南摩羽峰と幕末維新期の文人論考 / 小林 修(八木書店)南摩羽峰と幕末維新期の文人論考|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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ここを伝えたい!本の編集者より
2017年5月1日

南摩羽峰と幕末維新期の文人論考

南摩羽峰と幕末維新期の文人論考
著 者:小林 修
出版社:八木書店
この本の編集者:滝口 富夫(八木書店)
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『南摩羽峰と幕末維新期の文人論考』という本を、3月21日に刊行しました。

羽峰南摩綱紀は幕末維新期に会津藩士として前半生を過ごしました。明治期には高等師範学校の漢学教授として後半生を送ります。本書は、羽峰の前半生の事跡を中心に纏めました。そして、羽峰を調査研究する中で現れた同時代の文人達についての論文を併せました。

担当編集者としては「ぜひ、多くの人に、この本の魅力を知ってもらいたい!」と思い、旧知の新聞記者を訪ねて、紹介記事をお願いしました。すると幸いにも、3月29日の読売新聞朝刊文化面(15面)で紹介されました。

「井伊襲撃 弾が致命傷か」「桜田門外の変 浪士聞き取りの日記」「実践女子大・小林修教授が新著で紹介」といった見出しとともに、「桜田門外の変について記した安田清風日記のコピー」の図版入りの記事でした。

この記事は、本書所収論文「安達清風—新出日記に記された桜門外の変」の紹介が中心になっています。この本を注目してもらうのに、一番分かりやすい論文だと判断したからです。というのも、新聞はNEWS、つまり新しい情報をひろめるメディアです。ですから新聞の使命として多くの人が感心をもつことに対しての全く新しい情報を探しているのです。

幸い今年はNHKの大河で女城主直虎で、井伊の先祖の物語を放映しているので、井伊家は注目されています。その井伊家の幕末のスターである井伊直弼の最期となる「桜田門外の変」です。本書には、NHKでも度々取り上げている井伊直弼を襲ったピストルの弾丸について、襲撃の首謀者の一人が語った事件直後の証言が書きとどめられた日記が、初めて出現したのですから、新聞で取り上げてくれるのは、間違いないと思っていました。

ちなみに、『安達清風日記』は安政元年(1854)から明治3年(1871)までの日記で、大正期に『日本史籍協会叢書』として出版され、現在では、国会図書館近代デジタルコレクションで閲覧可能になっています。しかし、安政6年(1859)から文久2年(1862)の三年余りの部分は活字化されていません。活字化された日記をみると、三年間も日記を書かないというのは考えられないと思われていました。遺族の家でその欠落部分のうち、安政6年~文久元年(1861)が見つかっていたのです。そして、本書の著者は、東京に住んでいた清風のご遺族と知り合っていて、ふとしたことから、清風日記の話になって、「それじゃぁ、といって」、本家からコピーを送って貰い論文として発表することが出来たのです。羽峰と安達清風は、昌平黌で共に学んだ間柄なので、その日記は、羽峰を調べるのに欠かせなかったことが、きっかけでした。

長年、編集者をして多くの研究者の方々と接していると、「新資料というものは、強く求めている研究者の元に降りてくる」と話題になることがありますが、本当のことだと実感した次第です。

それはともかくとして、本書の主題は南摩羽峰の事績とその時代の文化状況についての論究です。担当編集者としては、やはり羽峰について、知って欲しいと思っておりますので、私が、本書から読み取った幕末維新期の羽峰の事績について、ダイジェストでまとめることで、本書の予備知識にしていただければと思います。

羽峰は、勝海舟や写真家の下岡連杖と同じ文政6年(1823年)に生まれ、明治42年(1909 年)に亡くなります。会津藩士の三男として生まれ、弘化2年(1845)に藩命により昌平黌に留学。嘉永6年(1853)、ペリー来航に遭い洋学を学び始め、安政元年(1854)、32歳で退学。その後、藩命により、安政2年(1855)西国諸国の探索。大坂を拠点とし、四国・九州遊歴、安政4年(1857)に会津に戻ります。

羽峰が、会津藩に提出した報告書『負笈管見』(ふきゅうかんけん)は、西国各藩の政情・風俗を記していて注目に値しますが、中でも、当時他国人の入国を拒んだ薩摩藩のレポートは貴重です。

