対談=磯田道史×猪瀬直樹/日本文明シンポジウム載録 江戸のイノベーション 「直虎」以降の、改革者の系譜|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年4月20日

対談=磯田道史×猪瀬直樹/日本文明シンポジウム載録
江戸のイノベーション 「直虎」以降の、改革者の系譜

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二月七日、日本経済大学で、日本文明研究所の第七回シンポジウム・特別対談が行われた。〈江戸のイノベーション 「直虎」以降、改革者の系譜〉と題した対談は、歴史家の磯田道史氏と当研究所所長・猪瀬直樹氏によって、井伊直虎の生きた混沌の中世、その克服から、経済発展を遂げた江戸時代を中心に、歴史から見えてくる現在への示唆まで、様々なエピソードを交え大いに語られた。その一部を載録する。(編集部)

江戸以前/暴力の日常化、「公」意識のない社会

猪瀬 直樹氏
猪瀬
 二〇一七年のNHK大河ドラマは「おんな城主 直虎」を放送中ですが、実は磯田さんが発案者の一人だったとか。
磯田
 僕の意見が反映されたかどうかは分らないですが、NHKの方に、大河ドラマにいい人物がいないかと尋ねられ、渡したリストの中に、直虎がいました。朝ドラが好調なのは、歴史的に無名だったり、架空の女性の人生を、先が分らずハラハラして見るからではないでしょうか。それで、大河ドラマでも無名の女性をとり上げてみては、と。

直虎の他にも、四名の戦国時代の女武将・城主を挙げました。例えば福岡の柳川藩の立花ゴン千代と宗茂夫婦。これは強い武将で、いつかドラマになるかもしれません。

ところが直虎は、あまりに無名だったため、フィクションではないか、実際には従兄弟の男性だったのではないか、などと言われています。当主として「直虎」を名乗ったかというと、それには異説がありますが、概ねあのような人生を送った女性はいて、史料も残っています。
猪瀬
 井伊谷城主の娘が次郎法師として出家し、後に領主の座についたことは確かだけれど、直虎と名乗ったかどうかは分らないということですよね。井伊家は領地を支配する地頭の末裔みたいなものですか。
磯田
 そうです、地侍ですね。三千石ぐらい、そう大きくない所領です。井伊谷は浜名湖の北にあり、現在の静岡市には足利幕府の大名・今川義元がいました。しかし今川も、小さな井伊家をなかなか潰せない。そのうちに義元が桶狭間の合戦で織田信長に討ち取られると、今川家は衰退し、力を失えば失うほど井伊家に圧力をかけました。

江戸時代の一歩手前は、下剋上の社会です。歴史学の用語では「暴力の日常化」と言いますが、常にそこら中で暴力がまかり通り、剥き出しの私利私欲がぶつかり合う世界でした。そして暴力以外に力を持っていた原理は、由緒があること、それから神仏の存在です。井伊家は、直虎の時までで約六百年間、井伊谷に続く古い家柄でした。

日本には絶えずに続いてきた家がいくつかありますが、その頂点に立つのは、天照大御神の子孫とされる皇室です。それから、出雲大社の権宮司の千家は、古代、国造と呼ばれた時代から続いています。沖ノ島の隠岐家や、紀伊の紀氏、九州の阿蘇氏。信濃の諏訪家は武田信玄に侵略されたけれど、諏訪家の血筋の勝頼が武田家を実質的に継いでいます。
猪瀬
 井伊家も時の勢力である今川義元の傘下に入ることで血筋を残そうとした。ところが、今川の謀略で、井伊家二十二代目当主の従兄弟で、次郎法師の許嫁だった亀之丞が追われ、その子供も殺されそうになる。
磯田
 戦国時代の侍は畳の上で死ねない人も多く、井伊家も直虎の前の四~五代は、戦死、毒殺、謀殺です。徳川家も家康の代までそうでした。当時の古文書に残る、今となっては不思議な表現として、「毒を飼う」という言葉があります。恐らく、昆虫など生きものの毒が常用されていたのでしょう。戦国期には家来になるときに取り交わす主従契約書=起請文に「お互いに毒は盛らない」という項目があったりします。

