春樹世界の”完璧と調和” 村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年3月31日

春樹世界の”完璧と調和”
村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)を読む

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一〇〇万部刊行や、発売日深夜の公開読書会など、何かと話題が絶えない村上春樹氏の新作。その『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋)について、翻訳家・エッセイストの鴻巣友季子氏と、作家の中島京子氏に熱く忌憚なく語っていただいた。肯定ばかりではなかったものの、話題が尽きず、最終的に次回作に期待を寄せてしまう対談を通じて、村上作品世界をお楽しみください。三面には、五月六日に行われた「村上春樹 公開インタビュー」レポートを併せて掲載。 (編集部)※2013年5月17日号掲載時の内容です。


大作前の過去作の変奏か 春樹ブランドのセルフテンプレートか

中島
 刊行からひと月足らずで、既に各紙の新聞書評が出揃っていますね。
鴻巣
もはや国民的読書という感じです。ここまで話題の人になると、作者のメッセージを読むというレビューが多くなりますね。作品を読んで楽しむことから離れて、作者のメッセージを作り出す。これはちょっとどうかなと思います。記号論的に多崎つくるという名が何かのアリュージョンとして読めるとか、テクストが規定するものとして東日本大震災への暗示が読みとれる、ぐらいの書き方であれば、読み方は人それぞれだなと思えるのですが、そこに作者を介在させて、作者のメッセージとして提示するのは、近いように見えてものすごく遠いことで、かなり恣意的な話になってきますね。小説を読み解くという行為とだんだん離れていく気がします。
中島
かつて、サリン事件や阪神淡路大震災に関して、村上さんご本人が意識的に書かれた作品があるためか、一般読者にも過剰な期待がある気がしますね。3・11に対して、村上さんからお言葉を賜れるはずだ、というような。
鴻巣
なんだか、ほとんどご神託レベルですね。『1Q84』ではカルト教団のことを書いた、『神の子どもたちはみな踊る』では阪神淡路大震災を書いた。だから次は3・11のことを書いてほしいと、期待が先走るあまりにこちら側からメッセージを取りに行ってしまっている。テキストが明示・暗示するものを受け取るのではなく、読み手が予め想定したものを取りに行こうとすると、妄りな読みが生まれてしまいます。
中島
たとえ社会的な出来事を題材に書いた作品だとしても、そこに作家からの実利的なメッセージが込められているとは限らないですからね。
鴻巣
作品と離れたところでは、例えば昨年のノーベル賞の前に、朝日新聞に中国問題について寄稿していたり、カタルーニャ賞の授賞式では原発反対を表明していますし、エルサレム賞を受けたときにも自身の政治的立場を表明するなど、アクティビスト的な活動は今世紀に入って増えているとは思います。『ねじまき鳥クロニクル』以降、作品にも社会派的な面も見せていますよね。『アンダーグランド』などのノンフィクション作品もありました。でも、今回の作品を読んだ上で、過去作との繋がりでいうと、これはやはり『ノルウェイの森』とかね。
中島
『国境の南 太陽の西』とか。デビュー作の『風の歌を聴け』とか。印象としては、自家薬籠中のモチーフを、練り上げられた執筆技術で、ここにはこれが入る、ここにはこれが入るという具合に書き上げたように感じられました。
鴻巣
村上世界がコンパクトにまとまったアソート版、という感じもあります。人物造形も初期に戻っているように見えますよね。主人公のつくるはある面、『ノルウェイの森』のワタナベだし、『国境の南』のハジメくん。『ノルウェイの森』の木型から作ったかのように構成も似ていますし、共通する主題を変奏しています。
中島
少し不思議なところもあるけれど、基本的にリアリズムのかたちを取っているので、読みやすい作品ですね。でも、どうして今、もう一度これを書こうと思われたのでしょう。
鴻巣
英米の作家でも過去作の変奏のような作品の後に更新が行われ大作が来ることがあるのですが、この作品は村上春樹というブランドの元に、ややセルフテンプレート化された面も感じますね。何かの調整時期なのかもしれません。あるいは、キャリアを積み重ねてくると、セルフパロディや自己引用をとりいれる作家は海外でも多いです。自分の作品世界がある程度広くなってくると、そこである意味、遊びたくなるのかな。米国のフィリップ・ロスなどもそうでしょう。自分の過去作を意識して引用・再構築し始めるのですね。村上さんも、スピンオフや類似モチーフの導入がこれまでにもなかったわけではないですが、そういうタームに入ってきたのかなという感じはするんですよね。ファンも喜びますしね。
中島
そうですね。この作品には、春樹的キーワードをみつける楽しみもありますよね。例えば「悪いこびとたち」はリトルピープル? などと思いながら、読み進められる。
鴻巣
六本指については、『ねじまき鳥クロニクル』にも出てきましたしね。
中島
そして物語の骨組みには、過去に完璧に調和していた共同体が、現在は失われてしまった、というパターンも繰り返されています。

