切通理作×宮台真司 【ライブ版】怪獣VSクソ社会 ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」第二部|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年5月10日

切通理作×宮台真司
【ライブ版】怪獣VSクソ社会
ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」第二部

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四月三日、東京・渋谷のLOFT9で、『怪獣少年の〈復讐〉』刊行を機に、評論家・切通理作氏と社会学者・宮台真司氏のトークイベント〈怪獣VSクソ社会~ウルトラシリーズで語られた「本当のこと」〉が行われた。たっぷり三時間、初期のウルトラシリーズを中心に、平成仮面ライダーシリーズや『シン・ゴジラ』へ話題は展開し、時代を振り返ると共に、我々が生きる社会への示唆が深まることとなった。
会場からの質疑を受けながら進んだ第二部を、ライブ版としてウェブ掲載する(第一部は、週刊読書人本紙〈四月二十八日号〉に濃縮載録した)。(編集部)


(会場から)
 私は第二期ウルトラマンシリーズを、『帰ってきたウルトラマン』から『ウルトラマンレオ』まで、全てリアルタイムで見ていますが、堅苦しくて面白くない印象がありました。同じ時期、佐々木守さんの作品が全盛で、『シルバー仮面』とか『アイアンキング』とか、ちょっと変な、アダルトなムードの特撮物を好んで見ていました。学校で話題になるのは『仮面ライダー』だった気がします。当時のウルトラマンのクリエイターの方々は、周囲の他の番組に対して、どんな思いを抱いていたのか。『仮面ライダー』に対して、危機感を持っていたのではないか、と想像するのですが、そういうお話を伺っているようでしたら、教えてください。
切通
 その辺について、いまたどりやすい資料で言うと、二〇〇二年に出た『帰ってきたウルトラマン大全』という本には、一九七一年当時の一週間の子ども番組全ての視聴率が、ワンクール置きに掲載されているんです。それを見ると、『帰ってきたウルトラマン』の段階では、ほぼ同時期に始まった『仮面ライダー』に視聴率は追い越されていません。『仮面ライダー』は、最初視聴率一桁から始まって、十四~十五%になり、二〇%になり、とだんだん上がっていくんです。

一方、『帰ってきたウルトラマン』は、最初は「ウルトラマンが帰ってくる!」とある種、鳴り物入りで始まって視聴率をとるのですが、初期1クールが人間ドラマ中心でなかなか主人公を変身させず、恐竜型の地味な怪獣が多かったこともあるのか、視聴率が下がるんですよね。その後主人公が自由意思で変身できる従来のパターンに戻したり、宇宙怪獣や宇宙人を出したり、ウルトラセブンや初代ウルトラマンを出したりして、巻き返していきます。

今回、僕は新刊の『怪獣少年の〈復讐〉』で元小学館の上野明雄さんにインタビューさせていただいていますが、当時小学館の学年誌のウルトラ担当の人たちが、「ウルトラ係数」というレポートを提出するんです。『仮面ライダー』は、CM前に出て来て一度闘って引き分けて、後半またもう一度変身する。ウルトラマンは登場が遅すぎると。

しかし、当時のTBSの橋本洋二プロデューサーは、ドラマにこだわっているから、そんなに簡単にウルトラマンを出したくないと。せめて怪獣だけでも早く出してほしい、というようなやり取りがあって、フィルムを借りてきて、当時は早回しができないのですが、毎回の番組で怪獣が出てくるまで何分何秒、ウルトラマンが出てくるまで何分何秒と、「ウルトラ係数」というものを出すんです。ウルトラマンも怪獣も、登場が早い回の方が視聴率が高い、という報告書を作ったら、橋本さんが怒ってトイレから出てこなかった、という話があるんですけれど(笑)。

そういうことで作り手たちは、『仮面ライダー』を非常に意識していて、追い上げられている感覚は持っていたと思います。『ウルトラマンA(エース)』も、第一話は視聴率が高いのですが、なんと東映は、負けるのを覚悟で『変身忍者 嵐』というヒーロー番組をぶつけてきます。『A』の裏では勝てっこないけれど、何割かは見ますよね。そうして、少しずつ視聴率を減らされ、加えてライダー人気がどんどん上がってくるから、『A』の途中で追い越される。
『帰ってきたウルトラマン』は、明らかな仮面ライダーの影響で、途中から空中一回転をするようになります。が、天井があることがばれるから、セットの中ではバク天できない。それではじめのうち、画像を繋いで不自然な一回転を放映していたんです。途中から、仮面ライダーのようにオープンスペースでジャンプしたものを撮るようになりました。

