関門の近代《二つの港から見た100年》 / 堀 雅昭(弦書房)ごく狭い地域の歩んだ足跡が明治期日本の運命と二重写しに|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年4月17日

ごく狭い地域の歩んだ足跡が明治期日本の運命と二重写しに

関門の近代《二つの港から見た100年》
著 者:堀 雅昭
出版社:弦書房
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うかつながら本書を『近代の関門』というタイトルだと思い込んで読み始めた。もちろんすぐに『関門の近代』が正しいと気づく。『近代の関門』だと、近代という時代が引き受けねばならなかったさまざまな制約・条件を一般的に問うという、素朴なくらい真っ正直な文明論・歴史論になるが、本書での「関門」は端的に関門海峡や関門トンネルの関門である。つまり地名である山口県の下関と九州の門司(北九州市門司区)とを二つ併せた略称だ。

その関門というごく限られた地域の、開国から戦後にいたる近代の歩みを、本書はこの上なく丹念に描き出してゆく。その際の細部へのこだわりは、たとえば某歴史的舞台は現在の△△町の○○マンションの斜め前の駐車場に当たる、といった具合で、関門に格別かかわりのない他郷者にはいささか鬱陶しく思われるほどである。

しかし読み進むうちにやがて、関門というごく狭い地域の歩んだ足跡が、じつは明治期日本の、あるいは外圧によって近代化を強いられた西欧以外の国々全般の運命と、そのまま二重写しになっていることに気づかされる。その意味で『関門の近代』は、たしかに『近代の関門』にほかならない。

関門は、狭い関門海峡の両岸にそれぞれ港を中心に発達した一衣帯水の都市である。相似しているがゆえに、いっそのこと関門をまとめて一港、一市に、あるいは周辺を含めて一県にしようとのかけ声は、幾度となくあがった。しかし歴史的には両者、かなり対照的といわざるをえない。なにしろ下関は源平合戦の壇ノ浦以来、江戸期の北前船最大の中継交易港、八回もの朝鮮通信使の来航……といった港湾としての長い伝統を有している。幕末には英米仏蘭四カ国艦隊の砲撃も受けている。対する門司は、藩政期を通じ塩田の広がる寒村にすぎなかった。

それが明治になって急速に開発が進み、ついには下関と逆転するほどの発展を見せるのは、旧福岡(黒田)藩士である杉山茂丸、頭山満ら玄洋社人脈と明治政府の井上馨らとの密約で、築港計画を門司に持ってきたからといわれる。国を富ますには交易によるしかない近代日本にとって、港湾は死活的な重要施設だ。門司はアジアに近く、しかも背後に産炭地を控え、資源面での地の利もある。製鉄所もできた。おかげで日露戦争期には、外国船の入港は門司が全国一位、以後も長らく神戸に次いで二位を保つことになる。その後の四大工業地帯体制を生む牽引役を果たすのだ。企業の支社なども、徐々に下関から門司に移るようになる。

本書で語られる両地区のエピソードはまことに多彩である。日清戦争後の講和会議出席のため下関を訪れた伊藤博文、西郷従道らがボラ釣りの舟遊びをした際、「売春船を呼べ」などと大騒ぎをしたこと。明治中頃からたびたび提案された関門架橋や関門トンネルのアイデア。石油の出光佐三、船舶の中野真吾、米の久野勘助ら「門司の三羽烏」の大活躍ぶり。満洲・台湾・アジア航路を独占した門司でバナナの叩き売りが始まり、関釜(下関・釜山)連絡船に特化した下関で辛子明太子が名物になったこと……。

それにしても玄洋社人脈の要請に沿うかたちで、当時の(井上馨ら長州閥の多い)明治政府が、下関ではなく海峡を挟んだ門司築港を決意したのはなにゆえか。
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2017年4月14日 新聞掲載(第3185号)
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関門の近代《二つの港から見た100年》/弦書房
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