鴻巣
毎日新聞の書評にも書いたことですが、そのような乱れなく調和するグループやカップルはつまり、プラトン的なソウルメイトであり、調和が完璧であるがゆえに、死の近傍を彷徨う、タナトスの香りがするものが多い。『ノルウェイの森』の「僕」とキズキと直子がそうだし、『1Q84』の天吾と青豆もそう。古典では、『嵐が丘』のキャサリンとヒースクリフがその典型です。魂の友は、自分たちの関係が完璧だと思い込んでいればいるほど、俗世の外的な障害に弱い。大概は周りを破壊しながら自分たちも破滅していくパターンで描かれます。
中島
昔から文学で書かれてきたモチーフが村上作品にも受け継がれている、と。今作でも、つくるはギリギリのところまで死に迫り、シロは死に、クロは遥かフィンランドへ行ってしまう。つまりこの作品の登場人物の多くが一度、何らかのかたちで死んでいるのだと言えますよね。この死とは、図式的に言ってしまえば「若さの死」です。大人になる過程で殺してしまわないと、その先へは生き延びて行けないような、若いときだけに手にできる何か。それは一つには調和であるのかもしれません。そしてその段階で、どうしても生き延びられない子がいて、シロなどはその部類に入る子だったのだと思います。シロの運命については、後でもう少し話したいと思います。
鴻巣
青春の死を経た後の実人生。文学では若さの死を越えられない人物が、多く出てきますよね。その名もずばり『若きウェルテルの悩み』がそうです。なんとか工夫して生き延びるパターンは、ヘッセの『春の嵐』などですかね。
中島
私がこの作品を読んで、最も面白いと思ったのはアカという人物でした。このアカという人は、それは激しく青春を殺し、かつての友人たちが遠巻きにする程の変貌を遂げ、現実を生きている。「クリエイティブ・ビジネスセミナー」という会社を立ち上げて成功している。
鴻巣
この人は異彩を放ってますよね。「オレはグルって柄じゃない。あくまで経営者だ」と言っているけれど、その仕組みは、宗教カルトや自己啓発セミナーの手法を参考にしている。
中島
こんなことを言っていいのか分からないけれど、この作品は、若いときの村上作品に似たモチーフやかたちで書いていながら、結果としては何か違うものが出来上がっているじゃないですか。それがまるで、村上春樹ビジネスをやっているみたいに見えるんです。一週間のうちに一〇〇万部の刊行が決まったり、作品の多くが世界中で読まれたり、作家の託宣待ちみたいなことになっているのを、村上さんご本人はどう思っているのでしょうね。恣意的な読み方になるかもしれないけれど、アカを通しての、ご自身を取り巻く出版界への批評、ということが、ちらりと頭を過ったんです。
鴻巣
なるほど、アカの啓発セミナー=村上春樹ビジネスですか。そう言えば、『1Q84』でも天吾がふかえりのゴーストライターとなるなど、出版界の暗面が描かれていましたよね。
中島
作家にとって登場人物は、ある意味で全てが分身だと思うのですが、例えば夏目漱石が講演<私の個人主義>で、「(『坊ちゃん』の)赤シャツは私」と言ったような意味において、今度の作品では、私はアカの存在が気になりました。
中でも面白かったのが、彼のプログラムを受け付けない二種類の人間―アウトキャストと、自分の頭でものを考えられる人間―を除いた「八五パーセントをねたにおれはビジネスを展開している」というところ。
鴻巣
八五パーセントとは私たち読者!?(笑)。うーん、これを村上ビジネスと捉えて読むと、なかなかスリリングですね。