宗教的な慣習や家柄が大事にされる一方で、暴力が日常化している。こうした社会では経済発展は生まれません。今川家は、桶狭間の合戦で義元が討ち取られ、息子の氏真が弔い合戦をするのですが、負け続けます。当時の戦は、武士たちが自ら軍事装備や食糧を用意する「自弁」が基本だったので、氏真についた武士たちは、疲弊していきます。そうなったとき、将軍が借金棒引きの徳政令を出して、政権を維持しようとするんです。
猪瀬
 今川大将のもとに馳せ参じるために、武士たちは商人や寺社から借金をする。負け続ければ、金を返すことができない。
磯田
 当時の支配階級である室町幕府も今川家も、公の経済に対して責任を持っていない。中世の大名には自家の家計財政はあるが、国家の経済政策は、ほぼ、ない。借金をチャラにすることで、人気取りをしようとしたりする。しかも借金を棒引きにする代わりに、その十分の一の金を持ってこい、などということすらある。自分の貸した金ではないですよ。つまり銀行から一千万円借りていたものを、政権に一〇〇万円持っていきさえすれば、銀行に残りの九〇〇万円を返さなくても済む、というような無茶苦茶な社会なのです。

このような体制下では、金をためて投資にまわし、金融をやるのは、リスクが高すぎて近代的な経済発展は無理です。来世を願って宗教発展はあります。
猪瀬
 中世は各地域に力の強い豪族がいて、幕府や天皇という最高位はあれども、基本的には実力、武力で奪い取っていく世界だった。そこに、信長、秀吉、家康という天下人が現われ、戦国時代が終っていく。近世と中世が大きく違うのは、「公」意識の有無ですよね。
磯田
 中世までは、領民たちは領主の所有物に近い。例えば、中世の領主がまとまった金がいるときに、極端な話、領民を家屋ごと売ってしまえた。金ができたら、領民をどこかから買い戻せばいい、というぐらいの考えです。それが江戸時代には、「ご公儀の田畠を預かる御百姓」という地位を与えることになる。

しかし、江戸時代になるまで天下統一の過程で、信長はものすごい数の人を虐殺しました。
猪瀬
 信長は宗教的権力を潰した。これは非常に大きいと思います。
磯田
 確かに、日本人を宗教的でなくしたのは、信長です。徹底して一向一揆を潰し、一向宗の僧侶も宗徒も根こそぎ捕まえて、わざと惨たらしく殺します。そのまま火をつけて焼き殺すとか、磔柱で虐殺するとか。そして民衆に、あのように無残な死に様の者たちが、極楽に行けるわけがないと思わせる。一方では、自分たち尾張武士の絢爛豪華な生活を見せつけて「俺の下で戦えば、侍として子子孫孫まで家が栄えるぞ」と、デモンストレーションをした。安土桃山の衣服調度が豪華なのには、そういった背景もある。そうやって、民衆意識を本願寺や延暦寺など宗教から引き離した。日本人の頭は聖から俗へ転回しました。

江戸時代/高度に発達した経済社会

猪瀬
 信長が、それまであった宗教的な権力も、極楽浄土の信仰も潰したということですね。その上で土地を耕すことによって、未来へ安定した生活を作っていくことができるという思想を、徳川幕府が作ったということになる。江戸社会が生まれるにはまず、中世の克服があったわけです。

江戸開府一六〇三年、その約十年後に、大阪冬の陣が終って、たくさんの浪人が、就職口を求め江戸に集まってきます。そのため江戸では、公共事業を提供する必要が生まれ、人材派遣業である口入れ屋の、歌舞伎で有名な幡随院長兵衛らが出てきます。
磯田
 町人身分の遊侠の徒、町奴ですよね。口入れ屋は、労働市場がなければ生まれません。江戸時代、農民は土地に縛り付けられていたというイメージがありませんか? 農民は農民、商人は商人、生まれ持った身分を遵守することが求められると。しかし実際は、同時代の世界のどこよりも、江戸には労働移動や職業選択の自由がありました。軍指揮官として江戸城を守る大番頭は世襲でしたが、下級ならば武士にもなれました。江戸幕府で出世したかったら、勘定奉行所の役人がおすすめです。身分的には下級ですが、実力主義なので、農民の子でもスピード出世が可能でした。