ただ、そもそもウルトラマンは空を飛べるのだから、空中一回転をするのはおかしいのだけれど。
宮台
 仮面ライダーは等身大だからいいけど、身長四〇mが一回転はあり得ないよ。
切通
 そんなふうに『仮面ライダー』をいろいろ意識していたのではないですかね。
宮台
 『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』は「人間は闘っていない」という印象がある。ウルトラガン(セブン)やスーパーガン(マン)で撃ってはいるし、ウルトラホーク(セブン)やジェットビークル(マン)でミサイルを打ち込んではいるが、勝負にならない。ウルトラマンやセブンに百%依存しちゃってるわけだ。『帰ってきたウルトラマン』には、ウルトラアイ(セブン)やベータカプセル(マン)みたいな変身グッズはなく、郷秀樹がやられて死にそうにならないとウルトラマンになれない。ここにも仮面ライダーを意識した「生身っぽさ」や「身体的リアル」が大事にされていた特徴が伺えるね。

実際、三歳下の弟(一九七一年当時九歳)が団地の庭で友達と「ごっこ遊び」をする時には、専ら「仮面ライダーごっこ」を選んでいたけれど、仮面ライダーのほうが「生身っぽい」感じがあったからだというのが、兄である僕の理解でした。仮面ライダーと張り合うようになるまで、ウルトラマンに身体性がなかったことに制作者たちは気づいていなかったんだな。仮面ライダーに変身する前の本郷猛の身体性も、それを演じた藤岡弘が本物の格闘家で凄かった。だから、ハヤタ・シンやモロボシ・ダンにも身体性が欠けていたのが問題になり、「死にそうになると変身」という設定になったんじゃないかな。でも十階建のビルよりも身長が高いウルトラマンが宙返りしたり側転したりするのには、いま見直しても違和感がある。

(会場)
 LOFTの別の階で、松方弘樹さんの追悼上映をやっていて、それを観てからこちらに来たのですが、その映画を観ていて、第一部で宮台さんがおっしゃっていたように、社会悪や非合法なものが淘汰されていく時代の流れを感じました。これも一九七〇年代、あるいは昭和四〇年代のことで、子ども向けのドラマと同じ時期に、大人の映画でも同じ流れがあったのだなと。
切通
 確かに、六〇年代には美化された任侠が描かれていたのが、七〇年代に本物の暴力団と提携した実話が、「実録シリーズ」として映画化されるようになりました。そして非常に短期間で、あだ花のように終わりました。

洗練された明るい八〇年的なムードが近づいてくると、邦画は大作一本主義になってくる。七十七~七十八年あたりからでしょうか。それまでは二本立て以上のプログラムピクチャーが支配的だったわけですが。
宮台
 ピンク映画やヤクザ映画は七〇年代の前半まで絵空事でした。深作欣二監督(『仁義なき戦い』一九七三年)と工藤栄一監督(『その後の仁義なき戦い』一九七九年)が実録路線に舵を切るのが七〇年の前半。転換点にあたるのが深作監督『博徒外人部隊』(一九七一年)です。沖縄のヤクザが内地(本土)のヤクザの支配下に入るまでの抗争を描いていて、主演の鶴田浩二がロマンを醸し出してはいるが、安藤組組長だった安藤昇が度肝を抜く迫力で、同時期のマキノ雅弘監督『新・網走番外地』シリーズが「旅する男」「孤独な男」「見守る女」などの定型なのに比べても、優位性は明らかでしたね。

ピンクの全盛期は日活ロマンポルノが始まった七十一年から数年だけど、「聖なる娼婦」「奔放な女」をモチーフにしていて、昔のヤクザを思わせるような絵空事でした。でも七〇年代後半に代々木忠さんが新東宝で「ドクター荒井」シリーズなどの実録路線を撮り始めると、古いタイプのピンクは途端に厳しい立ち場に押しやられます。

