〈4月〉 二人冗語 シン・カゾク小説 現実対虚構|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文芸
2017年4月11日

〈4月〉 二人冗語
シン・カゾク小説 現実対虚構

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福島
  今月は話題作が多かったですね。一番の長編は笙野頼子「さあ、文学で戦争を止めよう 猫キッチン荒神」(群像)です。字余りの俳句のような題名ですが…。
馬場
  私小説でありつつ、政治小説・啓蒙小説で、さらには、熊野で拾った小石を神棚に祀り、猫の荒神の信仰を金比羅の生まれ変わりの自分が創始する宗教小説!? 語り手として実体化した「登場神物」の猫神/荒神に促されて、「主人公」は「肉声」を発し始めるのですが、まるで世直しを叫ぶ教祖の「おふでさき」を思わせる。猛烈な勢いの口語文体です。
福島
  ニーチェの「ツァラトゥストラ」ぐらい饒舌です。TPPと戦争と原発に抗うために文学で呼びかけようという反時代性や戦争前夜という危機感も似ています。実際「投資家視点による人間の資材化」がすべての元凶だという認識も正しいでしょう。過剰なリトルネロはしばしばノイジーですが、「タフなカナリア」としてやぶれかぶれにでも叫び続けていって欲しいものです。
馬場
  カナリアが鳴かなくなったら、一目散に逃げるしかないですからね(笑)。
福島
  それと見逃してはならないのは、この作品が家族小説でもあるということです。笙野にとって代々の猫たちは愛玩対象としてのペットではなく、紛れもなく家族です。実家時代の辛い食卓、父母から受けてきた数々の痛みと恨みの果てに、彼女が人生で初めて得た安らぎが猫との同居です。
馬場
  今村夏子「星の子」(小説トリッパー)も、いわゆる家族小説ですね。
福島
  水を奉じる新興宗教にはまった両親のもとで育った少女の話です。自我の目覚めとともに早々に家出した姉とは対照的に、妹のちひろはからかわれながらも普通の友達も作り、両親と暮らし続ける。前作「あひる」でも、両親が熱心な信者で、弟は家出しているという設定でした。「わたしあみ子」では母親がうつ病で、兄はやはり家出し、父親もやがてあみ子を疎んじていくという話でした。今村の作品には両親にも兄弟姉妹にも精神的に遺棄された子どもという主題が変奏されているように見えます。
馬場
  あるいは無神経な愛情を注ぐ親と、それを見捨てられない子どもなのか。「星の子」で叔父と姉が水を公園の水とすりかえて両親が激怒する話に端的で、うさんくさい宗教であることは明らかなのに…。
福島
  そうですね。他人の幻想に付き合うというのも彼女の作品に共通するもう一つの主題です。「ピクニック」では、有名お笑い芸人と付き合っているという七瀬さんの発言を、ルミたちバイト仲間が一丸となって支えます。「星の子」で教団の人気者の海路さんも怪しいのに、みんな追及しない。また、「あひる」でも病院から戻ってきたアヒル「のりたま」の同一性が怪しいのに誰も追及しない。ぼんやりと信じている体を維持する。
馬場
  その微妙なバランスが絶妙。
福島
  ただし、今回の「星の子」ではこうした「付き合い」の終わりも描かれています。結末の場面は、教団の合宿で、両親が高校進学を目前にひかえたちひろに流れ星を見ようと誘う。ところが、どうしても同時に見られない。両親が流れ星を見たと言っても、見えなかったちひろは見えないと答える。逆に、彼女が見えたと言っても両親は見えないと答える。流れ星を一緒に見られないのはよくある経験ですが、いずれにせよ、ちひろはもう両親に合わせられない。幻想を共有できないのです。
馬場
  最後は三人とも口々に「まだ見えない」と言っていて、この「まだ」は、絶対的なものではないとわかっているけど、同じものを見続けようという共同幻想への意志を確認したラストとも読めませんか。
福島
  家出や離婚というのは完全な切断ですが、家庭内で生じた不一致や対立を「まだ」という未来へと延期していく、その行為自体が実は家族なのかもしれませんね。一方、芳川泰久「やよいの空に」(新潮)は、切断によって痕跡だけになった家族を描いています。
