対談=鴻巣友季子×中島京子 恩寵のひとつのかたちとして 村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編 第2部 遷ろうメタファー編』(新潮社)を読む|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年3月31日

対談=鴻巣友季子×中島京子
恩寵のひとつのかたちとして
村上春樹『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編 第2部 遷ろうメタファー編』(新潮社)を読む

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二月二十四日零時、村上春樹氏の新作『騎士団長殺し』第一部・第二部刊行。二巻総発行部数一三〇万部。「随所でスペックが上がったハルキ・ムラカミという車の最新モデルを手にしているような気になる。(小野正嗣・朝日)」「全体の主題は「再生」。村上が村上でなくなろうとしている。(加藤典洋・日経)」ほか書評も各紙に勢ぞろいした。本紙では、翻訳家・文芸批評家の鴻巣友季子氏と作家の中島京子氏に、熱く鋭く切り込んでいただいた。多様に多角的に、村上作品世界をお楽しみください。 (編集部)

文体の冒険の終息―重 みある一人称への回帰

中島
 『騎士団長殺し』、楽しく読みました。鴻巣さんは三月六日の日経新聞で「村上作品としてこの十数年で最も面白いものだと思う」と書いていましたね。
鴻巣
 前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、情景描写が少なく、密室劇の連続のようでしたが、今回は小田原の山の上を舞台に、風景論や比喩を多用した生活描写もあって、ユーモアも『ノルウェイの森』の頃の雰囲気が戻ってきました。そして「私」という一人称に戻ったことで、文体に安定感がありましたね。「村上春樹総棚卸」的な、ファンにはなじみ深いモチーフやテーマが散りばめられて、ある種の決算的な印象も持ちました。
中島
 青天の霹靂のように妻に別れを切り出された「私」が、次々に不思議な出来事に巻き込まれていき、「穴」の底へと身を沈め、そこで自らの抱える「闇」と対峙する。これは村上文学の定石のプロットですよね。繰り返し描かれている同じ骨格の物語なのに、謎を次々孕ませて、飽きさせることなく前へ前へと読ませるのは、やはり村上さんの文章技術の賜物です。
一人称に戻った文体について、鴻巣さんのご意見を聞かせてください。
鴻巣
 村上さんは、これまで二〇年近く文体の冒険を続けてきたと思うんです。九四~九五年刊行の『ねじまき鳥クロニクル』から、作品に部分的に三人称を取り入れ始めます。一人称の「僕」の語りの中に、入子状に、別の人物の話を三人称で入れるという構造です。そして、九九年の『神の子どもたちはみな踊る』で全編三人称になりました。これは短篇集で助走をつけたような感じですね。二〇〇二年の『海辺のカフカ』では、ナカタさんの章が三人称で語られ、〇四年の『アフターダーク』で「私たち」という一人称複数視点、俯瞰視点を獲得しました。これはどこにでも行くことができる「神の視点」で機能上の三人称複合視点です。『アフターダーク』は恐らく、村上さんが文体の開拓を続ける中で、文体の移行過程を、作品を通して透かし見せるようなものになったのではないか。文体の翻訳、もしくは人称の翻訳のようなことをしているのだなと、翻訳者の立場から見て、とても興味深かった作品です。そしていよいよ次は「総合小説」を書くと発言され、初めて長篇で全編三人称が使われたのが、〇九年の『1Q84』。ただ、この作品については、海外のクリティックでも、三人称は失敗だったというものをしばしば見ました。

