東浩紀氏インタビュー(聞き手=坂上秋成) 哲学的態度=観光客の態度 『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)刊行を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年5月4日

東浩紀氏インタビュー(聞き手=坂上秋成)
哲学的態度=観光客の態度
『ゲンロン0 観光客の哲学』(ゲンロン)刊行を機に

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『存在論的、郵便的』から19年、東浩紀氏の最新著作『ゲンロン0 観光客の哲学』が刊行された。
本書は東氏の思索の集大成であり、また書名が表すように批評誌「ゲンロン」の基底をなすものとして位置するものである。
発売直後からツイッターやフェイスブックなどのSNSで若い人を中心に、大きな話題を読んでいる本書について、2010年に「読書人」で文芸時評を一年間担当していただいたこともある、作家・文芸批評家の坂上秋成氏にインタビューしてもらった。(編集部)


徹底して「アマチュア」の 視点から書かれた哲学書

坂上
 『ゲンロン0』を読んで初めに思ったのは、この著作が「東浩紀による東浩紀の二次創作」であり、これまでのお仕事の集大成になっているということです。「偶然」「確率」「誤配」というテーマが『存在論的、郵便的』(新潮社)以降ずっと貫かれているのだと、すごくクリアに見えた気がします。そうした点も含め、本書を刊行しての感想と狙いについて伺えますか。
 「群像」(5月号)のエッセイにも書いていますが、ぼくが今回の本を書けたのは、「いま」の読者にあまり読まれなくていいと思ったからです。ぼくはこの著作は自分の最高傑作であり、いまの世の中で重要な主張もしていると思っています。けれども、どれぐらい受け入れられるのかはよく分かりません。なぜかというと、率直に言って、僕は、いまの人文書の読者はこういう本への関心をもたないのではないかと思っているからです。いまや人文書の棚は、自己啓発だとかデモに行こうとかそういう本ばかりになってしまった。ぼくの仕事はそういうものとずいぶん違います。だから、ある意味でこれはぼくがぼくのために書いた本です。いままでぼくは、読者に対して哲学や批評をどういうふうに伝えたら良いかばかりを考えてきました。そのなかで、坂上さんも参加された「ゼロアカ道場」のようなこともやった。それはそれでよかったと思います。けれども、その結果ぼく自身が本当にやりたいことが出来ず、仕事が断片的になってしまった。ぼくは今45歳ですが、このまま死ぬのは嫌だと思いました。自分がやりたいことを素直に書いた本をいちどは出さなければいけないと思いました。だから、この本は結果的には集大成になっていますが、集大成を目指したのではなく、読者への配慮をやめた結果集大成になってしまった、というのがぼくの側の認識です。
坂上
 この本は「観光客の哲学」として書かれていますが、これは『思想地図β』の1号(コンテクチュアズ)でショッピングモールを特集したことにも繋がっていますよね。ぼくは当時、なぜショッピングモールを扱うのかピンと来ない部分もあったんですが、今回『ゲンロン0』を読んで、改めて「観光」や消費のネットワークを考えることの重要性を理解できたように思います。東さんが「観光」を中心とした哲学の展開を考えたのはいつ頃からなんでしょうか。
 そういう意味では歴史は浅いです。『福島第一原発観光地化計画』(ゲンロン)がはじめて「観光」という言葉を中心的に使った本だと思います。問題系としては北田暁大さんとの共著『東京から考える』(NHK出版)のショッピングモールや『思想地図β1』の巻頭言などから繋がっていますが、「観光」という言葉が浮上してきたのは『福島第一原発観光地化計画』からです。
坂上
 それは「ダークツーリズム」であったり、ナショナリズムとグローバリズムの二層構造を考える中で、ある種の抵抗として浮かび上がった問題に見えたのですが、いかがでしょうか。