完成された文体や小説世界の繊細さ

中島
「こういうビジネスはノウハウをいったん確立すれば、あとはそれほどむずかしくない」「いったん良い評判が立てば、あとは勢いに任せておけばいい」とも書かれている(笑)。
少し想像が過ぎたかもしれませんが、もちろん、村上春樹さんが意図して大衆操作をしていると言いたいわけではありません。ただ一〇〇万部という数は、動き出したらもはや著者がコントロールできるような数字ではないように思えるんですよね。そういった一種異様な状況に対して無自覚ではないし、社会にはそのような異様な部分があるのだと、示しておこうという思いがあるのかなと感じたんですね。

そして、最後にアカは、過去とは関係のない、爪を剥ぐ話と、「ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」という言葉をつくるに伝えます。この小説には、死んでしまうもの、無くなってしまうものに対する惜別、喪失感よりも、それを殺しても生き残っていくのだ、ということに、作者の意識の比重が移っている感じは受けました。
鴻巣
ただ、なかなかその先が書かれないという印象がありませんか。つくるはまだとば口に立っただけで、リアル・ライフにいるわけではないのよね。どうやらサバイヴした、というところで物語は終わってしまう。『羊をめぐる冒険』も『ノルウェイの森』も『1Q84』もそう。私は、生き延びてなおかつ、青豆のおなかの子供が生まれる先まで書いたら、村上春樹はこれまでの村上春樹モデルを脱するのではないかと期待しているのですが。
中島
私もそこのところを村上さんがどう考えていらっしゃるのかな、とは思いますね。私は『1Q84』では、BOOK3に出てくる牛河という人物が印象的でした。
鴻巣
牛河は一番面白いキャラクターですよね。
中島
鴻巣さんもそう思いますか。牛河はさえない、胡散臭い、抜け目ないオヤジ。アカは三〇代だけど人より激しい青春の殺し方をしていて、やはりどこか胡散臭く、抜け目なく世を渡っている。そういうところが私の心に引っかかったのではないかと思います。今作の刊行前に、タイトルしか明かされていなかったとき、「色彩を持たない」というからには、ぱっとしない男だろう、ぱっとしない男ってことは牛河よ!と牛河的主人公を予想していたんだけど、読み始めて三ページで玉砕しました(笑)。
鴻巣
牛河は『ねじまき鳥』に登場した人物ですよね。『1Q84』BOOK1・2までは、天吾と青豆の交互視点でパラレルに物語が進んでいて、それがヤナーチェックの「シンフォニエッタ」の構成と呼応しているという、とにかく調和の世界でした。そこに牛河が現れたことで、小説にノイズが入る。牛河のパートだけは、三人称俯瞰視点に近い書き方が使われているんです。牛河が死んだ後まで描写は続いていますからね。あそこで村上さんは、さり気なく踏み越えたものがあったのではないかと思います。なのに、即刻、牛河退場(笑)。
中島
それもひどい死に方で(笑)。
鴻巣
乱れなく調和する世界への拘りがあるのではないでしょうか、村上さん自身に。その乱れを乗り越えられずにシロが死んだり、つくるが壊れかけたりするのですが、そのように外から圧力がかかったときに世界が壊れてしまうというのは、村上春樹の完成された文体や小説世界の繊細さを表象的に表している気もしますね。
中島
村上世界全体の……そうかもしれない。処女作『風の歌を聴け』には、象については書けても象使いについては書けないなどと書いてありましたが、村上さんのどこかに、調和を守るあまりに壊すことのできないものがあるのかもしれませんね。
鴻巣
村上春樹は三人称に移行しても、長編は頑ななまでにほとんど一視点でしか書かないんですよね。今回も、つくるの変貌したルックスを描写する場面で鏡を用意しています。鏡に映った自分の姿を確認させて、つくるの目線からそれを描写する。どうしても一人称的思考、一視点の思考から離れたくないように見えます。私はそれを日本語の構造の問題だと、以前は考えていたんです。日本語では三人称って書きにくいのかな、と。でももしかしたら、問題は人称でも視点でも日本語の機能でもなく、作者の内面、書き手と書かれる対象の距離の問題なのかもしれません。自分の分身である主人公を、外部の視線に晒す、あるいは突き放した目で見ることを選ばないという書き手の選択によるものではないか、と。