村上作品は初期から、これまでの日本文学にはない、海外小説のような文体が特徴であるといわれてきましたが、英語の構造と本質部分は大きく異なるんですよね。彼の精神的な文体は、一人称一視点の、日本語的なものなんです。それをなんとか三人称多元視点に移行しようと、試行錯誤を続けていらした。でもその「文体の冒険」は、ひとまず終息したのではないかと思います。ご自身が理想としたゴールを達成できたかといえば難しいとは思いますが、ものすごく意味のある二〇年間だったし、重みのある一人称への回帰です。より成熟した、深みのある、端正な文体へ今回戻ってきました。
中島
 今作の前に、村上さんの自伝的な『職業としての小説家』を読んだのです。とても面白くて、村上さんは小説というものを、とにかく自分の中に潜って潜って、それこそ穴の底に潜るようにして汲み上げてくるものだ、と考えている。その強い信念を改めて知ったんですよね。「総合小説」で何を目指していたのかは分りませんが、くっきりと他者を描くような三人称小説を目指してはいなかったのではないかと思います。いわゆる私小説とは違いますが、自分の中に潜っていって、とにかく自分自身を描く。視点人物以外も、登場人物は、決して他人ではないですよね。
鴻巣
 みな、ご自身の投影ですね。
中島
 もちろん一般的に作中人物と作家本人を完全には切り放せませんが、村上さんはそれが顕著で、そうした作品には一人称文体が合っている。それでも、書ける世界を広げようと苦心されてきたのだと思いますが、紆余曲折を経て、村上さんご自身、一人称への回帰をはっきり選択して書いておられると思います。
鴻巣
 村上さんが目標としていた作家の一人に、ドストエフスキーがいて、彼のような、対立する多数の声が響き合う小説、あるいはまなざしが交錯する作品を書きたい、と言っていたのですが、そういう方法で書くメンタリティに向かないところがあったのかもしれませんね。

例えば、桐野夏生さんは、書く自分と書かれるキャラクターをきっぱり分けられるし、長嶋有さんは、全知全能の語り手のような存在を、恬淡として受け入れて書く。でも村上さんは、そうした書き方への抵抗が強いのだと思います。
中島さんは、三人称を書くときは構えますか?
中島
 三人称も、一人称も、それぞれに構えが必要ですね。作品と文体は、分けられないものだと思うんです。内容やテーマ、様々なものが文体には一番表われてくるので。村上さんの書く小説の内容、テーマと一人称文体というものは、不可分だと思います。
鴻巣
 村上さんが表現したいのは、視点人物が見ているものしか読者も見られない、視野狭窄の世界ですよね。九〇年代の途中まで、いわゆる「デタッチメント」小説と言われていた頃は、この視野狭窄感が、物語のドライブになっていた。けれど、阪神・淡路大震災とか……。
中島
 オウムの地下鉄サリン事件とか。
鴻巣
 そうした大きな出来事が起って、社会派小説に寄ったことで、三人称多元文体が、切実に必要になったのだと思うんです。でもかたちは三人称でも、本質的には「私」と置きかえて通るような、擬三人称ではありませんが、三人称一視点文体にしかならなかった。今回は背景にアンシュルス(ナチスのオーストリア統合)や南京事件などはあっても、『ねじまき鳥』や『海辺のカフカ』のように、根源的な悪と対峙して殺めることも辞さない、というところまで外へ乗りだして行くことはなかった。あくまでコンセプチュアルなレベルでの「殺し」に留まっています。世界の巨悪と闘うのではなく、自分の中の「闇」や邪心、恐れ、妬心のようなものと対峙して、乗り越えて、封印する。内省的な書き方に回帰したことが、ある意味で成功したのでしょう。
中島
 村上さんは、自分の内にある「闇」と、その外側にある社会的な巨悪とは、実は底の方で繋がっている、と。昔から根本的なテーマは変わりませんね。掘って掘って、掘って掘って、もうこれ以上掘れないところまで、到達しているのかもしれません。けれど、さらに掘る。社会的な巨悪と闘うためには、自分を掘らなければいけない、さらに深めなければならない、と常に思っているのではないでしょうか。

