映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(4)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ジャン・ドゥーシェ氏に聞く「映画/映画作家/映画批評」
2017年5月2日

映画/映画作家/映画批評 ジャン・ドゥーシェ氏に聞く(4)

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クロード・シャブロル(中央)とドゥーシェ
HK
 トリュフォーや『カイエ』の若い批評家たちが「良質のフランス映画」を非難したのは、この種の映画で登場人物たちが下劣に扱われていたのが主立った理由だったのですか。
JD
 詳しい説明が欲しいというならば、あの有名な「カポのトラヴェリング」があります。
HK
 1961年にリヴェットがポンテコルヴォの『ゼロ地帯』について書いた「卑劣さについて」という記事ですね。「カポのトラヴェリング」はセルジュ・ダネーの最後に書いた記事のタイトルでもあります。要するに『カイエ』が常に問題にしてきた「映画のモラル」を象徴する記事といっても良いのではないでしょうか。リヴェットはポンテコルヴォとアラン・レネの態度を、ダネーはポンテコルヴォの計算された卑劣さとジョージ・スティーヴンスの強制収容所に差し向けられた無垢なまなざしを比較していました。
JD
 そうです。リヴェットのその記事です。つまり映画作家はこの種の出来事について、美しい画面を作る権利はないのです。移動撮影のレールを敷き、そして有刺鉄線で自殺しようとするエマニュエル・リヴァの背後に見える人々の行進を配置するようにして、全てを前もって計算することはできないのです。このような出来事に対して美的効果を作り出そうとすることなど下劣極まりないです。だからこそ、映画というメディアの中に、繰り返しモラルのまなざしを導入しなければいけません。言い換えるならば、結局のところ、生についての理念を持たなければいけないのです。生というものは想像以上に複雑なものです。映画は、一般的に考えられているよりも、生についての悪いイメージを観客に提供することさえできるのです。多くの観客たちは、実は悪いイメージが提供されているとは気づきません。このことが問いとなっているのです。つまり問題はいつも、あなたが見るものであり、あなたが見るまなざしなのです。何を見るか、見たもの中で何を見つめることができるのかとということです。このような理解を踏まえた上で、強制収容所のようなおぞましい出来事についての作品を、ポンテコルヴォのような演出法から見つめることを受け入れられるのでしょうか。容認しがたいことです。
HK
 モラルについての話が出ましたが、『カイエ』の長年問題にしてきたこのモラルという観念が、『カイエ』の批評に対する多くの反感や誤解を生んでいる原因の一つだと思います。『カイエ』の連中がそもそもモラリストではないといったような批判まであるくらいです。
JD
 その批判のように、彼らはモラリストとは言い難いです。この件に関しては注意をしなければいけません。モラルとは非常に高尚な概念です。一方でモラリストとは非常に低俗な概念です。モラリストとは他人に何かを強制し痴話話の対象にするような人たちを表すための概念です。非常にくだらないことです。モラルとは生について、存在についての考えを持つための概念です。崇高な考えなのです。モラリストとは「あれをするな、これをするな」と人を妨げる人たちのことを示す概念です。モラリストは禁止し、モラルは許すのです。このことがあまりよく理解されていません。
HK
 このようなモラルの考えは非常にフランス的だと思います。例えばネオレアリズモの時代の、つまり50年代のイタリア映画を見るときに毎回思うのですが、大半の作品がモラルのような観念を考えることなしに撮られているはずです。
JD
 言われた通り、イタリア映画というものは、そのような観念とは無縁でした。しかしイタリア映画とは、とりわけロッセリーニの映画がそうなのですが、人生についての映画だったのです。戦後の映画の危機の中で、それが表に現れたわけです。人生についての映画とはモラルの映画そのものです。非常に倫理的なのです。作家が何かを提示し、私たちが何かを見つめる、そして何かを発見するのです。 <次号へつづく>
〔聞き手=久保宏樹/写真提供:シネマテーク・ブルゴーニュ〕
2017年4月28日 新聞掲載(第3187号)
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