主人公がいくら恋人に批判されても、主人公のナラティヴの中で、彼の心情と都合に添って語られる限り、全て「やれやれ」で正当化されてしまう(笑)。ウェルテルが面白いのは、手紙の宛先である見えない「あなた」がいる点だと思うんですよ。物語外部の批評的他者の存在がちらちらっと見える。『ねじまき鳥』では、本筋の間に週刊誌からの抜粋記事など外部視点が持ち込まれ、興味深く思いましたが、今回はまた三人称一視点の文体に戻った。でも、書き手との距離感や角度によっては一視点文体でも主人公を批評的に書けるはずなんです。

先ほどの中島さんのお話を聞くと、アカという人間の語りの中に、ある種作者の自己批評性を感じないでもないのですが、やはりつくるは繭の中で守られている感じがします。それは読者にとっても、一種の心地よさをもたらしますね。
中島
つくるは、自分では取り柄がないとか、色彩がないとか言うけれど、 女性に「そんなことないわ」と否定してもらえるし、結局ハンサムで、家が裕福で、傷を持ちながらも、それなりに順調な人生を歩んできている。
鴻巣
ええ、少なくとも本人の視点ではそのように描かれますね。自己釈明のシステムが出来上っている。この語りのあり方が変われば村上ワールドの新境地が拓けるのか、村上さんの小説観が更新されたときに文体が変わるのか? 卵と鶏ですね。
文体によって書けることと書けないことの限界というものがあると思います。近年村上さんが書こうとしていることは、現在の文体では間に合わないところに来ている気もするんです。

視点人物が「僕」じゃない風通しのよさ

中島
村上作品は、どの作品で「僕」の一人称から三人称になったのでしたか?
鴻巣
基本的にずっと「僕」「私」で、『神の子どもたちはみな踊る』に収録された連作「地震のあとで」で、最初に三人称を使ったのではないですか。その後の『海辺のカフカ』は、「僕」とナカタさんの交互視点でパラレルに進みますが、ナカタさんの方が三人称文体で、だから小説の半分が三人称になった。そして非常に画期的だったのが『アフターダーク』です。「私たち」という、俯瞰視点の、不思議な一人称複数形を使っていますが、あの作品で、三人称複合視点への挑戦を行ったと思うのです。これは視点を翻訳的に表現することで村上さんの中で文体調整を行った作品なのではないかと興味深く見ていました。
中島
「僕」の一人称で書いていらした頃には、主人公の包まれた繭が心地よく、読者も作者と一緒に「僕」になって、矛盾なく世界を共有していた。それが三人称に変わったのは、やはり作者に変化があったからだと思うんですね。
三人称の作品でも、先程出てきた『神の子どもたちはみな踊る』や、短篇集の『東京奇譚集』はたいへん印象的でした。これらの作品には、年齢や性別もいろいろな人が出てきますよね。言葉が話せる猿や、ハワイ在住の、息子に死なれてしまうお母さんとか。
鴻巣
風通しのよさがありますよね。
中島
視点人物が「僕」じゃない。村上さんは、これからこういうものを書いていかれるのかなと思った記憶があるんです。まだ長編の文体としては仕上がっていない段階なのかもしれない。でも私はそこには何かがありそうな気がします。とにかくあの、みんなの知っている「僕」ではない人が出てきた作品が、私には新鮮だった。今回の作品も、短編でもよかったのではないかな、などと思ったりして。
鴻巣
短篇か中篇のつもりで書き出したら、長くなってしまったという発言がありましたよね。
『1Q84』の中核には、短篇「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」のボーイズ・ミート・ガールズの主題があるそうですが、短篇では名作でも、そうした小粋な主題では、あれだけの大作の主要部の一つは支えきれないでしょう。青豆と天吾がカルト教団を敵に回し命をかけて闘う理由が、十歳のときに手を握り合って、この人が運命の人だと思ったと、そんな無垢な記憶や感情に突き動かされるとしたら、それはいささか狂気めいていると思う。