ピンク映画のシフトがズレ込んだのは、七十七年頃を境に「ナンパ・コンパ・紹介の時代」が始まって、初めて男の夢や妄想が立ちゆかなくなったからです。湘南⇒ディスコ⇒テニス⇒ペンション⇒女子大生⇒ニュー風俗⇒テレクラ……という短期間のブーム展開からも、文脈が伺えます。絵空事時代のヤクザ映画やピンク映画を今見直すと、かつての男の夢や妄想はこんなだったんだと思い出されて、悪くないんですけど……。
切通
 ドラマ主体のロマンポルノと、AVのドキュメントを比較してしまうと……。
宮台
 ……当時は出涸らし感を否めなかった。でも思えば、「悪にも理由がある」「悪いのは人間」などの反勧善懲悪モードは、「社会とはなんだ?」といった大上段から振りかぶった構えと一体だから、ロマン主義を欠いてはあり得なかったと思う。若い世代の興味が「社会」から「対人関係」へと劇的に転換し、ロマンの夢を見ることより、相手の要求を察知して対応することが大切になると、反勧善懲悪とかは意味が分からなくなりました。

(会場)
 ウルトラシリーズは好きでしたが、怖かった印象があります。『ウルトラマンタロウ』が始まったとき、子ども用空想冒険ものになって、ホッとしました。第一部でお話があったように、枠組みとして子ども向けにシフトしたからだったのだと思いますが、それ以降ウルトラシリーズの設定はどうなっていったのでしょうか。
切通
 確かに、『タロウ』は子ども向けで牧歌的な作品になりました。が、次の『ウルトラマンレオ』でウルトラファミリーという設定をひっくり返してヒーローをとことんまで孤独にしたので、ついてこられなくなった子がかなりいたのではないでしょうか。作り手の意識としても、『タロウ』には総集編的な意味合いがあり、ウルトラファミリーを出しておしまいにするつもりでいたら、TBSからもう一年やっていいよ、と言われて。メインライターの田口成光さんが言うには、だったらやりたいことやろう、という空気だったそうです。そして、当時の子どもたちに生きる厳しさをぶつける、というコンセプトで作ったら、熱すぎて誰も食べられなかった(笑)。『怪獣少年の〈復讐〉』で、作家の福井晴敏さんが、そう当時の子ども達の視聴状況を語っています。
宮台
 三歳の息子は、ネットテレビでどれを見るかを聞くと、必ず『タロウ』と言います。タロウという名前にも作り手の意図が表れているでしょう。おとぎ話化したんです。そうした表現も今思えば悪くないけれど、当時の僕らは、一期の『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』や、二期でも『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』までをイメージの核としていたから、『タロウ』は厳しかったですね。しかし『レオ』になると、『セブン』の主人公だったモロボシ・ダンが、変身できなくなってトレーナー役になるという設定で、さらに幻滅しました。
切通
 『タロウ』は設定はおとぎ話で荒唐無稽ですが、描写は首を切り落としたり、怪獣がベロンと舌を出して人間を食べたり、結構生々しいですよね。東宝の「ゴジラ」シリーズもそうで、「東宝チャンピオンまつり」は、正義のゴジラが悪の怪獣と闘うという話なのですが、流血描写がかなり激しい。五〇年代、六〇年代は円谷英二さんの方針で、血を見せなかったのだけど、七〇年代のゴジラは、赤い血をドバドバ出してました。