「悪」と鏡像/高く繁っ た緑の草をかき分けて

鴻巣
 村上作品では、視点人物の中の「悪」や「闇」は、外部の悪と鏡像関係にあります。『ねじまき鳥』では綿谷昇が鏡像にあたり、今回は「白いスバル・フォレスターの男」がいる。この人物は、実際には謎ですが、東北を旅している最中、一夜をともにした女の夫ではないか、と「私」は思っている。

そして、「白いスバル・フォレスターの男」を、肖像画家としてかなり鋭いところまで描き込むのだけれど、筆を止めることになる。これ以上対峙してはいけない、深く洞察してはいけないと。でもいろいろな謎と問題が取りあえず収束を迎えた最後に、東日本大震災の津波の被災地を映し出すテレビ画像の中に、この男が映り込む。ホラー映画で、封印したはずの化け物が、窓外をよぎるかに。社会的に大きな出来事と共に登場させて、その存在が消えていないこと、対峙する日が巡ってくることを暗示しているように思います。

また、もう一人の鏡像は、免色渉という人物ですよね。「免色=色を免れる」と言われたら「色彩のない多崎つくる」を思い浮かべますが、祠の裏の穴を共に開いたこと、パートナーの去り方や、父親のはっきりしない妊娠など、いろいろな意味で主人公に重なる存在です。

でも、これまでのパターンでは、主人公の鏡像は、もっと邪悪な存在だったと思うんです。免色は礼儀と節制をモットーに、箍を外すことがない人物として描かれている。でも表面的な生活がクリーンで端正な分、その内面にものすごく邪悪なものを押し込めているのではないか。このネットやSNS活況の社会で、あれだけ成功していながら一件も情報がヒットしない。どんな仕事をしているのか分からないし、「私」の目で捉えられないから描かれていないけれど、裏でとんでもないことをしているのではないか。

免色が、血を分けた娘かもしれないと考える、秋川まりえという少女がいますが、地元の名士であるその父親は、宗教団体に骨抜きにされ、財産を切り崩されているらしい。もしかしたら、その宗教団体のバックに免色が関与しているのではないか、とまで妄想しています(笑)。
中島
 秋川まりえを手に入れるためにね。
実は、今回の作品の中に、人称が複数になるところがあるんです。
鴻巣
 騎士団長の語りの中の「諸君」ですか。いや、諸君は二人称ですが。
中島
 「諸君」もそうですね。もう一つ、地の文に「僕らは高く繁った緑の草をかき分けて、言葉もなく彼女に会いに行くべきなのだ」と。ここだけ「僕ら」なんです。これは文脈から素直に読めば、免色と「私」なのだろうと思いますが。村上さんは、鏡像という存在のさせかたを含め、一人称複数的な欲求が強いのではないでしょうか。
鴻巣
 これは発見ですね! そこまで地の文は、「私」だったのに、複数では「私たち」ではなく「僕ら」になっているのも、興味深い。

一人称複数小説というのは、歴史的に結構あるのですが、有名なところでは、フローベールの『ボヴァリー夫人』、コンラッドの『闇の奥』なんか、完全に「私たち」という聴衆がいます。日本の小説では、ときどき唐突に「私たち」が出てくるのが、辻原登さんの『許されざる者』。私たち小説の系譜、というものが確実にあるんですよね。

そもそも古代ギリシャ劇には、コロスという、観賞の手ほどきや登場人物の声を代弁する役割がありました。「私たち」という立場で、観客の代表者的な立場にも身を置きつつ、物語る役割を持つ者たちです。物語の前から観客がいなくなり、コロスの役割が切り離されていったとき、それが単なる三人称に接近していった。歴史的にいうと、観客がいなくなった劇を、私たちは三人称小説として目にしているのだと思うのです。小説の中にときおり一人称複数文体が表れてくるのは、その名残、あるいはある種の回帰という部分もあるのでは。