今回の作品でも、ちょっと釈然としないところはありました。例えばつくるはたった一本の電話で、説明もなく大親友たちに完全に切り捨てられてしまう。それによって死にかけながらも、十六年間、その理由を追究しようとしない。
中島
不自然ですよね。
鴻巣
会話と回想の点描で構成され、現在の日常生活はほとんど出てこない。十六年間蓋をしてきた深傷にしては、そこに向き合うまでの葛藤や足掻きの過程がないですね。しかも十六年ぶりに、アポも取らず、すんなり皆に会えて、皆が、お前のことは疑っていなかったよ、と言う。
中島
十六年も会っていなかったのに、三十分だけスタバで話して、「語られるべき大事なことはそれ以上ほとんど残っていないようにも感じられた」、もう二度と会わない気がするって。そんな簡単に済む話、友だちだったなら、もっと前に話しなよ、という気も(笑)。

青春の喪失感の生きる姿を読みたい


鴻巣
思弁的な小説だとはいえ、不思議なぐらい日常的な肉付きがないのは意図的でしょうか。主人公のつくるは駅オタで、駅舎を設計管理するという、面白い職場に勤めているのに、職場の風景が一切出てこないのはもったいない(笑)。
中島
そうですね。つくりは似ているんだけど、『国境の南、太陽の西』では、青山のジャズバーの店主というディテールが書き込まれているので、膨らみがあり、リアルです。今回の作品は、登場人物が役割分担の図式に、無駄なく当てはめられてしまっているような気がします。
鴻巣
主人公がパスタも茹でないとアメリカの読者ががっかりしないかな(笑)。
中島
主人公の年齢が若過ぎるのではないでしょうか。歳を取ったら若者を書いてはいけないと言われたら、私なども辛いのですが、どこか人物の設定が、現実と乖離してしまっているような感じを受けるんです。団塊ジュニアだと書いてあるけれど、それがなければ、つくるは八〇年代の人物みたいに見えます。
鴻巣
やはり作者の内面の稼働域は反映されるものですか。恋人の沙羅がフェイスブックなどネットを駆使して友だちを探し出してくれるでしょう。でもつくるくんは工学科出ているのに、ネットを使いこなせないのかな、とか。いくらSNSが嫌いでも自分の生死を左右した重要な案件ですし。
中島
ソーシャルネットワークや携帯電話が、村上作品で出てくるのは初めてのような気がしますね。
鴻巣
でも、恋人同士が電話し合うときは、家の固定電話にかけます。
中島
本当に、どうして今、青春の喪失を書かなくてはならなかったのかな。
鴻巣
青春を喪失したときから人は小説を書き始めると某作家は言ってますが……。
中島
特に村上春樹さんはそのように出てこられた方ですしね。
鴻巣
でもね、喪失後にどう生きていくのかというところを読みたいんだけれど、寸止めで終ってしまうんだなあ。『1Q84』もそうだったし、『アフターダーク』も「夜はようやく明けたばかりだ。次の闇が訪れるまでに、まだ時間はある」で終るでしょう。

