憲法九条からナチスへ  核保有、非武装、新九条の不毛|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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論潮
2017年5月9日

憲法九条からナチスへ 
核保有、非武装、新九条の不毛

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憲法施行七十年。国会では改憲勢力が三分の二以上の議席を占める。総理はやる気満々だ(「安倍晋三首相「憲法改正へ総力挙げる」 保守系議連で意欲表明」産経新聞、三月四日)。今回は憲法九条を取り上げるが、論壇界での議論はどうか。

(1)三浦瑠麗氏は、「北朝鮮の暴走」に「硬軟両面」で対処せよと言い、「強硬策の軍拡」について、「「交戦権の否定」を規定する憲法9条2項は削除」し、「非核三原則のうち、「持ち込ませず」を撤廃」し、「日本自身」が「核保有に向けて踏み出す」べきと主張する(三浦瑠麗「「非核三原則」を捨て、北朝鮮との「国交回復」を」『新潮45』四月号)。「ドイツやイタリア」式の「核共有」か、これについて「隣国が妨害し、あるいは米国が明示的に反対するようであれば、より自立的な形態の核武装についても模索せざるを得ない」。臆病な犬ほどよく吠える。小型戦術核のみを扱う核共有は、北朝鮮の長距離弾道ミサイルへの抑止にならず、軍拡の余計な口実を北朝鮮に与える。自立的核武装は、核拡散防止条約(NPT)の離脱に加え、NPT体制自体の崩壊を招くから、日米関係を悪化させ、やはり北朝鮮を利する。三浦氏は保守派の御用学者と思いきや、喜び組のようだ。

(2)大澤真幸氏は、「九条は絶対平和主義を謳っている」と言い、「あらゆる武力行使を否定する」その「崇高な理想」に「妥協なく従うべき」と主張する(大澤真幸「日本人はなぜそれを躊躇してきたのか」『中央公論』五月号)。「自衛隊をもつだけで、九条の第二項を裏切っている」し、「日米安保条約も、九条の精神を蹂躙している」。しかし、なぜ絶対平和主義が「ほんとう」の「解釈」なのか。大澤氏は「外寇」に対し「弾を受けて死せんのみ」と説く洋学紳士君のようだ(中江兆民『三酔人経綸問答』)。武闘派の豪傑君が「失笑」するだけではない。絶対平和主義を意味するなら、九条は幸福追求権を謳う十三条に反する。人権尊重は最高法規なので(九七条)、九条改正が必要になろう。

(1)と(2)は要するに、改憲派と護憲派の旧き対立を出ない。真逆の主張だが、結果を見ない点で、両者は共通する。M・ヴェーバーの「心情倫理」だ(『職業としての政治』)。

(3)『社会運動』季刊一月号特集「護憲派による「新九条」論争」を興味深く読んだ。想田和弘氏は、「自衛隊を米軍の補完部隊として差し出すための「戦争法」が施行され」、「9条そのものが殺された」ため、「「新9条」を創らなければ、日本の平和主義は9条とともに朽ちていく」と主張する(想田和弘「「新9条」を創る」)。論理の飛躍だ。戦争法によって九条が死んだのなら、戦争法をなくせば九条は生き返る。「九条を変える必要は全くありません」、「安保法は憲法違反だから廃止するべき」と言う辻元清美氏のほうが、筋が通っている(辻元清美「改憲の中身を議論すべき」)。必要なのは憲法改正よりも政権交代だ。政権戦略が問われる。斎藤美奈子、大内裕和「「日常の戦争化」に抗する」『現代思想』四月号の「社会民主主義」から、野党は多くを学べる。

さらに、九条は死んだのか。伊藤真氏は「もし「九条が死んでいる」のであれば、「限定的集団的自衛権」などと政府が弁解する必要もありません」と批判する(伊藤真「憲法は魔法の杖ではない」)。「交戦権も認められるのですから、多国籍軍に堂々と参加できますし、もちろんPKO参加5原則も不要です」。杉田敦氏も「改憲派は、九条が現に生きているから」「集団的自衛権まで認めさせた後に、なお、九条を変えようとしている」と反論する(杉田敦「九条は立憲主義の原理を示す」)。「九条2項は改憲派の悲願ですので、あきらめないと思います」。

想田氏は「恣意的な解釈が不可能なくらい明確に書き込んだ「新9条」を制定すべき」と主張する。今井一氏も同じ立場だ(今井一「国民投票は九条を甦らせる」)。しかし「どんなに憲法の条文で戦争を限定しても、解釈の余地は必ず残る」(伊藤氏)。新九条に「個別的自衛権と書けば、定義問題が終わるなどというのは幻想です」(杉田氏)。「アメリカは「9・11テロ」に対する反撃が個別的自衛権の行使だと主張してアフガニスタンに戦争をしかけました」。