馬場
  震災直後、パニック状態に近い心理で、飼い猫ニケを助手席に乗せて東京を飛び出した男の話です。道中、子供の頃に死なせた子猫の記憶がよみがえり、同じようにニケまでも死なせてしまう。それにしても今月はおひとりさまが猫と家族する小説が目立ちました…。
福島
  そして助手席にいる猫は、主人公の視界の中で、離婚した妻が連れて行った息子の姿に変わる。猫も息子も自分が殺してしまったという罪悪感から電話をかけてみたら、息子は震災のあった東北地方で元気に生きている。しかも父親は悔恨をずっと引きずってきたのに、息子は父親に恨みもないし、特段の愛情もない…。結局、誰も助けられないし、誰も助けてもらおうなんて思っていない。夜の濁流に投身自殺しようとした自分をドッペルゲンガーの自分自身が引き止める結末は、猫どころか、人は自分自身ぐらいしか助けられないという境地の表明でしょう。
馬場
  その自分自身を助けるどころか、首を絞めかねないのが又吉直樹「劇場」(新潮)の主人公・永田でしょうか。演劇の脚本家として成功を目指していて、芸術家肌で自意識過剰、しかも極端に知らない人と話すのが苦手という性格設定です。
福島
  本欄担当のO氏によると、下北沢の描写はほぼリアリズムとのことです。
馬場
  永田が運命的と感じた沙希との出会いのシーンやその後の関係性など、又吉のエッセイで二十代前半の「駄目な時期」に生まれて初めて知らない女性に声をかけたエピソードとして紹介されているのでこれも実体験かと。ただ、夏に青い実が落ちたのを同時に見たというきっかけが、画廊の外から子供が描いた「月と猿の絵」を見たに変わり、より深層を意識した出会いが仕掛けられている。永田の抑圧された「心=猿」が子供の絵によって「生命を震わせ」解放される。その瞬間、偶然同じ絵を見ていた沙希が目に入り自分の理解者だと信じ込み、手の届かない「月」ならぬ無垢な聖女にすがりつく! かくして解放の喜びに打ち震えた「心=猿」ですが、それが過ぎると文字通りの意馬心猿、嫉妬という悪鬼になる。中盤からはほとんどDV男の嫉妬です。
福島
  「ドラゴンボール」にも猿(=サイヤ人)が月を見ると、本能が解放され、巨大化して暴れまわるという設定がありました(笑)。
馬場
  気になったのは服飾の大学に通う沙希の部屋にあるミシン。永田の目には「御本尊」に見えていて、一緒に住むようになったときには、ミシンを「異物」のように感じている。ミシンといえば、徳田秋聲の「あらくれ」では女の自立を象徴していたのですが、本作では、洋裁店をしている実家から沙希が持ってきたミシンは、芸術家でいたい永田にとって、最も苦手とする世俗的な家と結びついているような。沙希には、自分は「人形」じゃないという、イプセン「人形の家」のノラみたいなセリフもあったので、一瞬、新しい女を期待したんですけどね(笑)。
福島
  無垢な女を壊してしまう男というのは類型ですが、自分が間違っていると思いながら相手を苛む自分自身を冷静に描写する場面は西村賢太に迫るものがありました。
馬場
  恋愛小説という触れ込みでしたが、沙希が東京から去るラストで、永田は彼女こそが自分の帰る「家」だった、ただそれだけでよかったんだと悟るので、家族になり損ねた二人の話とも読めます。そして窓に月が浮かび、二人の思い出の劇で使った猿面をつけて、沙希を笑わせようとする…。
福島
  別れの瀬戸際で、出会ったときの二人の距離である「月と猿」という構図に立ち戻る。虚構を現実とするための最後の努力です。
馬場
  虚構部分にこそ彼の生命力の根源があったわけですからね。最後の永田を支えているのは「演劇でできることは、すべて現実でもできるねん」という、「絶望」を回避するための「希望」なんです。
福島
  そう言えば、村上春樹『騎士団長殺し』でも、虚構を「信じる」ことで現実(家族)を構成する道が選ばれています。ただし、現時点では全ての現実に虚構(絵、小説…)で立ち向かい切れていないけれどいつか必ず…という実質的にはエピローグの「プロローグ」、敗北宣言かつ勝利予告付きですが。
2017年4月7日 新聞掲載(第3184号)
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