〈5月〉 二人冗語  アナクロニズムな風景|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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文芸
2017年5月9日

〈5月〉 二人冗語 
アナクロニズムな風景

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福島
 今月は定番四誌に加えて季刊誌『文藝』。何か目立った傾向はありましたか。
馬場
 いろいろと古いというか、レトロな感じがしましたね。旦敬介「アフリカの愛人」(新潮)のフロッピーとか、中原清一郎「消えたダークマン」(文藝)の暗室とか…。奇しくも、旦も中原も五〇年代生まれ。
福島
 アイテムが古いのは仕方がないのでは?
馬場
 それにあわせて主人公の意識が古かったように思えます。「アフリカの愛人」は植民地支配する白人気分の既婚中年男がケニアで現地の若い愛人ができてしまい、妻から逃亡するという話。愛人の部族の問題といった現地事情は物珍しい情報ではありましたが…。「僕」と名乗る語り手が、実は愛人との間にできる未来の赤ちゃんという設定は、一工夫かもしれないのですが、その「僕」が未来の父と母の打算的な行動を解説していくというあられもない話でもあります。
福島
 この語り手の設定には必然性が感じられませんでした。最後の文章で語り手の正体が明かされるというパターンは、二瓶哲也「墓じまい」(文學界)にも見られましたが、同じく非現実的であっても、こちらの語り手にはマジック・リアリズム的な突き抜け感がありましたね。
馬場
 墓の下の隣人が語っていましたからね(笑)。全部が方言というのも読みでがありました。
福島
 「消えたダークマン」は話の誠実さには好感が持てましたが、結末で自分を裏切った同僚に言う「それでも日本人か!」には言葉を失います。こんな台詞が有効な世界がまだあるのか、いや有効だった時代が一度でもあったのでしょうか…?
馬場
 表舞台で活躍できなくなったカメラマンが、誰もが厭う戦場(コソボ内戦)に行くことでプロ根性を発揮する話なんですが、そのアイデンティティの在り処はまさしくアナクロだったというオチなのかも。ダークマンと同じで。
福島
 八〇年代生まれの早助よう子「非行少女モニカ」(文藝)は、古臭いというよりも不思議系ですね。内ゲバから逃走中の家族という設定は、まるで昭和風居酒屋に飾られている大村崑の「元気ハツラツ!オロナミンC」のホーロー看板のレプリカです。もはやレトロ感ですらなく、デペイズマン(異郷効果)のためのガジェットです。島田雅彦がデビュー作で左翼を「サヨク」と書いただけで、世間が大騒ぎしていた時代が懐かしい…。
馬場
 学生運動を扱いながら政治は骨抜きですね。それを物怖じせずに書いているという点が、新鮮ではあります。
福島
 骨抜きした結果、何を書きたかったのか誰にもわからなくなっている…。語り手のモニカが生者かどうかもわからないという点が見せどころなのかもしれませんが、それすらも曖昧模糊としています。もちろん、綿矢りさ「意識のリボン」(すばる)のように、「前向きな素直な気持ちを授けてくれたひかり」とか書かかれるよりは、ずっとずっと、いいのですけど…。
馬場
 女学生のポエムのよう…。最近の綿矢は実感みたいなことをこちらが恥ずかしくなりそうなストレートさで、物怖じせずに書きますよね。不思議系というジャンルが必要かもしれない(笑)。
福島
 政治に話を戻すと、岸川真「ヘリックス・B」(文藝)では、「社会主義者だった」とか「新左翼運動をしていた」という言葉がベタで用いられています。
馬場
 ただ、古いようでも話題の中心は最新のマイナンバー。この制度を「近々世界の構造を変えてみせます」と豪語するシルオという怪物・個人が構築するという話です。
福島
 仕事は最新なのに、シルオの座右の書は超現実主義詩人エリュアールの詩集。アナクロニズム(時代混交)は意識的でしょうね。
馬場
 ミヤギフトシ「アメリカの風景」(文藝)の青春の描き方もアナクロ戦法でした。沖縄の離島生まれの主人公が幼い頃に出会った双子のハーフの男の子たちがいて、彼らとの出会いと、節目節目での再会や別れについて、アメリカで物語るという趣向です。那覇のモノレールが建設中というのもノスタルジーを〓き立てますが、『となりのトトロ』をビデオで観たり、レコードを聴いたりと、登場メディアもレトロ。
福島
 そもそも、昔、双子と一緒に観た映画が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ですからね。現在の主人公がアメリカにいるのもそうした過去からの因果です。ぼんやりと同性愛的な雰囲気が書き込まれているのが、現代的と言えば現代的でした。
馬場
 文學界新人賞を受賞した沼田真佑「影裏」も同性愛をさらりと描いていましたね。アナクロといえば、仇打ちというそれこそ古典的テーマに挑んだ辻原登「いかなる因果にて」(文藝)はどうでしょう?
