抑止する力 / マッシモ・カッチャーリ(月曜社)「カテコーン」の概念の解釈を主題に 〈世界の再宗教化〉をどう捉えどう向き合うべきか|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年3月31日

「カテコーン」の概念の解釈を主題に
〈世界の再宗教化〉をどう捉えどう向き合うべきか

抑止する力
出版社:月曜社
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抑止する力(マッシモ・カッチャーリ)月曜社
抑止する力
マッシモ・カッチャーリ
月曜社
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マッシモ・カッチャーリは、学生時代にドイツ哲学を深く学びつつ、一九六〇年代のイタリア左翼の新理論潮流オペライズモ(労働者主義)から生まれた、議会外左翼の政治党派ポテーレ・オペライオ(労働者権力)のメンバーだった。カッチャーリは工場労働者たちを組織化するための政治パンフレットを、評者が知る限り一九六九年に二冊編集してそれぞれに長い序文を載せている。この時期、彼はルカーチの階級意識論=階級形成論の強い影響下にあった。その背景にはアントニオ・ネグリの指導があったはずである。カッチャーリは初期ルカーチ政治論集の編纂作業にも従事し、一九七二年に詳細な解説をつけてイタリア語訳を刊行している(その後この解説はハイデッガー論やヴェーバー論と一緒に『否定の思考と合理化』〈原著1977、以下、算用数字は原著〉に収録された)。彼が所属していたポテーレ・オペライオは、七〇年代に入るとメンバーが起こした赤色テロ事件(少年二人を焼殺)の責任追及やその後の対応をめぐり分裂・解体した(一九七三年)。

この時期は、六八年の学生反乱(大学占拠)、六九年の青年労働者の街頭闘争(暑い秋)、そして七〇年の労働者憲章制定という勝利をかち取った直後だ。しかし六〇年代オペライズモは、創始者のマリオ・トロンティを中心とする穏健派とネグリを中心とする急進派とに大きく分裂していく。穏健派は〈政治的なものの自律性〉論を唱え、この勝利を狭い意味での政治(国政選挙)に反映させることを考えた。急進派は〈労働者の自律性〉を唱え、この勝利を更なる街頭反乱から「ブルジョア国家の破壊」としての革命へと牽引することを志向した。カッチャーリはトロンティと歩みをともにした。トロンティは、イタリアの経済危機が一層深刻化した一九七〇年代前半から後半にかけて、イタリア共産党の活用、すなわち保守のキリスト教民主党と共産党の大連立政権の必要性を訴えた。こうしてカッチャーリは、新左翼出身者でありながら共産党に入党するという世界的にも珍しい道を歩んで下院議員となった(一九七六年から八三年まで二期務めた)。哲学者、思想家としてはかなり異質な経歴と言えるが、そこにはトロンティ流の〈政治的なものの自律性〉論による裏付けがあったのであり、彼はイタリアで時々言われるような「日曜哲学者」などでは断じてない。

共産党に接近を図ったこの時期にカッチャーリは重要な哲学書を次々と出しているのだ。先に挙げた『否定の思考と合理化』以外にも、『クリージス――ニーチェからヴィトゲンシュタインまでの否定の思考の危機についての試論』(1976)、『弁証法と政治的なものの批判――ヘーゲル試論』(1978)などがある。彼がヴェネツィア市長を務めたことはよく知られている(一九九三―二〇〇〇年、二〇〇五―一〇年)。またベルルスコーニがイタリアに君臨していた時代には、彼の対抗馬として中道左派連合の首相候補に名前が挙がったこともある。カッチャーリが七〇年代にオペライズモ穏健派として、国会議員になることでいわば〈制度への長征〉を行なったのは、オペライズモ急進派のアポカリプス的な(とおそらくカッチャーリにはうつったであろう)革命願望を批判する意味があっただろう。

本書『抑止する力』は、政治神学の著作であり、カール・シュミットの『大地のノモス』における「カテコーン」という概念の解釈を主題としている。カテコーンとは、『パウロの名による書簡』のうち「テサロニケ人への第二の手紙」に出てくるものだ。パウロによれば「主の日」(最後の審判の日、つまりはこの世界の終末)が到来するには、まずイエスに「敵対する者」、すなわち反キリストが登場しなければならないのだが、この者の登場を「抑えている者」あるいは「抑止している力」があるというのだ。だからテサロニケの兄弟たちよ、「主の日はすでに来ている」と言われているのを耳にしても、すぐに理性を失って動揺したり、うろたえたりしてはならない、と。

