負債論 貨幣と暴力の5000年 / デヴィッド・グレーバー(以文社)負債一元史観で、国家を廃絶できるか?!  どこから読んでも面白い再利用可能な教科書―素材集|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年4月17日

負債一元史観で、国家を廃絶できるか?! 
どこから読んでも面白い再利用可能な教科書―素材集

負債論 貨幣と暴力の5000年
出版社:以文社
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アナキストを自称する作家による、文献一覧も含めて八〇〇頁を優に超える本書は、突っ込みどころ満載で、どこから読んでも面白く、また賢くなった気にさせてもくれる、再利用可能な教科書―素材集である。

原題は冠詞ぬきの〈負債Debt〉で、その意味で本書は、負債の一般理論を、しかし、ヨーロッパが血塗れのその手で画定したみずからにとっての他者をみずからの一部として併呑した欺瞞の地政空間の五〇〇〇年に限って、目指している。さて、その成否は?

恩師には関係ないだろうが、シカゴ・スタイルであればこその膨大な巻末文献を資料として用い(その利用程度が測れる索引が削除されたのは残念だ)、冒頭に措かれた理論的部分(第1~5章)を結論とするために配備された、だが何れにせよ通時的にモデル化されるほかなかった歴史叙述(第6~11章)の(軽快な?)華やかさは、労働力商品も含めた〈商品―貨幣―資本〉とその丸ごとの商品化(所有の擬制資本化↓レンティア資本主義)を論理の自閉性において論ずることを目的としたからこそ、当初は定冠詞によってみずからをルーズに縛った『資本論DasKapital』とは、文体と作風も含めて、対蹠的である。

その展開から歴史叙述を可能な限り排除することで或る人間類型に背進前梯的に取り憑かれた後継者によって、いまや『資本論』は数 学モデルにまで痩せ細ったが、著者の恩師も奉ったモース由来の人類学を現代の負債(疚しさだろうが、負い目であろうが、何れにせよ反動)において、だが興味深いことにデリダの交換主義批判でもある〈贈与論〉二作そのものへの言及がないまま、負債を論ずるこの人間学者は、さきの意味で権力―知の装 置にその身を堕し放逐されたダラ幹面のマルクス経済学を、史実に惑わされることが多い歴史主義とともに、歴史のゴミ箱へ投げ入れ、過去―未来の総体である「世界」という現在のすべてを、唯一の理論軸とされた負債において描き出すことで、その「革命」戦略を構築する、と主張する。満腔からの喝采である。

とはいえ彼は、〈所有=窃盗〉という、じつはマルクスが論理の手順を踏んで最終的には到達しようとしていた、三位一体論的結論の本旨をのっけからキャッチ・コピーとして乗っ取られたがゆえにいじましいマルクスを怒らせてしまった、所有批判の先駆者を現代において体現できるか? 彼の人間類型は、叛乱的に機能するだろうか? 僕は、論文を書きたくなるほど、懐疑的だ。

なぜなら、冒頭に措かれた結論(資本=負債)を歴史叙述(本書の四分の三)を附録的に拡張することで論証しようとした本書は、『資本論』が論理への戦略的純化によって資本主義の歴史的特種性を論理的に証明しようとしたその構えとは、対蹠的だからだ。

まただからこそ、シュミット『大地のノモス』を援用してまで所有(=負債)に溺れるレンティア資本主義を批判する同好の士ラッツァラートの新著『負債による統治』では、括弧付きの「アナキスト」理論と軽く揶揄され、資本の歴史的特種性=切断を欠如させた尻 目史観と、批判されたのである。

だがその根因はどこにあるのか? それは、ピケティとの〈CADTM〉での対論「どのように負債から逃れ出るか」でも正しく批判されているように、「物々交換の神話」のガッツ石松的三六〇度の転回――それは販路説を転回した後に販路説に帰順したケインズに似ている――という論法から導かれたその素朴な――結論ありきの――結論である資本=負債による歴史(実は概念化された時間)の専一的な了解という、いわば負債一元史観にある。

こうして、資本の歴史的特種性を通時的にも共時的にも平板化した彼は、当然にも、収奪と搾取の二概念に象徴される歴史的切断とその理論的意味、またこの切断によって初めて理論的つまり背進的に分節可能になる、両者の褶曲的な層序的重積を歴史的にも理論的にも分節できない。

一見するにマルクス的に、共同体と共同体との間における邂逅――だが、中国における共同体の存否をめぐる古い論争〈平野―戒能論争〉を想起せよ!――に着目される場合も、いかにも人類学者らしく、その偶発的接触だけに暴力性―祝祭性が認められ、この偶発の共同体内部への制度的内転に、スミス的牧歌とはまったく異なる、暴力過程=切断――本源的蓄積論(初発の収奪)――についての、だが理論的な、観察(搾取論)が曖昧であり、その結果、そうした邂逅の共同体内への内転と同時に出現する、帝国あるいはむしろ〈原国家Urstaat〉の再領土化である(国民)国家―主権とその課税行動を貨幣(の起源)との関係で遡及的に再想起するという、ドゥルーズ=ガタリ的な三位一体論に負債――フローとストックの往還に常駐する暴力――を定位することができない。

またその欠を埋めるために、レギュラシオン学派の『貨幣主権論』などの得難い研究から抽出した「原初的負債」という論証不能(公理的)で依然として第三項主義(弁証法)的な、ある種のパノプティシズムの使い回しによって、貨幣の起源を税に求める根拠を捻り出すという、みずからの意に反する無理を冒している。そしてその根底には、何よりもまず、交換主義に等価だけを想定し、その否定に暴力が――その形態的差異を貫いて――差配する負債をみるという安易な交換主義批判がある。

だがこれで、結局は資本の延命に利するほかないピケティ的な社民的対案主義を踏み拉いて、現代資本主義をその根底から批判あるいは転覆できるだろうか? 僕たちは、負債一元史観で、国家を廃絶できるか〓(酒井隆史監訳、高祖岩三郎・佐々木夏子訳)
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2017年4月14日 新聞掲載(第3185号)
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