるんです。見てる側も吃驚するんですがもちろんすぐに万引きGメンが急行して声をかける。でも大したもんだなと思ったのは、それまでよぼよぼしていて、今の僕くらい挙動不信でまわりをキョロキョロしていたようなおばあちゃんが、いざアイスを食べ始めて「何してるの?」と声かけられたら、ひと言、「あたしゃあ、アイスを食べてるんだ」と。「何をやっているかわかってるんですか?」「アイスを食べてるんじゃ!」「万引きですよ」とか言われて、事務所に連れていかれるんですけど、「行く理由がわからない」とか「ギャー!」とか叫びながら、裏の方に連れ込まれる。「ギャー!」という叫び方が、もうおばあちゃんが人間を超えて猿になっているみたいな、そんなことを思いました。食べる前まであんなにキョドっていたおばあちゃんが、こんなに凛々しくなるものなのかと。
スーパーに行ったら当然ですけど、お金を払ってそれを食べるのが当たり前になっている。見方を変えてみると、今の資本主義社会・人間社会の中では、人間が支払い能力で優劣を競わされている。物を買える、買えないで尺度が出来ていて「駄目な人」というレッテルを自分で内面化して持っているところがあるのかなと思ったりする。そこで突然支払う行為をやめて、その場でアイスを食べ始めてしまうわけです。支払い能力で人間に優劣が付けられるところを突き抜けているところがあって、だからこそおばあちゃんが人間を超えてサルのように、言い方を変えれば、凛々しくなっていった。そういうところがあるのかなと思いました。平岡正明さんが万引きにやたらと注目しているのは、アイスをその場で食べてしまう、欲望を直接的に表現してしまう。そういう瞬間ってヒトがヒトを超えてサルになる。そんなところに平岡さんは魅力を感じていたのかなと、そんなことを思っていたところです。

今年はロシア革命100年になるのですが、実はこのタイトルはレーニンの言葉です。ロシアでレーニン、共産党、ボルシェビキらが力を握る前は、アナキストやニヒリストの人たちが、「ナロードニキ」という運動をやっていた。ナロード=人民の意味で、農村の中に入っていって、税金の重さについてや帝政と戦いましょうと訴えかけたりした。自分たちで皇帝を討てる力を示して、農村でもっと怒りを盛り上げていくんだというような。ナロードニキの行動は、ピストルで皇帝を狙うとか爆弾とかそういうイメージが強いのですが、何を訴えかけようとしたかというと、農村で酷い扱いを受けている農民たちに自分たちで立ち上がって、一揆や暴動を興す、そういうことをナロードニキはやろうとしていた。そういったものをレーニンは律するわけです。そんなことをやっていても世の中は変わらない、一揆とか暴動とか前近代的なことでなくて近代的なピラミッド型の軍隊を組織して、ロシア帝国の軍隊とかと戦える力をつけていこうと。そういう意味を込めて「こん棒をもった猿の群れ」じゃ駄目だとディスっているんです。だけど、あらためてこの言葉を見ると、「こん棒をもった猿の群れ」ってスゲー強そうじゃ無いですか? 猿が突然こん棒を持ち始めるわけですから人間は絶対やられる(笑)。ロシアの農民が帝政と戦うとなると、自分たちの鋤や鍬といった生活の道具で戦う、それをロシアの軍隊に向けるわけです。農民が皇帝や封建領主とかに鋤や鍬を持たされて、年貢を払う為、皇帝の役に立つ為に働かなくてはいけないと言われていて、それが農民の優劣を決めていた。ちゃんと収穫ができるか年貢が払えるかどうかで人の優劣が決められるのが当たり前だったのが、皇帝に従わなくてもいいじゃないか、封建領主に年貢を払うのはヘンじゃないか、そういうことを思い始めたりする。

万引きの話と繋げると、鋤や鍬を武器に変えた瞬間に、人間が人間を超えて猿のようになっていく。人間がこん棒を持った瞬間、突然猿になってしまう。そういう感覚って改めて大事だなと思っています。人が猿になっていく=突き抜けていく感覚って、人が文章を書くという感覚と実は同じではないかと思う。自分が文章を書くときにも同じような感覚ってあるかなと思って、大杉栄伝、伊藤野枝伝の評伝を自由に書かせていただいていますが、もともと研究論文で客観的に書かなきゃいけないところを、自由に書きたいからやらせてもらっていますが、自分では好きなことをやっているつもりでも、気付いたら文章を書くための本を読まなきゃいけなくなって、勝手に好きな本を読むよりも今抱えている仕事の文章を書くために、論文やエッセイを読もうとか、どんどん縛られていってしまう。そうなってしまった人の文章ってたぶん面白くなくて、文章を書く時もある種「こん棒を持った猿」にならなきゃいけないのかなと思います。
それにプラスして、文章って一人で書いている訳じゃなくて、編集者と話したりすると全然違うヒントがもらえる。僕の本は編集者によって全然違うと言われたりしますが、ひとりで書いてると思想大好きな人間なので、権力をバンバン批判してやれとか、ビラみたいになっていったりするんですけど、これだと他の人誰も読めないよ、とか言ってもらうと、それまで自分だけで考えていたところに穴が開くみたいな感覚で、そういうヒントみたいなものをもらった瞬間こそ、人が想像力を手にした瞬間なのかなと。そういう瞬間をこれからも大事にしたいなと思っています。改めて万引きの話に戻すと文章を書くということは万引きをすることと同じこと…、ちょっと違うかもしれないですけど(笑)。そんな風に思っています。これからも頑張っていきたいと思っています。今日はどうもありがとうございました。

■「第10回(池田晶子記念)わたくし、つまり Nobody賞表彰式開催」レポートはこちら

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