この「抑止する」主体が具体的に何であるかについては諸説あった。神、神の意志、神に敵対する勢力、ローマ帝国などだ(『パウロの名による書簡』岩波書店、四〇頁の注一七)。シュミットは、カテコーンとはローマ帝国のことだと解釈している。「この帝国の継続性において決定的にして歴史支配的な概念は、抑止する者の概念、すなわちカテコーンの概念である。この場合、「帝国」は、反キリストの出現、および現在の時(アイオン)の終末を抑止しうる歴史的な力を意味している」と(『大地のノモス』上巻(福村出版)、二九頁)。

それにしても「カテコーン」は奇妙な概念だ。キリスト教は、イエスが復活し最後の審判が行なわれることにより救われる者が永遠の命を得ると考える終末論的な世界観をもっている。単純に考えれば、この世界が一刻も早く終わってくれる方が良いだろう。ならばイエスに敵対する者、反キリストにも早く登場してもらった方が、最終戦争の到来も早くなるはずだ。アポカリプス的な破局待望論とも言える。しかし、だとするならば、なぜ敵対する者の登場を「抑止する力」としてのカテコーンが必要となるのか。ここにアポカリプス的思考へのカッチャーリの批判が読み取れるのではないかと評者は考える。

イタリア現代思想には、シュミットの「カテコーン」論を再考する解釈史の流れがある。その前史はドイツのヤーコプ・タウベス『パウロの政治神学』(岩波書店、1993)だが、評者が知る限りでは、これを承けてジョルジョ・アガンベン『残りの時』(岩波書店、2000)、ロベルト・エスポジト『インムニタス[免疫]』(未邦訳、2002)、カッチャーリ、トロンティ共著『歴史の十字路にある神学と政治学』(未邦訳、2007)、パオロ・ヴィルノ『ポストフォーディズムの資本主義』(人文書院、2008)、ネグリ=ハート『コモンウェルス』(NHKブックス、2009)、そして本書『抑止する力』(2013)などがある。政治神学的な観点からカテコーンの解釈について最も熱を込めて主題的に論じているのは、もちろんカッチャーリの本書である。

それにしても、なぜ現代イタリアの左派思想家たちは、二〇〇〇年も昔の聖書の解釈に熱中するのか。やはりそこには、二〇世紀末以降に明らかとなってきた〈世界の再宗教化〉という現象の進行をどう捉えどう向き合うべきかという切迫した問題意識があるからだろう。カッチャーリの議論に今日アクチュアリティを与えているのは、〈政治的なものの自律性〉論に駆動されて職業政治家となった哲学者が、その政治哲学的思考の延長線上で政治神学的な問題に正面から取り組んだことである。

最後に、キリスト教神学に深く通じた人でもなければ読み通せそうにないほどの専門書と思われる本書を(何しろ本書の後半三分の一は、キリスト教神学の原典資料なのだ)、評者がどう読んだかを述べたい。シュミットは前掲書でカテコーンについて、こうも書いていた。一九世紀に世界の工場と呼ばれた全盛期の「イギリスは」、しかしその後「インドへの道や地中海という一定の地域についての伝統的な権力になった。ここにおいて、それは、カテコーン(……)の役割を演じた。それに対して、大規模なグローバルな力の遂行については、この小さなヨーロッパの島国はあまりに無力であった」と(『大地のノモス』下巻、三三二頁)。その後、世界政治のヘゲモニーは周知のように米国に移行する。シュミットの議論に従えば、二〇世紀とりわけ第一次世界大戦以後、米国が世界のカテコーンの役割を果たしてきたということだ。

しかし二一世紀の今日では、米国の国力は明らかに衰退過程にはいり、世界は米中二極構造へと移行すると予測されている。米国への対抗の意味もあったEUは、昨年の英国の離脱に見られるように明らかに解体過程に入りつつある。しかも国際政治を舞台として中東のイスラム過激派や軍事的覇権を求め始めた中国、ロシアが、この世界に最終戦争をもたらすのではないかという不吉な予想も流布するような時代となっている。しかもそうしたアポカリプスを抑止する力としてのカテコーンは今や存在しないのかもしれない。

カッチャーリは、そのような時代だからこそ、カテコーンの「抑止する力」に注目するのであろう。しかし、それは、テロや軍事的衝突を「抑止する」米国や西欧の軍事力への期待などではあるまい。そんな単純な話ではない。カッチャーリが注目するのは、それがキリストの側であれ反キリストの側であれ、アポカリプス的な破局を待望する者たちの突出を抑止する思想としての政治の力なのである。(上村忠男訳)
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2017年3月31日 新聞掲載(第3183号)
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