「スピリチュアルケア」 としての世阿弥論|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2016年7月15日

「スピリチュアルケア」 としての世阿弥論


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副題にある「身心変容技法」とは、「身体と心の状態を当事者にとってよりよいと考えられる理想的な状態に切り替え変容・転換させる諸技法(ワザ)」を意味する(16頁)。著者は、人心が乱れ天変地異が頻発する現代を「第二の乱世」として憂う。そして、その克服のカギを「第一の乱世」である南北朝時代を経て世阿弥が編み出した「能」に探る。いかに「能」を今日的意義を持つ身心変容技法として再評価できるか、そこに本書の眼目がある。

一般的な想像に反して、著者は世阿弥の思想を安易な神秘主義的言説からは語り始めない。まず、『風姿花伝』や『花鏡』を中心に、世阿弥の一次文献をあくまでも合理的な実践知として読み込み、時代や社会を超えた普遍的な道理として分析する。例えば、成長段階に応じた稽古の最適化、演目や役柄における演技の最適化、観客との関係における演技の最適化など、世阿弥の様々な調和理念が考察される。やがて、それらは「臨機応変」というキーワードへ収斂し、極意としての「花」として読み解かれることになる。

世阿弥思想の奥儀と指摘される「目前心後」や「離見の見」(≒自己超越の境地)、そしてその先にある「無心の位」(≒無為自然の境地)についても、著者はやはり敢えて神秘主義的解釈に頼らない。あくまでもリアルでフィジカルな認知の問題として読み解くことにより、この主観と客観の自由な弁証法的統合は「臨機応変」の基盤的心理状態として幅広い分野への適用可能性を示唆されることになる(なお、これは「ゾーン」と呼ばれる一種の極限的集中状態として解釈することができるのではないだろうか?)。

本書の最も興味深い点は、「能」が単なる芸能ではなく「平時の武道」であるという着眼である。つまり、「能」は攻撃性の暴発をコントロールする知と技であるからこそ洗練された鎮魂技術に転化しうる。そして、世阿弥が確立した、現実世界と霊的世界の二重構造において「幽玄」を追求する「夢幻能」は、一般的に知られる祝祷性と共に、世阿弥自身に縁深い南朝という敗者への鎮魂性の側面も持っていたと洞察される。

この鎮魂性という観点において初めて、「能」の最も神秘的な要素が考察される。それは、能管の最も鋭く強い最高音域としてのひしぎである。著者は、このひしぎは縄文時代の石笛に起源を持つと推測する。そして、その西洋音階では把握できない独特な乱調の音色と響きは、自然との感応・同化をもたらし、身心を調整し高揚させることにより、死者との交霊・鎮撫の回路を開く機能を果たすと喝破するのである。

こうした解釈を基本軸として著者はさらに視野を広げ、本領発揮ともいうべき神秘主義的観点も含めて、多様な身心変容技法の諸相を次々に分析していく。

神楽と能(申楽)の媒介としての春日大社「おん祭」の「細男」の舞、『古事記』における身心浄化法としての禊と詠歌、トランス誘発場及び原宗教と原芸術の発生場としての洞窟、瞑想・止観の内観的集中によるインドア的身心変容と天台千日回峰行や吉野熊野・羽黒修験道の山岳跋渉によるアウトドア的身心変容、現代の複式夢幻能としての土方巽の暗黒舞踏、武道を通じた身心修養としての宮本武蔵の『五輪の書』、近代合理主義批判としての柳宗悦の「神秘道」的民藝思想と岡本太郎の「シャーマン」的文明批評、下降的超越神話としての宮崎駿の『となりのトトロ』、身心のトランスをもたらす「行」としての空海の虚空蔵求聞持法と即身成仏、浄化儀礼としての大本の鎮魂帰神法と神道天行居の音霊法、等々……。

特に、『古事記』の「天岩戸」の隠喩である洞窟的待機空間としての「鏡の間」、憑依的変身をもたらす「面」、異界への架橋である「橋懸り」という、「能」における三つの身心変容の多重構造を読解する第三章「身心変容技法の起源としての洞窟」は、本書の白眉である。

結論として、著者は、負の感情を浄化する「幽の技法」としての「能」への終生変わらぬ「初心」的専心(「初心忘るべからず」)こそが、世阿弥に、七〇歳を過ぎて最愛の後継者である長男元雅に先立たれた上に佐渡へ流罪になるという想像を絶する不遇の中でもなお、最晩年の創作『金島書』において諦念的明澄さという花を咲かせたと解読する。「極めて臨機応変でありながら、終始一貫している世阿弥の生涯と思想、そこに『無心』と『一心』の統合を見るのは美しすぎるだろうか?」
2016年7月15日 新聞掲載(第3148号)
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