今、中島さんが指摘された「僕ら」は、象徴的ですね。免色と「私」だけならば「私たち」でいい。そこに動員されるのは、彼らだけではないかもしれない。そして、会いに行くべき「彼女」にも、きっと様々ものが含まれている。
中島
 まりえも亡くなった妹の小径も、生まれてくる子どもも、その他いろいろな存在が。
鴻巣
 自分たちが求めている誰か。自分との繋がりがあるかもしれない誰か。何かそういう存在を、僕たちは探し求め、会いに行くべきなのだと。そうした抽象的なステートメントに思えます。

画家の視点、作家の視点 書くものと書かれるもの

中島
 そして今作の主人公は肖像画家ですね。これも面白い設定でした。一般に小説家は、画家を登場させることが多いです。何かを描き出す者として、作家の分身の扱いで。だから手法として全く新しいというわけではないのですが、画家の視点をうまく駆使し、一人称文体に乗せている。
鴻巣
 ただの画家でなく、肖像画家であるところがポイントですよね。人を描くという、ここにも鏡像・分身のモチーフが表われている。例えばオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』は、書かれたモデルと肖像画が一体となって、モデルの代わりに肖像画が歳をとったり醜悪な顔になったりしますね。また、他人の肖像を描くというのは、ほとんど自画像を描くことだ、と明言している作家もいます。
中島
 今回、肖像画家というモチーフを引き入れた段階で、書くものと書かれるものの関係性や、村上さん自身の創作論が描き込みやすい構造になりましたよね。
鴻巣
 当然、自らの作家論を投影していると読んでいいと思います。ただ小説上で語られる理念と実践が一致するかは別の話で……。主人公が肖像画を通して、免色の中の描くべきではなかったものまで引きずり出してしまったように、村上さんは登場人物たちの人間像を描き出すことができたのかどうか。

どうも「私」が語る自分自身と、読者が読まされる人物像が、乖離しているように感じるんです。「私は人見知りをする性格で」といいながら、「機会をつかまえて」女性を誘い、妻に別れを告げられてからすぐに二人の女性と関係を持っていることとか。慎重で二度より三度考えるタイプだ、といいながら、アトリエで少女と二人きりになり、おっぱいトークをしていることとか。

このまりえとの会話は、『1Q84』で、青豆と行きずりのバーの男がする会話と同じです。私の胸って小さいでしょう、という話から、男の性器の大きさの話になる。これと全く同じようなセリフを十三歳の少女にいわせるのは、いかがなものか。しかも隣の部屋には、まりえの叔母の笙子がいる。アトリエのドアを閉めて、まりえと二人きりになるのも、隣の部屋に叔母がいるのに、あけすけなトークをしてしまうのも、慎重な人間だと言うわりに、脇の甘さを感じてしまう。

理想の自己像と現実との乖離をわざと描いて、批評的に晒すというやり方はありますよね。前述の『ボヴァリー夫人』がそうです。自分のことを美意識の高い女だと思っているけれど、客観的には、意識高い系だけど中身がついていかない女性だということが読者に分かるように、フローベールは描いています。村上さんも、「私」に対する批評的な視点を加えて、書いているのか。

また免色は、非常にディセンシーのある、品のいい人として描かれています。自分のことは多くを語らず、何事においても箍を外すことのない人物。ところが、かつてのパートナーとの濃密なセックスについて、なぜか異様に饒舌に語るのです。作者の人物造形のミスなのか、実際はもっと慎み深く語られた事実に対し、語り手の筆が滑ったのか? 二人の真の姿を読者に透かして見せているのか? 悩ましいところです。 