財政運営が世襲制だったら、江戸幕府は続かなかったでしょう。勘定方の役人に、町民だろうが農民だろうが、頭のいい人を登用するというシステムで機構に風穴を開けたため、江戸幕府は壊れなかった。
猪瀬
 そのようにして、少しずつ江戸幕府の機構が整っていき、行政というものが出来上がっていった。
江戸開府から「時は元禄十五年(一七〇二年)」の赤穂浪士の討ち入りまで、約一〇〇年間が、高度経済成長期です。戦がないので一六〇〇万人の人口が倍の三〇〇〇万人になります。人生を畳の上で終えられることが分れば、子どもを生み育て、経済活動に打ち込むことができました。
磯田
 堺屋太一が『峠の群像』という小説を書いて、大河ドラマにもなりましたが、一七〇〇年は日本が絶頂期を迎えたまさに「峠」の時期です。その頃の世界人口は六億人ですから、人口三〇〇〇万人は、なんと二〇人に一人、世界の五%が日本人だった。今、日本の人口は世界の二%です。そして二二〇〇年、僕の子供世代が八〇代になる頃は〇・五%になるだろうと予測されています。
猪瀬
 当時、ヨーロッパは百年戦争の真っただ中で、戦国時代が続いていましたからね。一方日本は、元禄から文化・文政の頃には経済システムが整い、あらゆる芸術が開花する時代になっていきます。しかし、一七〇〇年を境に一八六七~六八年の江戸時代の終りまで、GDPはほとんど伸びず、ゼロ成長期となる。そして関東周辺や東北は、人口減少時代を迎えます。

この状況は、日本の現状と似通っていますよね。そうした中でどう生き抜いていくのか、そのヒントになると思うのが、二宮金次郎という人物です。

僕は『二宮金次郎はなぜ薪を背負っているのか?』という本を書いています。金次郎は勤労勤勉で語られがちですが、実際、これは根性論ではありません。薪を山で切り、自ら背負って、小田原の町に売りに行く。生産と流通と販売を全て一人で行う、利益率が高い商売なのです。江戸時代は市場社会にはなりましたが、産業革命がなかった。石炭、石油がない時代に、金次郎少年はエネルギービジネスをしていたわけです。そして金次郎が読んでいるのは実際には漢文の「四書五経」ですが、薪をどこで売ればいいのか、最近何が売れているのか、といった市場の「情報」のシンボルと置き換えてよいと思います。
磯田
 江戸は高い労働生産性を実現できた社会でした。その前提には、識字率の高さがあります。幕末時点での識字率の国際比較を行ってみると、八~九割の識字率があったのは、イギリス、ドイツ、フランス、北欧。日本の識字率は、成人男女で四割程度だと考えられます。しかし地域差があって、滋賀県では男女合わせて六割以上あったようです。
猪瀬
 それを支えたのが寺子屋ですよね。「読み書きそろばん」ですから、文字のみならず、算術が出来るかどうかも重要です。
磯田
 また日本の場合、学問が職業に直結していました。職人の子はいい職人になるために「百姓往来」や「大工往来」を読むし、商人は「商売往来」を読み、農民は「農業往来」を読む。中国や朝鮮では、エリートが「科挙」という役人になるために、恐ろしく勉強しますが、日本では役人以外の人々もそれぞれ、職業人になるための実学を学んだため、高い生産性に繋がった。

江戸には「機関」がなく、産業革命はありませんでしたが、高度な分業や相場の先物取引などは、ヨーロッパより進んでいるくらいでした。

僕は地方の町に行くと、電話帳を見ます。その職業分類項目が多いほど、高度に発達した経済社会だと考えることができるのです。それでいうと、江戸時代はすごい。耳かきを専門にする女の人がいたり、煙草を刻むだけの仕事もある。

驚いたのは、輪島塗などの漆器に使う細筆に、一ミリに何本も金箔の線を引けるものがあるんです。その筆を作るためにはまず、琵琶湖を走る穀物造船に棲みついている鼠――一番毛が擦れていないということで、それを捕まえる専門職があります。捕まえた鼠は、傷ついていない腋の下の毛のみ選る人がいて、縒って根朱筆を作る職人がいる。そうして作られた筆で、蒔絵職人が一ミリに何本もの細い線を引き、大名道具の金箔蒔絵の漆器を作るんです。江戸とは、そういう、農業社会では、人類史上もっとも精密に発達した社会でした。