 この本のテーマでもありますが、ぼく自身はあまりグローバリズムは悪いと思っていません。だから「抵抗」ということもあまり考えません。思想が抵抗の道具だ、という発想が前提になっているいまの人文書の読者さんとは、この点でも世界観が大きくずれています。
坂上
 この本では、「観光」という言葉が世俗的なニュアンスを帯びているがゆえに哲学として語ることが難しいという点にも触れられています。ただ、そもそもの東さんの仕事として、世俗的なものや不真面目に映るものを真剣に扱うことで価値転倒を起こすという狙いもあると思ったんですが。
 価値転倒というのもちがいます。他人に説明するときに、わかりやすいので価値転倒という言い方をすることはあります。けれどもぼくにとっては、転倒が目的なのではなく、最初から世界がそういうふうに見えている。たとえばオタクは重要なように見えているし、観光も重要なように見えている。あえて変なものをもってきているという意識はない。そういう点では、ぼくは哲学や思想が好きなひとの大部分とは、生き方というか人生観というか、人間の根本的なタイプが違うのではないかと思います。たまたま読み物としては哲学や思想が好きで、実際に読んで書いてもいるから仲間だと思われてしまうだけで。たとえばいま、ぼくの本は國分功一郎さんや千葉雅也さんの新刊と並べられています。お二人ともいい書き手なので光栄ですが、でもぼくは彼らとは違う世界に属している。実際にぼくは大学人ではない。同じように、批評や文芸評論の人たちともタイプが違う。ぼくの仕事が、常識的な批評や哲学からすると奇抜に見えるのは、そのような人格の差によるものだと思います。そもそも、「観光」や「家族」という言葉を肯定的に使うのに違和感を覚えると言われても、現実には、哲学や思想をぶつぶつ読んでいるひとより、観光に行ったり家族をもったりして「幸せ」に生きている人のほうがぜんぜん多いわけです。数が正義というわけではないけれど、観光も嫌いで家族も嫌いで、ゲームもやらないしディズニーも見ないしショッピングモールもいかない、そういう人たちばかりが人文書を読んでいてどうなるんだろう、という違和感はあります。カントにしてもヘーゲルにしても、あるいはドストエフスキーにしても、テキスト自体は、そういう人格類型に関係なくさまざまな人たちに開かれているのであって、一部のひとたちだけがそれを独占しているのは異様です。そういう点では、本書は徹底して「アマチュア」の視点から書かれた哲学書です。それは内容が幼稚ということではなくて、大学人や文壇人とはタイプがぜんぜん違う、そういう立ち位置の人間が書いたという意味でアマチュアの本です。しかし、本当は、そちらこそが正しい哲学のすがたなんじゃないでしょうか。たとえば引きこもりとリア充という言葉があるけど、実際にはリア充のほうが世界には多いわけです。でもツイッターをやっていると、世の中引きこもりの「コミュ障」ばかりに見えてくる。それはそれで大事なことだけど、でもそれを真に受けていまの世界はコミュ障ばかりだとか言い出したら、単純に世界が狭いわけです。でも人文書の棚にはそういうところがある。あの世界にいると「単独者」だとか「切断」とか「他者」とか、そんな言葉ばかり聞こえてくるのだけど、それがどのような現実に結びついているのか見えてこない。世界には人文書以外にも素晴らしいものがいっぱいある。それを知っていてはじめて人文書の魅力もわかる。だから僕は大学もやめたし、こうやって一人で会社をやっている。そのうえで哲学書を書いている。
坂上
 「観光」のためには、余暇だったり一定の経済的余裕が必要になりますよね。そうすると、個別的には「観光」そのものにノレない人も出てくるのかなと思ったんですが、その点はどうでしょうか。
 まず第一に本書の「観光」は抽象的な概念です。そのうえで「観光」という言葉を肯定的に使うこと、それそのものが階級的差別に無自覚だということだとすれば、そんなこと言ったら、そもそも哲学書を読むことにも経済的余裕が必要なんで、哲学書を書くことそのものが倫理的に正しくないということにもなる。だからそういう批判はよく分からない。だれもがアクセス可能なものごとについて、だれもが納得するかたちで語ることだけが「政治的に正しい」のかもしれないけど、そうなったら哲学なんて成立しないと思います。たとえば英語やフランス語を読めるようになるためにはかなりの投資が必要なわけです。だとすれば、英語とかフランス語の文献を引用するのは、もうだめなのでしょうか。