あたたかいセックスの恐れと親になりたい男たち

中島
 私はそれでいうと、「私」と柚の夫婦関係がしっくりこないんです。
鴻巣
 はっきりした理由は語られず、別離が実現しますよね。
中島
 細かい話になりますが、「別れてほしい、付き合っている人がいる、私が家を出て行く」と妻が言って、「ぼくが出ていく」と夫が言う。それはありそうだと思うんです。一人残されるのは嫌なものだから。でも、その家に、女が住み続けるでしょうか? 相手がいるのだから、その人と一緒に暮らすために出て行くんでしょうよ。家の鍵までそのまま夫に持たせておいて、いつでも帰ってきていいのよ、ここはあなたのうちでもあるからって。
鴻巣
 非常に曖昧な関係ですよね。「去る女」というモチーフは、これまでの村上作品に繰り返し表われていますが、今回は作品の冒頭で、九ヶ月の別居の後に元のさやにおさまることが明かされている。
中島
 「Blessing in disguise」という言葉が出て来るでしょう。
鴻巣
 「偽装した祝福」、「禍福は糾える縄の如し」。
中島
 物語全体を貫くキーワードのように思うのですが、妻に切り出された別れを「禍」と、それをきっかけに生活のための肖像画描きから、本物の画家として生まれ変わるチャンスを「福」と捉えることもできますね。妻は夫を突き放して創作に立ち戻らせようとしたのか。
鴻巣
 「私」は、肖像画界では自分なりのメソッドを確立し、地位を獲得している。肖像画を求める客は少なからずいて、生活は安定している。技術的には何でも描けるけれど、画家としての情熱は失われている。そのことが妻の離れていった理由なのかもしれないという予測はできますね。

これを作家としての村上春樹さんに重ねあわせると、村上さんも、文章に対して、技術や経験、メソッドが確立され、名声も本の売り上げも世界のトップクラスです。でも本当に自分の書きたいものを書いているのかといえば、書かずにはいられないという、情熱は失われているのかもしれない。そういう自分を危機的に察知して書いている、とも読める気がします。
中島
 だからこれは一つには、「私」が創作への情熱を取り戻すための物語。セックスフレンドの人妻も、都合よく出てきて、都合よく去って行きます。出て来る女性たちみなが、主人公の超えるべき試練のための配役に過ぎない、といってはいい過ぎかな。

そしてなにしろ、なんだろう、このセックスの多さは、と思いますよね。
鴻巣
 多いよね~。
中島
 奥さんと別れた途端、八ヶ月ほどのあいだに二人のセフレ。でもつまりこの物語は、セックスが妊娠と結び付くことを恐れている男性の、その試練を克服する物語でもあるのではないかと。そんな風に深読みされたくないかもしれませんが、妻が子どもを欲しがらなかった、と「私」は語っているけれど、本当に欲しがっていなかったのは男の方だと思うんです。「私」にとって、セックスは妊娠を切り離してもらわないとやれない、というようなものだった。受け止められるようにならなければいけないんだけれど、できなくて、別れを告げられて……。「私」にとって女とは、その場限りで消えていく快楽としてのセックスか、あるいは大人になれなかった妹か、どちらかなんですよ。
鴻巣
 十二歳で亡くなった妹への近親相姦的なものはどうしても感じるんですよね。「私」が妻の柚に惹かれたのは、妹の小径と同じ目の輝きだった。また妹の死の影響で、大きな胸を持つ成熟した女性を恐れている。そして妹の鏡像の一人が、まりえでしょう。最後のほのかに性的なシーン、繰り返されるおっぱいトーク。

読みながら、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のフィービーを思い浮かべたのですが、彼女もホールデンにとって、単にかわいい妹、あるいは亡くした弟の代りではなく、それを超えた近親相姦めいた感情があったと思うんです。