二宮金次郎の財政改革と宿場町のイノベーション

磯田 道史氏
猪瀬
 労働市場があって、一口に農民と言っても、皆が農作だけやっているわけではない。鍛冶屋もいれば、鋳掛屋も油屋もいて、それぞれが中小企業の経営者のようなものだった。

僕が学生の頃は、江戸時代の百姓は貧しくて、常に百姓一揆を起こしているような歴史観を植え付けられていました。そもそも藩閥政府が前政権を否定するための薩長史観があって、そこに大正六年のロシア革命で、日本にマルクス主義が入ってきます。それでロシアの農奴に近いイメージを江戸時代の農民に重ねていく。薩長史観とマルクス主義史観が二重になって、江戸社会は士農工商に固定され、農民が飢えに苦しむ社会だった、という誤った観念を作り上げたんですね。
磯田
 江戸時代の租税負担率を調べたことがありますが、思ったより少なかったですね。税負担率は固定されているため、天候や環境によって地域差はあるのですが。当時、表作の米は年貢を生産量の四〇%取られましたが、裏作は無税でした。東日本は浅間山の噴火で土壌が酸性になり衰えています。一方、麦と米の二毛作のできる九州の北部や、熊本より西は豊かになって、人口も増えました。
猪瀬
 生活が潤った人の中から金融業を行う人が出て、法的な金利の制限はあったものの、高利を貪るヤミ金も横行していた。その中で、薪を売って小金を持った二宮金次郎は、金融業で人助けをします。高い金利で借金している人に、安い金利で借り換えてあげるのです。そして例えば一〇両借りている人なら、一年に二両ずつ返して、五年で十両返してもらう。あなたは返済の能力があるから、六年目にもう二両くださいと。そしてその二両は、二宮金次郎ファンドの参加金ですから、また何かのときに金を借りられますよと。

また金次郎は、借金まみれだった小田原藩の家老の家の財政建て直しを行います。それが藩主の目にとまり、支藩の復興を命じられたり、その他陸奥国の相馬藩や日光の村々など、あちこちから改革を頼まれるようになっていきます。
磯田
 財政改革に際し、金次郎が実質的に複式簿記といえる会計を行っているのに驚きました。自分の田畑は人に任せ、奥さんを留守居させて、小田原藩のご家老の家に五年間住み込むのですが、まず屋敷の屋根や壁の面積を計算して、何年で劣化して修繕にいくらかかるか、農具や箒一本まで、どれだけ使うかを計算します。時間軸に対して、資本がどのようにすり減っていくかを計算して、支出予定を作るのです。つまり減価償却です。
猪瀬
 支出を計り蓋をして、それ以上使わないというキャップ式の財政改革を「分度」と名付けましたよね。金次郎ファンドは関東一帯に広がって、今の産業再生機構のように行政改革を行っていきます。そして彼は農民から最後は幕府の役人になりました。その思想は三河へも伝わり、豊田佐吉にも届く。トヨタに流れるのは、もとは二宮金次郎の思想なのです。

