映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(3)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2017年4月25日

映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(3)

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HK
 メロドラマといえばダグラス・サークのような作品も当時にはすでにありましたが、それとも違うものなのですか。
JD
 文化の基礎が全くもって異なるものです。ダグラス・サークはデンマーク系のドイツ人です。フランスとは異なる文化圏から来ています。例えばイギリスのメロドラマはディケンズの考えによって基礎付けられたところがあり、これもフランスのものとは完全に異なるものです。フランスのメロドラマは「泣かなければならない」という目的のために作られているのです。だからこそ、観客が泣き始めるとそれで皆が満足していたのです(笑)。当時には、映画館の出口で観客たちがハンカチを濡らしながら泣き喚いているというフランス映画のカリカチュアがあったぐらいです。
左からジャック・タチ、ドゥーシェ、ピエール・カスト、トリュフォー
HK
  このハンカチの文化というものは今日ではもう存在していないと思います。その後もファスビンダーやヘインズの映画に引き継がれているハリウッドメロドラマとは異なり、フランス映画の中でも再評価する動きのようなものはほとんどなかったはずです。

どちらにせよこの種のメロドラマ映画は大多数の観客へと向けられて大きな成功をしていました。しかし、トリュフォーの有名な「フランス映画のある種の傾向」の反響があった。ジャン・オランシュとピエール・ボストに代表される脚本家が、実は「良質のフランス映画」を影響づけていると当時最も芸術的だと言われていた作品を批判した。トリュフォーは晩年に、どうしてこのような批判をしたのかとテレビ番組で問われています。「本当はただ単にメロドラマを作っているだけなのに、それを詩的レアリズムだとか別の名前で呼んで、あたかも高尚なものであるかのように見せていた。メロドラマならすでにメロドラマで十分だ。そして、この種の傾向が映画を映画自体の表現から遠ざけて、作家の映画を蔑ろにしていた」との旨を語っていました。
JD
 はい。この種の映画はすでに存在していません。私たちは映画館ではもう泣かないのです。そして、この種の映画を非難したのはもちろんトリュフォーです。しかし、言っておかなければならないのは、この種の映画がただ単に泣かせるという目的のためだけに作られてしまっていたという一面があったということです。これがフランスのメロドラマであり、19世紀の人々のためのものであったのです。その当時のパリの貧困を考えてみると、この種の文化が重要だったのです。大作家と呼ばれる人の作品は非常に不快で意地の悪いものでした。そして多くの人が追随し発展させました。

そこへトリュフォーが非常に大きな批判をしたわけです。しかし、このような批判をしたのはトリュフォーだけではありません。ロメール、シャブロル、私たち皆で批判したのです。理由はそれほど複雑ではなく、フランス人の映画作家が、実は彼らの作品の登場人物たちを軽蔑していたからです。彼らは作家ではなくただの映画演出家といったほうが良いです。彼らの映画の登場人物たちはいつも卑劣漢、愚か者、人間のクズとして映画の中にいるのです。表現が悪いですが、本当に映画の中で互いにそう呼び合ってさえいます。ただルノワールに関してだけは事情が別で、彼の映画では誰一人として卑劣ではありません。だからこそ私たち皆が、彼の映画を好きだったのです。単純にルノワールだけが卑劣ではなかったのです。 <次号へつづく>
[聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ]

2017年4月21日 新聞掲載(第3186号)
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