中島さんがいうように、とにかく処女作からずっと、妊娠した女性は中絶するか、告知しても拒絶されるか、あるいは妊娠の間に自殺してしまう。性交―妊娠―出産の流れが繰り返し断ち切られ、ペアレントフッドの挫折が繰り返し書かれてきました。でも加齢のせいか、ここへきて「親になる」ということに、照準が合わせられてきている。ただやはり、普通にことをなして、妊娠して出産するという一続きのコンセプトは躊躇われるんですね。だから「神の子どもたちはみな踊る」では、完璧な避妊をしているのになぜか妊娠してしまうから、これは神の子だ、ということになる。
中島
 「蜂蜜パイ」では、親友の後釜のようなかたちで、シングルマザーと結婚し、娘を持ちますね。
鴻巣
 『1Q84』は、天吾が夢の中でふかえりと交わって、なぜか青豆が妊娠する。ただ天吾が、青豆の子を自分の子として受け入れて、そこで初めて祝福される妊娠が描かれましたが。そして今回は……。
中島
 子どもが生まれましたね。しかも鴻巣さんがかつて希望された通り(笑)、主人公が保育園の送り迎えをしている。
鴻巣
 ついに村上春樹の主人公が保育園の送り迎え、とは画期的ですよね。だけど、今回も夢の中の交わりでしょう。
中島
 しかも生々しいリアルな夢の中で、妻をある種強姦している。本当に嫌なのね、子どもを作るためにあたたかいセックスをすることが。
鴻巣
 それに対する恐れを感じますよね。

暴力衝動、閉所恐怖、妊娠恐怖、代父、父殺し

中島
 作中に描かれるセックスはとても偏っていて、暴力的なものがいくつもありましたよね。そのピークが、宮城県の海岸沿いの小さな町での一夜の情事。「私」は、暴力的なセックスの誘いを拒否できない。同時にそういう自分の暴力衝動、殺人衝動を怖れている。その後、「白いスバル・フォレスターの男」に「おまえがどこで何をしていたかおれにはちゃんとわかっているぞ」と心の内を見すかされているように感じ、脅える。その存在を見極めようと肖像を書きはじめるけれど、途中で「これ以上なにも触るな」「このまま何ひとつ加えるんじゃない」と絵に言われているようで、未完に終わる。つまり「白いスバル・フォレスターの男」とは、「私」にとって、自分の内なる闇を映す鏡であり、向こう側に押しとどめている暴力衝動の象徴なんですよね。そういうセックスじゃないと楽しめないし、いけない人に感じられる。「私」は、あたたかいセックス、結婚して、子どもができるといいな、と思いながらするセックスを、受け入れることができない人だった気がするんです。
鴻巣
 暴力的なセックスは、妻への嫉妬からくる憎悪の転化、というところもあるんでしょうね。
中島
 免色とともに顕わにする祠の裏の穴は、女性器のようにも見えるということでしたね。閉所恐怖症の「私」は、最終的にあちらの世界へ入っていき、〈二重メタファー〉や〈顔のない男〉と対しながら、洞窟の中で、どんどん狭まっていく横穴を、体がボキボキに折れるくらい圧迫されながら進み、そして壁を突き抜ける。それを達成することで、まりえはこちらの世界に戻ってくるし、子どもが生まれてくる。やはり、この一連は性交のメタファーでもあり、閉所恐怖と、セックスから妊娠に至る恐怖は、繋がっている感じがするんです。
鴻巣
 「私」の閉所恐怖症は、小さな棺桶に横たえられた妹の姿がきっかけですが、これはポーの「早まった埋葬」恐怖に近いように思います。この閉所恐怖あるいは墓所恐怖がセックス恐怖に通じているのは、ポーも同じです。そしてポーも近親相姦的な関係性を書くでしょう。

しかし「私」は、異界巡りによって、ひとまず妹の死や閉所恐怖とともに、セックス恐怖を克服して、親になることを選択する。

代父のテーマは、この二〇年ぐらいずっとちらついていました。『ダンス・ダンス・ダンス』にはユキという、霊能力のある美少女が出てきますが、あれも主人公はユキに守られながらも、ある種保護者の立場だった。それを推し進めると、「蜂蜜パイ」の養父になる。今回、先に進んだと思うのは、「私」も免色も、自ら親になりにいくところです。これを私は「押し掛けヨセフ」問題と呼んでいます(笑)。

