植民地の腹話術師たち: 朝鮮の近代小説を読む / 金 哲(平凡社)植民地朝鮮のパノラマが繰り広げられる知的興奮|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
読書人よ、集まれ!

トップページ

特集

書評

連載

コラム

ニュース

読書人とは

  1. 読書人トップ
  2. 書評
  3. 植民地の腹話術師たち: 朝鮮の近代小説を読む / 金 哲(平凡社)植民地朝鮮のパノラマが繰り広げられる知的興奮・・・
読書人紙面掲載 書評
2017年4月24日

植民地朝鮮のパノラマが繰り広げられる知的興奮

植民地の腹話術師たち: 朝鮮の近代小説を読む
著 者:金 哲
出版社:平凡社
このエントリーをはてなブックマークに追加
この著書を一言で紹介することは難しい。植民地時代の朝鮮で作られた近代小説を題材としながら、そこに現れた様々なテーマを巡って、例えば裁判や郵便、汽車、コーヒーやランチなどの食べ物、エロティシズム、などといったテーマに沿って論じられていくのだが、そこに広がっていくのは植民地時代の朝鮮という独特の社会的空間、知的空間のあり方である。つまり、この本が真にテーマとしているのは「植民地時代の朝鮮」そのものであり、それに向かって対話し、再現するために選ばれたのが先にあげた様々なテーマなのだと言えるだろう。

日本でも例えば磯田光一の『鹿鳴館の系譜』や川本三郎の『大正幻影』などの時代のパノラマを様々なテーマを通じて繰り広げるような本が存在したが、それらの本とこの金哲氏の著書とが異なっている点がある。それはこの『腹話術師たち』という題名にも見て取れるように、言語ということが大きなテーマとなっている点である。元々この文章が国立国語院の刊行する季刊誌に連載されたという事情もあるが、より本質的に植民地時代の朝鮮が、支配者の言語である日本語に対抗して近代的な朝鮮語を作り上げていく時期に当たっており、近代小説こそがその朝鮮語を形作る最前線にいたことのためである。植民地時代の朝鮮には多言語的な状況があり、日本語、朝鮮語、そして英語の覇権をめぐる争いが複雑に繰り広げられていたことが第1章(副題「韓国語の〈近代〉」)や第3章(副題「韓国小説と標準語」)などを見るとよく分かるようになっている。

タイトルの「腹話術師たち」とはそのような多言語的な状況の中で、帝国の言語である日本語で表現した植民地時代の作家たちを指した言葉である。金哲氏は次のように言う。「彼らは一つ口で二つのことを話す者、二枚の舌を持った者である。このきわどいゲームでは彼ら自身も分裂し破滅する。しかし同時に彼らの存在自体が、母語の自然性、国語のアイデンティティ、国民文学の境界に対する鋭い刃となる。…母語の言語を真似する者(mimicry)、自らの言語でない他の言語で他の思考を試みる者に初めて転覆の可能性が開かれる。」(第12章「植民地の腹話術師たち――朝鮮作家の日本語小説創作」)このような視角――言語を通じた植民地時期の朝鮮の転覆的な可能性を提示すること――がこの本での核心的なヴィジョンとなっている。

このようなヴィジョンは、それまでの支配的な言語観や歴史観に抗う形で提出されたものである。植民地期、ことに戦争期に対する日本の支配のもとで言語を奪われ、名前を奪われ、強制連行や慰安婦といった命まで奪われた「暗黒期」「空白期」という認識に対して、金哲氏はここで異議申し立てをしていると見ることができる。そのような常識に対して、日本語強制がされたとされている戦争期にむしろ朝鮮語が政策的に広く使われたこと、朝鮮語での長編小説や教育出版が続けて行われたことなどを指摘することで、戦争期もまた「韓国語」と「韓国文学」の別の可能性が模索された躍動的で活力ある時期として読み直されるのである。

このような植民地時代の朝鮮についてのヴィジョンが提示されたことは驚くべきことであると思われる。韓国は1980年代末の民主化以降、歴史の見直し、読み直し作業を行ってきた。そのような歴史の見直し、読み直し作業がこの著書の背景となっていることは押さえておくべきだろう。歴史の見直し作業は東アジアの多言語的で躍動的な空間の中で植民地朝鮮が存在したことや、その可能性について教えてくれる成果をもたらした。そのことは日本人の読者にとってもきわめて刺激的なヴィジョンを示唆してくれるのである。(渡辺直紀訳)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年4月21日 新聞掲載(第3186号)
このエントリーをはてなブックマークに追加
佐野 正人 氏の関連記事
この記事の中でご紹介した本
植民地の腹話術師たち: 朝鮮の近代小説を読む/平凡社
植民地の腹話術師たち: 朝鮮の近代小説を読む
著 者:金 哲
出版社:平凡社
以下のオンライン書店でご購入できます
学問・人文 > 評論・文学研究 > 世界文学と同じカテゴリの 記事