「郵便的マルチチュード」とは行動で示すしかない

坂上
 「観光客」と言った時に、多くの人は実際の観光客を想定してしまうけれど、それ以上に概念として捉えなおすことが重要だと。
 もちろん概念として捉え直しています。そうちゃんと本のなかで注意もしています。ただ残酷に言えば、「観光」なり(第二部のキーワードである)「家族」なりといった言葉に過剰反応し「オレは弾かれてる!」みたいに思う読者、そういうひとはそもそも哲学に向いていないと思います。ごくごく常識的に言っても、近代の観光産業はべつに富裕層のものではないし、家族は多くの人間がもっているものです。それが格差の問題に見えるというのは、一種のすり替えだと思います。自分たちが扱いたい問題、労働でも権力でもなんでもいいけれど、そういう問題とは異なる話題を出してくる著者を批判したいだけなのではないか。いずれにせよ、ぼくはもうあまりそういう読者とは関係がなく書いています。世界には観光客であり家族を持っている人たちが莫大にいるのであって、その莫大な読者に向けて書いている。
坂上
 この本では「観光客の哲学」を考える重要なモデルとして、「郵便的マルチチュード」という概念が出されています。そこではネットワーク理論や数学的なモデルも導入されていますが、そうした作業によって「郵便的マルチチュード」に実体が与えられるわけですよね。
 「郵便的」という言葉をイメージだけで言ってもそれこそ否定神学的な振る舞いになるので、別の文脈とつなげてみました。ここはいちばん論争を呼びそうなところですね。
坂上
 2章までが「観光客」というものを扱うことの壁を取り払う章で、3章の二層構造と4章の「郵便的マルチチュード」の話というのが、「観光客の哲学」になっています。3章で扱われた二層構造、すなわちナショナリズムとグローバリズムが弁証法的な移行関係ではなく並立関係にあるという点についてもう少し伺えますか。
 これ自体はよく言われている話で、いまや左右のイデオロギー対立ではなく、ナショナリズム対グローバリズムというかたちで整理しないと分からない現象が多い。たとえばこんどのフランス大統領選ではルペンとマクロンは有力候補と言われていますが、あの対立は基本的には右左の対立というよりもナショナリズムとグローバリズムの対立ですね。だからこそルペンの側に左派も右派も流れ込んでいるし、マクロンもそうなっている。TPP反対とか安倍反対とか言っていれば知識人だと思っている日本の左翼が、ちょっと時代遅れなんですよ。
坂上
 その二層構造から、東さんはアントニオ・ネグリ+マイケル・ハートの「マルチチュード」の概念を、「連帯できないという事実によって連帯する」という「否定神学的マルチチュード」として批判的に論じています。先ほどの「郵便的マルチチュード」はその先に来るものですが、これは具体的にどういったイメージでとらえることが可能でしょうか。
 本では書いていないのですが、「郵便的マルチチュード」の実践のひとつの例は学校だと思います。たとえば同窓会。あれはまさに、「連帯は本当は存在しないのに、むしろ失敗していたのに事後的に連帯があるかのように見える」例ですね(笑)。ああいう時間的なズレを抱えた連帯をどう作るかが、郵便的マルチチュードの実践の肝だと思います。ぼく自身もゲンロンでスクールをやっています。他方で、こちらは本では明示的には書いていませんが、一昨年のSEALDsブームは典型的な「否定神学的マルチチュード」の例ですね。集まることだけが目的化し、内容が空無化し、ポピュリズムに対してポピュリズムで対抗というかたちになった。知識人も次から次へと巻き込まれ、粗暴に振る舞うようになり信頼を落としていった。そして未来になにも残さない。この数年のそんな空しい光景を横で見ながら、自分になにができるかと考えて書いたのがこの本です。
坂上
 未来の読者に向けての本という意識でしょうか。
 未来というだけでなく、いまは見えない多くの読者ということですね。
坂上
 そこは第7章「ドストエフスキーの最後の主体」でも触れている、子どもたちに託すという話にも繋がる部分ですよね。