ヨセフとは聖母マリアの婚約者です。マリアが処女懐胎したとき、ヨセフはマリアと結婚して、イエスの父になりますね。

「これまで血縁というものに興味を持つことはありませんでした」という免色も、DNAの事実にどれほどの価値があるだろうという「私」も、これまでの登場人物たちは、生の中に存在する死や失われたものだけを見つめていたのが、命を繋ぐ、育てるという、生物の本能のようなところに向っている感じがします。
中島
 今回は雨田具彦という日本画家を通し、老いも描かれましたね。少しずつ死んでいく命と、DNAだけでなく、受け継ぐべき何か。一方で、「父殺し」のテーマも引きずっている。
鴻巣
 『1Q84』では、天吾と父の直接的な対峙がありましたし、少なくとも著者の今世紀の作品では、繰り返し「父殺し」が描かれてきましたよね。今回も「邪悪な父殺し」という言葉が出てきました。
中島
 雨田具彦が天井裏に隠していた「騎士団長殺し」と題された絵画、これはオペラ「ドン・ジョヴァンニ」を日本画に翻案した作品ということでしたね。この絵の封印を解いたところから、全てが始まったともいえますが。この歌劇自体は、どのように繋がってくるんでしょう? 
鴻巣
 干渉してくる父、というモチーフは背後にあるかもしれませんね。モーツァルトの父はとてもうるさい人で、この歌劇にはモーツァルトが父親を投影しているのだろうといわれています。それが有無をいわせず支配してくる存在、邪悪な父のメタファーとしてあり、拡大すれば父性原理によるファシズムや、軍国主義に繋がってくるのではないでしょうか。
中島
 しかし今回は「邪悪な父」=「白いスバル・フォレスターの男」や〈顔のない男〉〈二重メタファー〉との対決は、預かり状態になっています。これらは村上さんの書かねばならぬものとして常にあって、でも今すぐには描けないと表明されている。私はこのかたちで第三部が出ることはないのではないかと思いますが、「いつかまた挑戦する」と。もし第三部があるなら、Blessing(恩寵)は子どもにあたる気がするから、先がちょっと怖いなぁ。

非現実と不条理を構築する比喩とディテール

鴻巣
 私は今作も、『ねじまき鳥』や『1Q84』と同じく、第三部があるのではないかと。もし書かれるならば、二部までと全く違うタッチで書いて欲しい。今作は村上春樹総決算で、あらゆるアイテムが出るわ出るわ。全てを絞り切るぐらいのつもりで書いたのではないか。そう仮定すると、次に何がくるのか楽しみです。

ただ、村上さんが散りばめてくる酒の銘柄や車のブランド名、曲名、文学作品、そうした嗜好は文体同様、作家に染みついたものですね。フィクションとしてのディテールさえ確立できていれば、いくら突拍子もない非現実なことが起こっても、リアルを感じることができる。でもそうして、具体的な固有名詞を並べて、私たちが住んでいる現世との繋がりを補強しながら書いているのに、何かすっきりしない。もしかしたら、補強材の力が弱くなっているのかもしれません。昔は一曲で、時代の空気を感じ取れるような曲がぴしっと書きこまれていた。バドワイザーが七〇年代の小説に出てきたらイケていた。でも、最近はカティサークもシーバスリーガルも、村上ファンにはおなじみかもしれないけれど、読者のどれだけが、身近なものとして共感を持てるのかな? 