もう一つ、主人公は、『ノルウェイの森』でも今作でも、緑や沙羅という生身の恋人をどうしても手に入れたいと言うのだけれど、どちらも周囲の女性、レイコさんやクロに、「絶対捕まえなきゃだめよ」と発破をかけられて行動している。そもそもつくるの巡礼ですら、沙羅に言われて始めたことですからね。私はこれを、「受動的能動性」と呼んでいるのですが、これは村上作品に一貫してありますよね。
中島
ともかく、遠くから見ているせいかもしれないけれど、村上さんは、出す作品、出す作品、売れるのが前提ということになっているみたいに見えて、その圧力は恐ろし過ぎます。
鴻巣
そうですね。
さてそれではそろそろ、物語の最大の謎である、殺人事件に迫りましょうか。小説家・中島京子の謎解きをお伺いしたいです。
中島
そうですね。まず多崎つくるは、巡礼の旅をするわけですが、アオ、アカ、クロと過去の共同体のメンバーを巡って、一人だけシロには会えないですよね。でもシロは、つくるの過去の傷に関わる最も重要な人物ですから、シロに会わずして、この巡礼が終るのか、ということになります。
鴻巣
登場しないシロが最重要なのは確か。というか、実質、シロとクロとつくるの三角関係に、アカとアオが加わっていたという風にも読めてしまう。
中島
そうなんです。前半に、灰田という人物が現れて消えるのですが、これも重要人物ですね。リストの『ル・マル・デュ・ペイ』を含む『巡礼の年』という曲集をつくるに与えたのは、灰田です。これはかつてシロがよく弾いていた曲。つくるが見るシロとクロとの性夢に、灰田も出てきますし、「灰色は白と黒を混ぜて作り出される」ともわざわざ書かれており、私は灰田は出てこないシロの代わりの人物だと思っています。そして灰田の語る、灰田の父の奇妙な体験談はシロの運命と繋がる話だと考えていいと思っているんです。それは、緑川という男がした死の契約。差し迫った死を受け入れる代わりに、特別な能力を手に入れることができる、と。『知覚の扉』を押し開き、普通では見られない情景を俯瞰することになる。でも契約することができるのは、ある種の色とある種の光の濃さを持っている人間のみだと。灰田は父の話だと言っていますが、実際は灰田自身の話なのかもしれません。そしてその特別な色彩を、シロも持っていたのではないかと考えられるのです。

最終章に「おそらくは前もって決められていた場所で、前もって決められていた時刻に」シロは殺されたのだと、つくるが語るのですが、そうだとすればそれはやはり、緑川と同様に、シロも自分の死の期日を受け止めて、彼女自身が部屋の鍵を開けて死を招き入れたのだろうと、私は思うんです。
鴻巣
私もほとんど同じ考えですね。

シロとクロと、灰田の語る物語

中島
ところで今回のキーワードである色彩について、鴻巣さんは書評に、「ポール・オースターの『幽霊たち』を即ちに想起させる」と書かれていましたね。とても面白い指摘だと思いました。
鴻巣
つくるが沙羅を街角で見かけるシーンも『幽霊たち』へのチャーミングな目配せのように感じました。これはオリジナリティを云々するものでは全くなく、楽しい仕掛けというか、遊び心ではないかと。
話は戻りますが、私は、灰田は、共同体が消滅した後の残響のようなものでもあると思うし、現実か幻か分からないとはいえ、シロとクロと性的に交わるつくるを受け止めるのが灰田である、つまり、シロとクロの後を継ぐ者という役割が、灰田にはあるのだと思うんです。これは文芸誌にも書きましたが、灰田は、精神的な痛手を被ったつくるを、死の世界から救う心理的な緩衝剤の役割を果たしており、また、物語の構造上は、予告者の役割と、報告者の役割を果たしているのではないかとも思うんですね。