想田氏も今井氏も、自衛隊を「自衛戦力」とする伊勢崎賢治氏の新九条案に賛成する(伊勢崎賢治「憲法九条の「限界」を考える」『社会運動』一六年十月号)。彼ら三氏も、三浦氏も大澤氏も、自衛隊の存在の憲法上の根拠が九条でなく、前文(国民の平和的生存権)と十三条(国民の幸福追求権)であることを知らない。自衛隊は両権利の保障のためにのみ存在する。戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認を謳う九条は、自衛隊がその存在理由を逸脱しないための、機能に関わる根拠である。ゆえに「自衛隊は憲法の言うところの「戦力」ではなく、従って、軍隊とは違う」(杉田氏)。

これは憲法学者の「長谷部恭男さんらの解釈」で、「従来の政府見解とも一致」する。自衛隊は国民の権利のためにあり、他国のために武力行使できない。つまり集団的自衛権に憲法上の根拠はない。だから長谷部氏は、国会憲法審査会で「安保法制は憲法違反」と警告した(辻本氏)。与党の斉藤鉄夫議員ですら、「今回の安保法制で認められた集団的自衛権は、個別的自衛権と言い換えてもいい」と弁明する(斉藤鉄夫、保岡興治、小沢鋭仁、枝野幸男、田原総一朗「70年間改憲できなかった本当の理由」『中央公論』)。ならば、安保法制は廃止でよい。

戦力たる「自衛隊は今までの自衛隊とは性格が変わります」(杉田氏)。新九条は前文と十三条の根拠を不要にするか、希薄にする。その分、軍隊に近づく。「「これは軍隊である」と解釈され、軍隊であればアメリカ軍と同様に海外での武力行使ができるのではないか、という解釈が必ず出てきます」。「現状では」「自民党が賛成しない案が3分の2を取るというのは現実にはあり得ないので」、新九条も「自民党が賛成する形に修正されてしまう」。結果的に「『新九条』論は自民党による改憲をサポートしてしまう」。心情倫理だ。自民改憲案では、九条2項は「自衛権の発動を妨げるものではない」とされ、新九条と部分的に重なる。利用価値ありだ。

今井氏は、新九条の「国民投票」を提唱する。伊藤氏は「井上達夫さんの九条削減論」と合わせ、「「戦争するか否かをその都度国民の多数意思で決めればいい」というのですから、日本国憲法の立憲主義を根底から否定する」と批判する。杉田氏も、九条は「軍事にかかわる権力を抑制する」意味で、「平和主義の原理にとどまらず、立憲主義の原理でもある」と釘を刺し、「「自由な政治的言論の市場が出現する」という、あまりに楽観的な前提を立てている」と井上氏を、また「どちらに転ぶかわからない塀の上を歩く」と新九条の国民投票を批判する。「武器を売ろう」と、「自衛隊を海外に出してくれ」と「経済界から強く要請される」そうだが(辻本氏)、「一個人が大企業に対して、対等な戦いができると考えるのはおかしい」(杉田氏)。「40%の投票率」なら「20%の賛成で憲法改正が成立する」。死の商人の組織票で十分だ。「ポピュリズムが台頭する」なか「国民投票で賢明な結論を出せるのだろうか」との問いにも、今井氏は「自分の責任で良心に基づいて決断するのが国民投票」と実に楽観的だ。改憲の「広告宣伝」を「仕切る」暗黒企業「電通」が、愚民誘導し放題なのでは(本間龍「電通事件」『世界』五月号)?今井氏は「四対六で負け」ても「四は残る」という鶴見俊輔氏の言葉も引く。「改憲の国民投票は負けたら終わり」だ(伊藤氏)。

核保有、非武装、新九条は不毛だ。ヴェーバーは心情倫理家を「ロマンチックな感動に酔いしれたホラ吹き」と一蹴する。殊に後二者はリベラルの劣化を象徴する。その隙に乗じて、いよいよやって来る。

憲法改正についてはナチスの手口に学んだらどうかと、麻生副総理は言った。発言は撤回されたが、行動はどうか。自民改憲案では、九条2項の戦力不保持と交戦権否認は削除、前文の平和的生存権も削除、十三条の幸福追求権は「公の秩序に反しない限り」で尊重され、「国防軍」が「公の秩序を維持」する。「「国防軍が出動するかもしれない」と想像するだけで、国民はこわがり、国のいうことをよくきくようになるでしょう」(『あたらしい憲法草案のはなし』)。もはや全権委任法だ。いやその前に、「憲法を改定し、今以上に世界中に軍隊を派遣できるようにする時には、反対者がもっと広範に出てくるだろう。それを徹底的に取り締まれる法律が必要になる。その時に共謀罪は、その気になればいくらでも使える」(内田博文「共謀罪と治安維持法」『世界』)。ナチスの手口どころか、ナチスの本体が生じつつないか。民主政から最悪の僭主政が生じると、プラトンは言った(『国家』第八巻)。今回も人民は、後に「やっと思い知らされる」のか。

2017年5月5日 新聞掲載(第3188号)
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