福島
 昭和天皇にパチンコで復讐しようとした奥崎謙三のイメージから、熊野で暗殺された有間皇子と教員にいじめられていた級友とを瞼の裏で重ねあわせて、「私」は仇討ち気分で元教員の家を訪問する。もちろん果たせない。一見、様々な時代のエピソードと身辺雑記がちりばめられているだけに見えながら、次第に全体を一つに収斂させていく老練な手つきは、短編ながら、交響曲を思わせるものがありました。
馬場
 昔のことを掘り返して改めて持ち出すアナクロニズムといえば、太田靖久「リバーサイド」(群像)のミノルもそうでしょうか? 小学校時代の担任の無責任な説教が、大人になってからの不幸の元凶として捉え返されて殺人の原因になっている話です。
福島
 やや図式的ですが、構成への意志がある作品だと言えます。題名のせいではありませんが、すぐにイーストウッド監督の『ミスティックリバー』を想起しました。小学校の遊び仲間でミノルだけが、道を踏み違えて、社会の周縁へと流れていってしまう。ただし、それは本人のせいだけではない。ミノルは作中の汚れた川みたいに、周囲の人々が自分でも気がつかないぐらいの小さな悪を廃棄していく場所になっている。作中のサッカーボールのように、みんなを楽しませるためにひたすら蹴られ続けて、次第に弾まなくなっていく…。
馬場
 ミノルがどこか愚鈍な聖者にみえるのはそのせいでしょうか。
福島
 みんなの毒を吸うだけ吸って、あげくに犯罪者になって社会の外に出て行ってくれる。使い捨ての雑巾のようなものです。ですが、彼らは「ゴジラ」となって戻ってくる。秋葉原通り魔事件の加藤も、世間の人々が気軽に放ってきた小さな悪を濃縮させた結果、大きな悪となって世間に復讐しに来たとも言えます。もう二十年以上前となったオウム真理教によるサリンのテロ事件だって、麻原は水俣病患者であり、チッソの垂れ流した悪をその身に濃縮させた結果、社会に復讐したという見取り図を藤原新也は描いています。
馬場
 テロと言えば、卵アレルギーを軽視する社会への復讐を描いた中山智幸「おまえは家族を愛していない」(文藝)がありました。主人公であるシマノもその妻も、それぞれの親のトラウマにとらわれている。だから自分はちゃんとした親であろうとするのですが、それを妨げる娘の卵アレルギーがひたすら怨めしいといっていて、シマノはその恨み節を社会に発信してしまいます。卵アレルギーに不満があったとされる過去の犯罪者に偏執狂的にこだわり、養鶏場放火未遂をおこし、ついにはスーパーの卵に洗剤を仕込んでテロをすると、それがSNSで拡散していく。
福島
 結局、家族を守るためのテロが、家族を破壊していく。
馬場
 最後は赤の他人同士という地点から、元家族たちと人間関係の構築が始まります。先月の本欄のテーマが家族でしたが、近代的な家族制度やそれによるトラウマに縛られた人間関係はもはやアナクロにまでなり、新たな家族的関係の模索が熱いテーマであることは間違いないですね。
2017年5月5日 新聞掲載(第3188号)
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