映画の倫理と受容、贖罪の物語  ジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ「午後8時の訪問者」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年4月18日

映画の倫理と受容、贖罪の物語 
ジャン・ピエール&リュック・ダルデンヌ「午後8時の訪問者」

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ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌの『午後8時の訪問者』で、女性医師のジェニーは、ある夜、研修医のジュリアンを叱る。その日の昼に、彼は患者の男の子の発作を見て動揺し、指示に応じられなかったのだ。「患者の痛みに反応しすぎるの。自分の感情を抑えなさい」と、ジェニーは注意する。その時、診療所の玄関のベルが鳴るが、彼女は無視する。診療時間を一時間も過ぎているし、急患ならまた鳴らすだろう。ジュリアンは怒って無言で出て行く。翌日、警察が来る。玄関のベルを押した少女が遺体で発見されたのだ。

医療は人間的な優しさと人間的な地平を超えた厳格さの両方を必要とする行為だ。医療は生死に関わり、薬の投与は人体に化学的に作用する。だが、患者の心の状態も治癒に影響を及ぼす。そもそも、医療は患者という人間に対する行為であり、患者の感情に寄り添わずに優れた医療などできよう筈もない。ジュリアンは人間的すぎて未熟なミスをする。反対に、ジェニーは厳格すぎて身元不明の少女を救う機会を逸し、さらにはジュリアンも傷つける。ただし、ジェニーも普段は十分な優しさとともに患者に接している。彼女は両面を併せ持ち、ただその日は、真面目で厳しい側面が過剰に出てしまったのだ。

ジェニーは死んだ少女の身元を単身で調査し出す。警察がきちんと捜査しているのだから、罪悪感に基づく彼女の個人的な行動はある意味で余計だ。この作品は犯罪映画ではなく、ヒロインの贖罪の物語を語っている。二重の償い、少女の弔いとジュリアンへの謝罪の物語だ。ジュリアンは一旦諦めた医学の道を、ジェニーに励まされて再び志す。少女の身元も判明し、事件の全貌が明らかになる。

発端となった罪はごく軽いものだ。診療時間を過ぎてベルに出ないのは、欧州では普通である。確かに、出ていれば少女は死ななかっただろう。だが、少女の死の原因はジェニーの行動とは無関係だし、事実、誰も彼女を責めていない。それでも、ジェニーは罪を重く背負って、少女の身元調査という贖罪行為に身を投じる。彼女のこの自分に対する厳しさを通して、観客は映画の倫理的次元を強く意識する。とはいえ、この厳しさが直ちに善とされる訳ではない。厳しさ故の彼女の行動は警察の捜査を妨げるし、そもそもジュリアンが診療所を飛び出したのは、彼女の厳しさがジュリアンという他者に必要以上に向かったからだ。それ故、ある人物がラストで示すジェニーへの感謝は、彼女の罪を赦すだけでなく、彼女の厳しさが、たとえ時に過剰に見えてもやはり倫理的に間違っていなかったと告げているのだ。

映画はある面で医療に似ている。カメラは機械で、撮影には人間的な地平を超えた次元があるが、作品を受容するのは結局人間だ。『午後8時の訪問者』は絶えず人間に寄り添い、ジェラール・ジュネットの用語を使えば固定焦点化を徹底して、最初から最後までジェニーを手持ちカメラで追う。その一方で、この形式的な厳格さは女性医師の行動の厳格さにどこか通じてもいる。ダルデンヌ兄弟の演出は常に優しさと厳しさ、愛と残酷、あるいは人間と機械の両面で機能する。ともかく、ラストで彼女を救済する時、この映画は彼女に似た多くの女性を、医師が患者を治療するように救っているのだ。

今月は他に、『タレンタイム~優しい歌』『哭声/コクソン』『ハルチカ』などが面白かった。また未公開だが、鈴木仁篤&ロサーナ・トレスの『レイテ・クレームの味』に圧倒された。
2017年4月14日 新聞掲載(第3185号)
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