以前、翻訳したアメリカの作家の作品は、核戦争後の終末世界の話だったんです。全てのものの繋がりや辻褄や因果関係が壊れた世界の中で、ヒロインが盛んに比喩を使います。とっ散らかって因果関係が破壊された世界を、自分の持てるロジックで必死に繋ぎとめようとしているのだと感じました。村上さんの比喩の多様も、理不尽や非日常に対抗して、自分なりに世界を繋ぎ止めるための手段なのだと思います。思うのですが、ややモチーフの接着能力が落ちて、フックが効かなくなっている感じがするんです。
中島
 文学も、上田秋成以外はファッションのようにしか出てきませんね。森鴎外とか。

話の筋に関係ないですが、「プルーストは、その犬にも劣る嗅覚を有効に用いて長大な小説をひとつ書き上げました」という「私」流のユーモアが気になっていて。確か他の作品でも、長い長い廊下の比喩でプルーストが使われたことがありました。村上さんにとってプルーストは「長い」という形容詞だな、なんて(笑)。
鴻巣
 私が注目したのは、イデアの騎士団長の話し方。「~ではあらない」とか風変りなのよね。飛鳥時代の話し方なのかと思いきや、「あたし」とか「ていうか」などと、現代語が混じる。これまで、村上春樹の登場人物の話し方は、不自然だと批評されてきました。これはそれに対する、一つのアンサーなのではないかと。文中にも「絵からそのまま抜け出してきた身長六十センチの騎士団長がそもそも普通の人間であるわけはないのだ。だから彼がどんなしゃべり方をしたところで、驚くにはあたらない」と書かれています。つまり小説の登場人物は全てフィクションなのだから、いるわけのない人間が、あり得ない話し方をして何がいけないのかと。

また、翻訳における「役割語」や架空の方言に対する揶揄も含まれているのではないか。例えば、黒人が出てくると自動的に「~ですだ」、お嬢さんが出てきたら「よくってよ」など翻訳小説では訳されることが多々あった。騎士団長や顔ながの話し方は、本当にヘンテコで、いい意味で架空方言を作り損ねたような、異世界感がありました。
中島
 ちょっとおかしかったけどね。

もう一つ気になっているのは、妻が別れを切り出すきっかけとなった「現実と夢との境目がわからないくらい生々しい夢」。小説の中にそういうものが書かれたとしたら、これは、「私」が見た生々しい性夢との符号を、読者に想像させると思います。でも日付がずれていることを除いても、うまく符号させられないんです。妻の存在がどうしても整理されていないというか、行き当たりばったりに夢を見させた感じが残ります。
鴻巣
 この物語は表看板は自分の中の闇との対峙だけれど、たぶん、とにかく「私」が紆余曲折の末、親になる物語なんですよ。妻はそのためのパーツ? これは最初に、エンディングが明記された物語でもあって、回収されることが分かっている、男性が親になるための、イニシエーション小説なのではないか。
中島
 やはりあの穴は女性器で、そこを通り抜けるイニシエーションは、「私」にとって、生殖のためのセックスを受け入れることだったのでは、と読めますよね。いずれにしても妻の描き方が足りないように感じるのですが、それも全て主人公の語りに過ぎないわけですから。逡巡や紆余曲折は事実でも、本当は妻が妊娠した、といったので、怖くなって逃げてしまった男の話、だったのかもしれない。
鴻巣
 一人称小説の、この人の言い分からしか分らないですしね。もしかしたらそういうドラマがあったのではないかと勘繰らせてしまいますよね。
ともあれ、闇との対峙も、妊娠・出産のテーマも、今後に引き継がれていくでしょう。

村上さんが自分の内側を掘り進めていったその先が、現代的な民族対立やテロ、ナショナリズムの台頭のような、私たちが切実に直面している問題を意識させるものに繋がれば、と期待しています。

また、生まれてきた子ども「室」はとても物わかりのいい賢い子で、今のところ村上世界の調和のために生まれてきたように見えますが、その調和を破壊するような、子ども像を描いてくれたらうれしいですね。
中島
 とにかくデビューから約四〇年で、ようやく子どもが誕生(笑)。
鴻巣
 子どもの成長と、主人公の加齢を、見守りたいですね。
2017年3月31日 新聞掲載(第3183号)
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