 はい。それがこの本の最後のメッセージです。
坂上
 第一部で「観光客の哲学」のベース自体は完結しているじゃないですか。ただ、「観光客の哲学」というのだったら、やはり観光客がどこにアイデンティティを見出すのかということも探らなければいけないというのが第二部だったと思います。第二部は第一部ほどまとまった構成になっていないがゆえに、様々なアイディアの種が撒かれていて、非常に刺激的に読めました。
 第二部は、タイトルにもあるように序論です。第一部だけだと、「郵便的」という新しいキャッチコピーを作っただけの否定神学になってしまう。第一部は、国民国家とは政治とイコールで、政治とは人間の条件とイコールだと思い込んでいる読者を、そのような思想の「外」に導く部です。でもそれだけでは、昔「交通」と言われていたものが「観光客」になっただけでもある。そこで第二部では、その「外」で人間がどうやって生きていくかという話をしたかった。しかしそれは、ぼく自身のこれからの実践と関係した話でもあります。だから、第二部が第一部に比べて分かりにくいのは当たり前です。そもそも、分かりやすい説明なんてものはすべて否定神学なんですよ(笑)。第一部は「郵便的」な概念について極めてクリアに、つまりは否定神学的に書かれている。だから第二部が必要とされる。第二部があるというだけではなくて、このゲンロンという会社があり、「ゲンロン」という雑誌があり、そしてこの本が「ゲンロン」0号で、このあとに1号、2号と続いていくという現実の実践がある。それこそが「郵便的」ということです。「郵便的」という概念を、ファッションのように振りかざすのが「郵便的」ではありません。第一部の議論はあくまでも準備なんです。この準備のあとに読者それぞれが何をやるかが大事です。だから、この本は「観光客の哲学」であると同時に絶対に「ゲンロン0」でもある。「ゲンロン」のスタートにあるべきものなんです。
坂上
 会社経営やスクール運営といった著作外の行動も含めて「誤配」を起こすこと。その実践を含めての「郵便的マルチチュード」ということですね。
 そうです。「郵便的マルチチュード」とは、喋って伝えるようなものではない。それは行動で示すしかない。
坂上
 こういう言い方が適切かは分かりませんが、それでも第一部での「郵便的マルチチュード」がどういうものであるかという結論みたいなものを無理やり言うのであれば、それは「憐れみ」に集約されるのかなとも思うのですが。
 偶然性に導かれた感情移入ですね。
ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる

坂上
 その偶然性というのは第二部における「家族」や「不気味なもの」、それからドストエフスキー論の先にある「子ども」の話と繋がっているものですよね。その意味では第二部全体を偶然の哲学として読むこともできるのかなと思ったんですが。
 うーん。まあそうなんですが、でも「偶然が大事です」と言いたいわけでもないんです。そう言ってしまうといきなり陳腐になってしまう。
坂上
 その中でとりわけ聞いておきたいのがドストエフスキーを論じた部分です。「子どもたちに囲まれた不能の父が観光客の主体になる」という書き方をされていますが、不能の父というのは無力な父とは別なわけですよね。そして無力でないのはなぜかと言ったら、子どもたちに世界を託すことが出来るからだと。
 これは簡単な話で、要は、父といってもだいたい子供からは馬鹿にされるしいいことない、でも父になるしかないでしょってことですよ。ヨーロッパ的な父、特に哲学の概念として話題になるような「父」は、非常に強い家長的存在でしょう。でも現実に父親になるというのは、そんなことではない。
坂上
 もっと俗的な存在というイメージでしょうか。
