夜の谷を行く / 桐野夏生(文藝春秋)封印してきた感情を記憶の底から掬いあげ過去を「総括」する|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年5月8日

封印してきた感情を記憶の底から掬いあげ過去を「総括」する

夜の谷を行く
出版社:文藝春秋
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夜の谷を行く(桐野夏生)文藝春秋
夜の谷を行く
桐野夏生
文藝春秋
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西田啓子は六十三歳になる独身女性。五年前に経営していた学習塾を閉めてからはアパートにひとり、年金と貯金を頼りに質素で目立たぬような毎日を送っている。その日常にひびが入ったのが二〇一一年二月初旬のことだった。死刑囚永田洋子が、東京拘置所にて脳腫瘍のため病死したのだ。

四十年前に起きた一連の連合赤軍事件。啓子は連合赤軍の委員長・森恒夫、副委員長・永田洋子らと、ほぼ最後まで行動を共にした活動家だった。

六十年代に盛んだった全共闘運動が下火になり、その一方で先鋭化したグループがより過激な行動を取っていく。連合赤軍事件はそういう流れの中で、もっとも世間の耳目を集め震撼させた事件だった。都市部のアジトを追われた彼らは、群馬県の山中に「ベース」と称する小屋を構え同志を集結させた。だが自家中毒を起こしたかのように内紛が起き、「総括」という名のリンチ殺人を続けて自壊していった。

残ったメンバーは山中のアジトを捨て、別荘地の山荘に立てこもった。人質救出のため出動した機動隊との間で激しい戦闘がくり広げられた結果、多くの死傷者を出してしまう。「あさま山荘事件」として知られるこの事件の終結後、メンバーの自供によって、リンチ殺人の全貌が明らかになったのだ。五十歳台より上の年代で、この二つの事件が社会に与えた衝撃を知らない者はいないだろう。

七十二年二月六日。迦葉山ベースで十名以上のメンバーの死を見続けた啓子は、もう一人の女性活動家と脱走するが、すぐに逮捕され、懲役五年の判決を受ける。啓子の父親は彼女が収容中に死亡、母親もまた早くに亡くなり、親類中から絶縁される。

そして事件から四十年余り。永田洋子の死がきっかけになったかのように、啓子の身の回りで二つのことが起きる。一つは唯一交流がある五歳違いの実妹・和子の一人娘・佳絵の結婚話である。もう一つがかつての活動家仲間・熊谷からの電話だった。古市洋造というフリーライターが、啓子に連絡を取りたがっているという。啓子が語ることで、あのリンチ事件を「解明」してほしいというのだ。

熊谷の「テレビのコメンテーターのような、滑りのよい言葉」に違和感を覚えながら、啓子は「的確な言葉を探し出して説明したいと願っている自分」に驚く。やがてその電話が契機となり、啓子の「政治結婚」の相方だった久間伸郎と四十年ぶり新宿で再会するのだが、ちょうどその時に未曾有の大災害となる東日本大震災が起きてしまう。

啓子は結婚を目前にした姪の佳絵に向かって、初めて自分の過去を明かす。啓子は一連の活動は明らかな失敗であり、その原因はメンバーの幼稚さにあったことを自覚しているが、国家権力と闘った自分を恥じていないことを姪に告げる。だが啓子は久間と佳絵から「冷たい」という言葉を投げつけられ、やはり四十年ぶりに再会した別の人物からも、つかみ所が無い近寄りがたい雰囲気を醸していたと評され、当時の自分の心情と周囲の者が自分を見る目の違いに驚き、戸惑いを見せる。

本書のタイトルにある「夜の谷」とは四十年たっても痼りが残る啓子の過去を意味しているのだろう。永田洋子の死に続いて起きた大災害を目にした元同志の、自分たちの行為はすでに時効であり禊ぎは終わった、という言葉に啓子は首肯する。だが過去を共にしたはずの者たちとの会話から明らかになった齟齬に気づいた啓子は、冥い「夜の谷」を遡り、その時の心情に改めて思いを馳せる。そして啓子にアプローチを続けてきたフリーライターの古市との対面がきっかけとなり、これまで固く封印してきた感情を記憶の底から掬いあげるのだ。この瞬間に啓子の過去は「総括」され、自分自身の真実が浮かび上がったことで、ようやく啓子の止まっていた時間が動きだす。作者の新たな代表作となる一冊だ。
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2017年5月5日 新聞掲載(第3188号)
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この記事の中でご紹介した本
夜の谷を行く/文藝春秋
夜の谷を行く
著 者:桐野夏生
出版社:文藝春秋
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