そして、もう一つ紹介したい江戸のイノベーションは、昨年映画化された『殿、利息でござる!』。これは磯田さんが書いた評伝『無私の日本人』を原作に作られました。

伊達藩の田舎の宿場町が舞台ですが、当時、侍が宿場を通過するときに、使者や物資を運ぶための馬を世話する「伝馬役」という賦役がありました。それが毎年百両程かかり、二百軒の宿場で負担しなければなりませんでした。負担できない宿場で一軒が商売をたたむと、残り百九十九軒の負担額がかさみ、さらに商売をたたむところが何軒も、と、悪循環となり町が寂れる。それを何とかしなければ、と立ち上がった酒屋の主がいたわけですね。
磯田
 はい、持続可能な宿場町にするための算段を試みたわけです。
猪瀬
 何をしたかというと、一汁一菜で、床屋も銭湯も行かず、皆で切り詰めて、なんとか千両の金を作ります。今の三億円に相当する金額です。その金を借金で困っていた殿様に預ける。その代わりに、利息として毎年百両ください、と。そして実際に利息の百両を得て、毎年かかる伝馬役のコストを浮かせ、宿場は滅びることなく幕末まで続いたという実話です。
磯田
 殿が利払いしてくれたところが、中世の領主と明らかに違う点ですね。
猪瀬
 しかし結果的にはめでたしだけど、役人の稟議が通るまでに三年も四年も決済されず、当事者はどんなに困窮して苦しい思いをしたことでしょうね。貧乏な人たちが必死でかき集めた千両なのに。役所にはそういう、血も涙もないところがありますよね。
磯田
 良くも悪くも、日本は官僚機構が整っているんです。遡れば、豊臣秀吉の時代の石田三成がすごかった。なにせ国内から四十八万人動員して、朝鮮を攻めようとしたのですから。実際に渡海させた人員は十五万近く。当時の日本人口は一二〇〇~一五〇〇万ぐらいで、女が半分の六〇〇~七五〇万人、その半分が子どもです。つまり三〇〇万人しかいない成人男子の、六人に一人を国内動員しようとしたことになります。ちなみに日清戦争の動員は約二十四万人です。明治国家に対して、桃山時代は人口が六分の一ですから。そのロジスティクス能力はすざまじいものがあります。

そこで出来上った仕組みが各藩の核になっています。そして平和な時代に、稟議制という名の、たらい回しの組織になった。たぶん、日本の会社の発想の行き詰まりは、江戸時代の武士組織を踏襲しすぎていることにある。組織に長くいる人間が高い地位を与えられやすい。副業・兼業にも規制が大きい。組織に必要以上に忠誠心を求めることも武士社会的です。その鍵を外してやることが、必要なのではないかと思います。

持続可能な社会へ、改革は思想から始まる

無私の日本人(磯田 道史)文藝春秋
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磯田 道史
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猪瀬
 官僚機構は、とにかく決済が遅いよね。
磯田
 責任の分散をするんですよ。月番制といって、老中も回り番にする。そうでない行政をしたのは、熊本藩です。通常江戸時代の決定者は家老か老中なのですが、熊本藩では奉行が一人で決めてよかった。ただし役割が細分化されています。例えば他の藩では、代官所や奉行所で裁判をしますが、熊本藩は公事方という裁判専門の組織を持っていました。その分、手があく奉行は、殖産興業政策に取り組むことができた。水道橋を作ったり、用水路を掘ったり、産業資金を貸し付けたり。これが成功して豊かな藩となりました。明治維新で勝った側は、熊本藩のスピードの早い行政システムを学んだところが多いですね。
猪瀬
 しかし明治新政府は藩閥政府と言われるけれど、実質的なところは、江戸の官僚がそのまま採用され担ってきたのか、たらい回し体制は今も残っている気がします。
磯田
 ルーティンワークを運ぶ上では、官僚制度は機能しますからね。年貢を取るとか、人口統計を取るとか。しかし黒船がやってくるようになると、海軍を作れ、ということになる。こういう組織構造を根本から変える仕事は、官僚制に向かない。こういうときに有効なのは、新組織を縁側のように旧組織に付け足す方法です。旧式の武者行列の軍隊の横に、新式の洋式軍隊を小さく作る。そして、うまくいきそうだったら、大きくしていく。刷新よりも同調が得意な日本人の場合、小さく新規に第二部署を作ってそれを育てるようなやり方が、改革の第一歩になるかもしれません。「新事業子会社」方式です。同じ物を二つ持つことになりますから、コストはかかりますけれど。
猪瀬
 磯田さんの『無私の日本人』でも、穀田屋十三郎から改革が始まったわけで、必ず最初に立つ誰かがいるわけですよね。二宮金次郎もそうです。日本人は、誰かについていくのが得意だけど、最初の一人になれるかどうか。それぞれが、小さなことでいいから、最初にやる人になればいいですよね。