 世俗的というか、現実として、父というのは情けないものですよ。べつに生物学的な父でなくても象徴的にも、父なんてのはたいてい弟子たちに馬鹿にされ捨てられて終わるものです。それがイヤならば弟子を作らないしかない。でもそれは空しいしそれではシニシズムから抜けられないよ、というのがぼくの本のメッセージです。じつはこの議論はジェンダーは関係ないので父じゃなくて「親」にしたくて、入稿の直前まで迷ったのだけど、どうも「不能の親」だと表現がしっくり来なかったんですよね。あと、これも本には書いていないんですが、ぼくの考えでは生きることそのものが「観光」なんです。ぼくたちはこの現実に観光客のようにやってくる。たまたまある時代ある場所に生まれ落ち、ツアー客がツアーバスで見知らぬ他人と同席するように、見知らぬ同時代人と一緒に生きていく。ツアーは1年で終わることもあれば80年続くこともあるけど、いつかは終わり、元の世界に戻っていく。そしてそんな観光地=この現実に対して、ぼくたちはほとんど何もできない、何も変えられないし、ほとんどのことは理解できない。でもちょっとだけ関わることができる。人生ってそんなもんだと思いますね。
坂上
 東さんはハイデガーの思想を逆転させるような形で、死に向かうのではなく出生する存在として実存を捉えなおそうとしています。それが「観光」に繋がるという理解でいいんでしょうか。
 そうですね。ハイデガーの場合は、人生は旅だとして、終着点に向かっている。でも観光客は戻るところがあるんですね。これ以上語るとオカルトっぽくなるけど、ぼくの生命や実存への感覚には変なところがある。ぼくというのは、たまたまこの時代に生まれ落ちた魂のひとつの表現だと感じるというか……。『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社)では、それがプレイヤーとキャラクターの二重性という言葉で言われていたんですけどね。今回はそれが「観光」という言葉で表現されている。
坂上
 第2部では、偶然で生まれた子どもが偶然で死に、また新しい子どもが偶然で生まれるという運動を繰り返す中で必然性が生じるというお話をされています。そこにも、生まれ変わりのニュアンスは含まれているように感じました。
 そうですね。『クォンタム・ファミリーズ』(新潮社、河出文庫)も、言ってみれば生まれ変わり小説ですからね。むろん、物理的には生まれ変わりは存在しませんよ。ただ、生まれ変わりという概念を想定したほうが、人間の世界への態度を説明しやすいような気はしている。この問題の探究は、今後の長期的な課題ですね。
坂上
 いまのお話も含めて考えると、「郵便的マルチチュード」というのはヒューマニスティックな提案でもあるように思います。
 はい。
坂上
 ネグリ+ハートの「否定神学的マルチチュード」は「愛が大切だ」というような信仰告白に留まっているけれど、「郵便的マルチチュード」であれば個別的状況での「憐れみ」や「子ども」の話に繋がっていく。そこにネットワーク理論などが挟まることで、現代だからこそ思考できる新しい実存のかたちを作ろうとしているように見えました。
 そう言えるかもしれないけど、抽象的に実存の話になってしまうと、たまたま会った人を大切にしようみたいなとても陳腐な話になってしまうので、もう少し具体的なところでとどまりたいですね。
可能世界論とも親和性が高い誤配の「再上演」

坂上
 「郵便的マルチチュード」に関しては、スケールフリー=不平等性から偶然性を奪い返す「誤配の再上演」が重要だという話が極めて印象的でした。「観光」に繋げて考えると、「村人」は安全な場所に住み、「旅人」はリスクを犯して様々な場所を移動する存在だと言えるように思います。じゃあ「観光客」はどうかと言えば、これは本当は安全な場所にいられるはずなのに、リスクのあるフリをして別の場所に行く人々としてとらえられるのではないかと。
 「再上演」というのは、なんといえばいいのかな、誤配そのものはそもそも誤配だから定義上計算では作れないんだけど、その可能性が高くなるような条件は作れるよねということです。たとえば若い頃は飲み会とかで徹夜で「ウッヒョー」みたいな感じで知らないやつと飲んだりする。誤配の場ですね。でも歳を取るとやらなくなる。とはいえ完全にやらなくなると偶然の出会いもなくなるから、時々は無理して飲まないといけない。そういうことです(笑)。
坂上
 「誤配の再上演」は可能世界論とも親和性が高いように思いました。たとえばノベルゲームだと、ひとつの作品をプレイする中でいくつもの結末に出会うことができる。そうした構造は「再上演」的だなと。
 そう言えるかもしれないですね。