会津に戻ってからは、2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、西島秀俊が演じた山本覚馬と共に、藩に西洋学館の設立を建白し、その教授となります。その後、山本覚馬や秋月悌次郎などと一緒に幕末動乱の京都で活躍していれば、「八重の桜」にも登場したのかも知れませんが、そうなりませんでした。

というのも、文久2年(1862)全く逆方向の北海道標津に蝦夷地代官として派遣されるからです。ここで6年間、藩領を巡検、漁業の奨励、北方の警備にあたる一方、アイヌに人倫を説き『孝経』を訳して教化の資料としました。

羽峰が、京都に行くのは、慶応3年(1867)8月、会津藩京都藩邸学識に任じられたからです。鳥羽伏見の戦い勃発は、翌慶応4年(1868)1月です。

そして、鳥羽伏見の戦で瀕死状況となりましたが、助けて貰い〔このエピ-ソードも本書で詳述〕、大坂の戦況を探索し、敗残の仲間を集めて、紀州串本町から三河吉田まで船で引き上げ、江戸に戻ります。その後、会津戦争では、奥羽越列藩同盟の為に各地を転戦し、会津鶴ヶ城の落城を庄内鶴岡で知り、捕らえられ、結局高田藩領の寺に閉じ込められます。

明治3年(1868)4月に赦免され、越後横曾根の正心学舎に招聘され、近代的な教育方針・カリキュラムを組む。続いて淀藩藩校明親館督学に招聘・京都府学識となります。そして、会津藩が京都守護職であった時代の記録『会津藩庁記録』を入手、その中に孝明天皇が松平容保の宛てた宸翰を入手。後年、明治29年7月11日の『学海日録』には、羽峰がこの宸翰のことを史談会ではじめて発表した衝撃が詳細に記されています。つまり、この孝明天皇の宸筆のことは、歴史の波に埋もれていたかも知れないのですが、羽峰が京都で見つけて、しかるべく発表したことから始まって、現代の幕末のドラマや映画の題材に不可欠なものになった、ということなのです。

ということを担当編集者として読み取りましたので、どうぞ、ご参考にして下さい。

これに続く第2部は、羽峰と交流のあった人物についての論考です。加えて、余滴と題して、同時代の文人達について記したエッセイを数編加えています。

羽峰は、明治期には高等師範の漢学教授としてその生涯を送るのですが、昌平黌時代からの学友や、遊歴時代の知己などとの交流を大切にしたのでしょう、そして、それらの学友・知己の多くから彼らの著書の序文を頼まれています。

現在一番有名なものは、教科書にも出てくる「自由之理」、中村正直の著書ですが、この序文を羽峰が書いています。ちょっとジャンルが異なると思われるのは、先日まで渋谷で開催されていた河鍋暁斎展の図録の解説でも触れられていますが、「河鍋暁斎日暦画帖」の「跋」があります。

本書には、このようなに南摩羽峰の幕末維新期の事績が、7つの論文で記されています。史料の翻刻も多く、ちょっと難しいと感じる向きもあるかと思いますが、史料から読み取れたことと、別の史料から分かってきたことの繋がりから、新たな事実を割り出すという非常にオーソドックスな学術的手法で構成されていて、その鮮やかさには目を瞠る物があり、これぞ、人文学の面白さと、思える、お薦めの一冊です。ぜひ、手に取ってお読みいただけることを強く願っています。

図書館にリクエストしていただけたら、すごく、有り難いと思っております。幕末維新期の郷土資料としても役に立つ内容も含まれていますので。

左記のように地図を入れた宣伝用のチラシも作りましたので、pub@books-yagi.co.jp までご請求いただければ幸いです。

最後の願いは、羽峰の生き方を知ってもらった、歴史小説家のどなたかが、小説に仕立ててくださればきっと面白い小説が出来ると信じています。

ちなみに、羽峰が登場する小説で管見に入ったものは、早乙女勝元『会津士魂』(集英社文庫)で、これには冒頭に出て来ます。もう一つは、中村彰彦『落下は枝に環らず―会津藩士・秋月悌次郎―』(中央公論文庫)です。羽峰の盟友・韋軒秋月悌次郎が主人公ですので、本書と併せて読むことをお薦めしたいと思います。
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南摩羽峰と幕末維新期の文人論考/八木書店
南摩羽峰と幕末維新期の文人論考
著 者:小林 修
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