江戸時代は、市場経済が整い、為替制度も発達していました。旅行記「東海道中膝栗毛」の主人公の弥次さん喜多さんは江戸の庶民ですが、現金を持たなくても、トラベラーズチェックでお伊勢参りに行けました。松尾芭蕉が「奥の細道」の旅ができたのは、あちこちに文化レベルが高い庄屋がいて、俳句の価値がわかり、もてなしてくれたからこそ。北斎は八七歳で二百キロ以上離れた信州の小布施に行き、一ヶ月逗留して絵を描いて帰ってくる。要所に宿場が備わっているし、河川通運の発達でたくさんの運搬物が下ろされる小布施には豪商がいて、北斎を接待するわけです。
磯田
 江戸時代は同時代の世界のどこよりも安全に旅ができたと思います。老人が旅の途中で行き倒れ、路銀も無くなったときにも、通行手形があれば、継送り制度で村から村へ担架で運んで、自宅までほぼ全て、通過する村の費用で帰ることができました。中世だったら、すぐに身ぐるみ剥がれたでしょうね。落ち武者は、装備を全部剥ぐと一人当たり三〇〇〇万相当だそうで、手ぐすね引いて待っている輩がいた(笑)。その状況から、行き倒れた老人が、無料で家まで帰れる社会になったというのは、イノベーションですね。
猪瀬
 江戸時代には大規模な治水工事が行われ、海や河川による流通や観光産業の発展をもたらしました。利根川の流れを変える治水工事が行われたことで、今で言えば高速道路にあたる運送水路が完備されました。その流れを外堀に引き込み、これが首都高速の役割をします。神楽坂辺りで荷を揚げて、軽子が荷を担いで運び、日本橋には河岸ができる。そのようにして、流通というものができあがっていく。

そのうちに鉄道貨物の時代となり、昭和十年には、現在高速道路にリンクした豊洲新市場への移転でもめにもめている、築地市場が生まれるわけですが。二十一世紀はネット注文した品物が翌日届く時代ですが、歴史を振り返れば、そこへ至る流通の始まりも、江戸時代でした。
磯田
 二宮金次郎は、五年間家老の家に住み込んで改革を手伝ったことで、妻に逃げられますね。ただ家を出た後の妻の暮しを考えて、機織りの道具を与え、織物を織って当座の資金を作るように言ったそうです。人間は知恵と労働の努力があればやっていける、自分の手足で生きて行く覚悟を持て、というのが金次郎の揺るがぬ思想です。僕は、日本がこれまで世界と伍して来られた根本に、そうした思想があると思っています。

また金次郎は、儲けたら人に譲る、「譲」の思想も伝えています。このところ、世界のあちこちで自国中心の思想が顕著なように感じられますが、世界を一つのたらいだと考えれば、丸いたらいに張った水を、自分のところへ集めようとしても、水は向こう側に流れて行ってしまう。逆に向こうへ水を押しやると、浮いているものは、手元に戻ってくる。廻り廻って自分の利益になるのです。世界経済もグローバル化で、これほど一つになっている時代には、自国だけ良くしようというのは、ひょっとすると成り立たず、大きく間違うかもしれません。

金次郎は持続可能な経済を作ろうとしました。労働と知恵で稼ぐ、多く稼いだ人は譲る、それが人間の使命だという思想を、今学ぶべきなのではないかと。
猪瀬
 哲学ですよね。哲学というのは思いつきではない、生涯一貫しているものを言うと思うんです。
磯田
 哲学は実用性のない、霞のようなものだと思われがちですが、政治、軍事でも経済でも、よりよく改革するための大元には、思想以外ありません。思想こそが人間の不可能を可能にし、無を有にし、経済をつくり、人を救うんです。心を鍛えることがどれぐらい重要か、江戸人はそうした哲学や道徳を重視し、生き方や思想を伝えることに骨を砕きました。現在は、儲けや経済成長を得ようという気持ちが先走り、経済成長を生み出す思考方法や思想を持つという根本のところを軽んじている気がします。常に歴史を見ている者として、心を変えることこそ、イノベーションの第一歩だと考えています。

これまでに、一〇万家系程の古文書を読んでいますが、本を読んだり、人の話を聞いたり、意識改革をしようとした人がいた家系には、その後、何世代にも亘って影響があります。習慣や思想は、親から子、子から孫へと伝わり、彼らの生きる力になる場合が多いんです。
猪瀬
 作家は簡単に言えば、思想とビジョンを作る仕事です。政治家はそれを実行するのが仕事。僕は今後も、ビジョンを作る仕事を続けて行きたいと思います。 (おわり)
2017年4月14日 新聞掲載(第3185号)
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