坂上
 たとえばアフリカに行くとして、そこには何が起こるかわからない可能性の束みたいなものがあり、いろんな場所に行くたびに異なる人やものと出会う。言ってみれば、可能性の束に身を投じることで誤配が生じていくというニュアンスがそこにはあるのかと感じるんですが。
 友人は本当は「だれでもいい」んですよね。たまたまあるタイミングで出会ったからいま付き合っているわけで、別のタイミングで別の人に会ったらその人と付き合っているかもしれない。そういうことを時々思い返すのが大事だということですね。
坂上
 当事者性と非当事者性みたいなことに関して、この本を読んでいろいろ考えるところがありました。当事者性を最優先にするよりも「観光客」を利用してイメージの更新を図る方が有益な局面というのが多々あるわけですよね。本書で触れられているように、チェルノブイリへ「観光」に行くことで「思っていたよりも普通だった」という感想が出るのは、外部からイメージを変えていく運動として意義があると思います。
 そうですね。でもその提案はいちど「観光地化計画」で失敗したので……。ぼくとしては、この本で理論は書いたし、実践としてはそのような当時者性とは別のところでやっていこうと思っています。
坂上
 それは第一部の最後にリチャード・ローティが来ていることと連関しますか。リベラル・アイロニスト的な感覚からこの本は生まれたというような。
 どうでしょうね。そういう理論的な話というより、震災後の日本の現実に対しては、単純に諦めたというところがあります。むろん、この現実を変えようと努力しているひとがたくさんいるのは知っている。ぼくはその人たちを尊敬します。けれど、ぼくもぼくで人生があるわけで、死ぬまでになにか未来に残したい。そう思ったからこそこの本が書けました。こういうこと言うといまの時代では無責任と罵られるかもしれないけど、そもそも思想とか哲学とか、もしくは文学でもなんでもいいんだけど、そういうことを考える人間にとって、本来この「2010年代の日本」なんてたいした問題じゃないと思うんですよね。ぼくたちはもっと100年とか200年とかそういう単位で、人間とは何かとか世界とは何かとかを考えるために生まれて来た。それなのに、たまたまこの2010年代の日本にいるからって、何でいつまでもこの現実につきあわなければいけないんだろうとは思いました。
ゲンロン0はポストモダニズムのアップデート

坂上
 東さんの中でそうした感覚が強くなったのはいつ頃からですか。
 それも震災後ですね。震災前、2000年代後半ぐらいからテレビに出るようになって多少有名になったし、いろいろ有力者の友人も出来た。そうしたら震災が起きたので、世の中に多少関われるのかなと思っていろいろやりました。けれどもまったく成果があがらなかった。それどころか会社が潰れそうになった。ちょっと待てよと、これはどうなんだろうと真剣に思いました。そこで自分の限界を知るとともに、やるべきことも見えてきました。
坂上
 おそらく批評の読者の中には、震災以前のゼロ年代にはオタク論やコンテンツ論が強かったけれど、震災を境にして社会学的な批評が強くなったと感じている人も多いと思います。ただ、いまの話を聞いて、お気楽でバカっぽく見えた「ゼロ年代批評」の方が自由で射程の広い思想を展開しやすい環境にあったのかなと感じました。
 いや、そんなことはないと思います。ぼく自身も似たことを考えたことがあったので、反省を込めての答えですが。たしかにオタクというのはそもそも現実から遊離する存在だった。だからオタク論は独自の世界で、おもしろい議論が現れたのも確かです。けれどもそれは、書き手がまだ若いなど、唯物論的な条件で論者が現実から離れることが許されていたからできていただけです。彼らが現実に直面し、あえて選択していたことではなかったわけです。実際震災後、その弱みが明らかになりました。ゼロ年代批評の担い手は普通にメディア言論人になったし、オタク論壇も社会学に呑み込まれた。現実に直面して、そのうえで現実から距離を取るような「ゼロ年代批評の後継者」は、結局存在しなかったわけです。これは小説やサブカルチャーも同じかもしれない。そこに文句を挟むつもりはありません。ただぼく自身はそういうのに興味がない。