それから、灰田はつくるに「自由にものを考えるというのは、つまるところ自分の肉体を離れるということでもあります。自分の肉体という限定された檻を出て、鎖から解き放たれ、純粋に論理を飛翔させる」と言うのですが、これは緑川が言っている「『知覚の扉』を開く」というのと同位相にある思考だと思うんです。ということは、灰田=灰田の父でもあるし、灰田=緑川という見方もできなくはない。
中島
なるほど、面白いですね。
鴻巣
灰田と灰田父と緑川のパートはこの物語を解く鍵だし、これがなかったら小説として精彩を欠くのではないでしょうか。
中島
色彩を持たない小説になってしまう(笑)。
鴻巣
中島さんがおっしゃるように、抽象的な意味ですが、公私ともに悩んでいたシロは悪魔的取引に応じ、何らかのかたちで死のトークンを受け取ってしまったのだと私も思います。アカが「あいつは肉体的に殺害される前から、ある意味では生命を奪われていたんだ」と言いますが、この人はよくわかってる。緑川みたいな人ですから(笑)。シロは、死ぬ少し前には妙に落ち着いていますが、そのときには既に自分の死に諦念を持って、何らかの「情景」が見えていたのかもしれない。そう考えないと、先ほど中島さんの引用された「前もって決められていた場所で、前もって決められていた時刻に」死んだ、というつくるの推測の記述が、ちょっと唐突過ぎるんです。
中島
唐突ですよ、つくるはつい先日まで死んだことすら知らなかったのに。
鴻巣
その推測をつくるの視点で言わせて片を付けるしかないところにも、この語りのあり方の限界が示されているかもしれません。
中島
つくるがそこに巻き込まれた理由は、夢や無意識の世界に示唆されるのですが、村上さんの意図を外れて積極的な誤読をするなら、私にはクロという人物は曲者に見えるんですよ。だって二十歳そこそこで、アカとアオを説得し、つくるのことを共同体から切る、ということを仕切ったのが彼女ですからね。
鴻巣
私も深読みを恐れず言うと、シロは本当に妊娠していたのか。これはクロの証言でしかないですから……。
中島
隠された事実は、クロという人の言葉の中にしかないので、クロがどんなに嘘をつこうと脚色しようと、読者にも語り手のつくるにも分からない。たった一行で「妊娠していた」と言われてもね。そこは私としては不満ですね。つくるが、「シロは僕に異性としての関心を持っていたのかな」と尋ねたときに、クロは「それはない」ときっぱり言う。でもそれ、シロ以外の人にそこまではっきり答えられるのかな。つくるを好きだったクロは、シロとつくるを接近させないために共同体を解体した。そういう想像だってありなのだと思うのです。
鴻巣
真相を知りようがない。そこがこの文体の壁でもあるし、その部分を作者が自覚的に使えば別の面白さに繋がりますね。つくる=「信用できない語り手」みたいな(笑)。いったい何が起きたんだ、という『ねじの回転』みたいな物語にもなりえる。
中島
他にも、つくるを導いた沙羅の存在も気になりますし、クロとシロの絆の深さについても思うところがあります。ただ、こうして謎を残すところが、村上さんの作風として読者に受け入れられているのかもしれませんね。
鴻巣
そうかもしれません。最終章では、つくるは新宿駅のプラットフォームに座り、目に映る圧倒的な数の、どこかへ向かう人々を見ながら、クロとシロに思いをはせています。そして地下鉄サリン事件についても言及がありますが、アカのビジネスや、緑川の交わした悪魔との契約、そしてシロを殺した目には映らない何かも、かたちを少しずつ変えながら、この世界に存在するのだと。つくるは、過去と現在、非現実と現実を、ここで見つめているように感じます。ここから次作では、現実を生きる姿が見られるでしょうか。
中島
「ウェルカム・トゥー・リアル・ライフ」、ですね(笑)。


この記事の中でご紹介した本
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 /文藝春秋
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
著 者:村上 春樹
出版社:文藝春秋
以下のオンライン書店でご購入できます
2013年5月17日 新聞掲載(第2989号)
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