坂上
 そのお話はまさに「観光客」的な生き方と通じていますよね。世の中では真面目とされていることが実際は無意味で、現代においては俗的に見えるような態度をとるというような。
 いちおう付け加えておくと、ぼくは現実では会社もやっているし、この本も自分で巨額の印刷費を払って刷って売っているわけです。そこではいろいろ細かい問題に直面して、小さなトラブルで心を痛めたりしている。だから、読み手としてはそういう「小さい物語」にも共感します。でも、それと哲学は別だというのがぼくの哲学観ですね。
坂上
 「観光客の哲学」は普遍性を持っていると東さんは考えているわけですよね。
 当然です。そもそも哲学的な態度とは観光客の態度のはずだ、というのがぼくの考えです。ぼくがなぜこの本でヘーゲルを批判しているかといえば、彼こそが、哲学を国家にとって「役立つもの」にしようとした張本人だからです。あともうひとつ、今日はぜんぜん話題にのぼりませんでしたが、ゲンロン0はポストモダニズムのアップデートです。ポストモダニズムはいまでは古い思想だと思われていますが、実際には二〇一〇年代のいまこそ社会のポストモダン化が徹底した時代であり、したがってその読み直しには大きな可能性があると思います。たとえば、普遍性について、近代においては、家族、社会、国民、そして人類全体へといったように、全体性の拡大としてしかイメージされてこなかった。しかしそういう拡大は必ず全体から排除されたものを生み出すので、自己矛盾を孕むことになる。リベラリズムの限界はまさにここにあったわけですが、ポストモダニズムはまさにそこで、充実した全体性とは違う穴の開いた全体性があるといったことを論じてきた。そのような思想はいままでは言葉遊びだと思われていたけど、トランプの時代のいまこそ、もっと実践的かつ具体的に論じられるべきではないか。国民という充実した全体性に対して、ウィトゲンシュタイン的な家族的類似性で組織される、穴だらけの全体性として人類を考える。それはかつては「リゾーム」なんて呼ばれていたのだけど、あまりにも曖昧なのでそれをアップデートする必要がある。これも本のなかに書いてあります。
坂上
 「ツリー」と「リゾーム」ではなく、「スモールワールド」と「スケールフリー」によってモデルを更新するというお話ですね。
 そうです。そこで「郵便的」という概念には大きな可能性があると思います。今日は話さなかったけれど、こういう思想的な議論だったらまだまだ展開できる。日本はダメだけど、海外ではおもしろい本もときどき現れています。繰り返しますが、いまの世界はポストモダンがますます深化している世界です。ポストトゥルースなんて流行語が生まれましたが、あれは要はポストモダンってことです。正義も実証も存在しなくなった世界でなにをするか。それこそがポストモダニズムが考えていたことではないですか。だから、この現実に対しては、ポストモダニストは、本当はポストモダンの理論を深めることでこそ応答しなければいけないのです。近代になんて帰れるはずがない。ぼくは、かつてデリダやフーコーやドゥルーズやボードリヤールを読んだ人間として、その責務を果たしているだけです。
坂上
 本書で様々な哲学者の思想がクリアに要約され、新しい議論を生み出しているのを見ると、読み返すことと読み替えることの重要性はどうしても感じてしまいますね。
 昔のものを読んで、100年とか200年とかの単位でものを考えるというのは大切です。ここ10年のものしか読まないでなにかを語ろうというのは、根本が間違っている。この本をきっかけにして、人類とは何かとか、世界とは何かとか、文明とは何かといった大きな問題について世紀単位で考えるひとが、ふたたび増えてくれるといいと思います。

(おわり)

この記事の中でご紹介した本
ゲンロン0 観光客の哲学/株式会社ゲンロン
ゲンロン0 観光客の哲学
著 者:東 浩紀
出版社:株式会社ゲンロン
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年4月28日 新聞掲載(第3187号)
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