これは、ヤクザ映画の影響もあるのかもしれないですね。そういう描写の直接性が、設定の荒唐無稽さとは別に、あったように思います。

基本的に僕は、第二期のウルトラシリーズには見るべきものがあると思うし、『タロウ』や『レオ』も例外ではないのですが、『帰ってきたウルトラマン』や『A』は、第一期の怪獣像を引きついでいました。僕の感覚で言うと、「昆虫図鑑」とか「植物図鑑」とか、実際の図鑑の中に、「怪獣図鑑」が入っている、現実の延長に空想がある感じだった。
宮台
 ああ、それが大きい。お金のかけかたが違うのか、『A』までは特撮が丁寧でしたよね。『ウルトラQ』はモノクロですが、微妙にスローモーションを使ったりして、チャチじゃない。『セブン』『帰ってきた』『A』は、特撮部分と実写部分との色温度の違いが最小で、リアルです。苦心されたのかなと思っていたら、『セブン』では、難しいワンシーンを一日がかりで撮ったと切通さんのご本に書いてあって、やっぱりそうだったのかと。特撮シーンの質は『タロウ』からガクっと落ちたように感じます。
切通
 そうですよね。それまで円谷は、合成主体で巨大感を表現する絵を撮ってきたのに、『タロウ』あたりから合成でなく高い所にヒーローを立たせて奥の人間とを遠近法で対比させ表現する、他社のヒーローものの『マグマ大使』であったような表現を入れてきて、省エネ入ってきたなとは感じましたね。

話が戻りますが、初期の怪獣は、現実の生物の延長上に存在しているような印象を持っていて。SF作家の山本弘さんと話したときに、例えば『ウルトラQ』の第一話について、ゴメスが哺乳類でリトラが鳥類という設定も含め、生物学的なところまで真面目に考えられていたことが分かりました。
宮台
 丁寧だよね。
切通
 これはファンタジーなんだから、嘘でいいんだ、と思って作るのではなく、どこかにこの生物はいるのかもしれないと思わせるようなリアルさが、視聴者の心を捉えるんですよね。

宮台さんが第一部で話されたように、日常生活のすぐ側にある祠とか墓とか、ちょっと扱いを間違ったら、非日常な怖ろしいことが起こりそうな、そういうものと関連付けながら、現実の生物の延長上に怪獣がいるかもしれない、と空想させるところがありました。
宮台
 『帰ってきた』の「怪獣少年の復讐」で怪獣エレドータスが列車と衝突するシーンなども『シン・ゴジラ』と比較しても遜色ないほど丁寧な作りだと思いませんか。バチバチ火花散らして変電所や電線をぶちこわす場面もリアルです。あのクオリティを維持すべきでした。僕が『タロウ』についていけなかったのは、設定の丁寧さもあるけど、特撮のリアル感が失われたのが大きいということを、切通さんに言われて思い出しました。

先ほど話をした「戦慄!マンション怪獣誕生」ですが、キングストロンのかけらを持ち帰って、マンションの壁に貼りつけておいたら、再生しちゃう。マンションの中で不気味な音がするという設定もリアルで怖かったし、再生して巨大化した怪獣が、エレベーターに子供が閉じ込められたマンションで暴れる所も、廊下の先の隙間から怪獣の姿の一部が見えるだけというのが怖かった。隙間から怪獣がこちらを見返したりするとか。そうした怖さの追求も半端じゃない。リアルな怖さを意図したのは『A』までじゃないでしょうか。
切通
 『帰ってきたウルトラマン』の、ステゴンという骨の怪獣の分泌液は、作業員にパッとかかると、次の瞬間人間がぶくぶく溶けて白骨化するんですよ。子どもの頃すごく怖くて、見た日は眠れませんでした。

(会場)
 第一部のトークで、昭和ウルトラシリーズに対して、『クウガ』『アギト』に始まる平成ライダーの話をされていましたが、守るべき共同体というものが我々の現実世界から無くなり、救うべき社会がないから救うべきものを無理やりみつけて、闘いに血道をあげなければいけなくなった、ということだったと理解しました。その事例として、ネトウヨやトランプ支持者の話が出てきましたが、昭和のコンテンツと、その後のコンテンツを見て育った人との違いは、現実社会の捉え方や生き方にも、やはり出てくるものですか。
宮台
 コンテンツ以前の問題があります。首相を含めて政治家や霞が関の役人が「日本のために」頑張っていると感じる人はいないし、トランプ大統領が「アメリカのために」頑張っていると思う人もいません。仮に本人が「日本のため」「アメリカのため」と思っていたとしても、チャチな思い込みに過ぎないと多くの人が感じるはずです。それを僕は「誰が誰のために何をするのか」問題と言います。

『ひるね姫』の神山健治監督が『キネマ旬報』での僕との対談で語ったように、「社会のために闘う」という動機づけを今は描けない。せいぜい所属省庁に利益をもたらすためとか、一族郎党に利益をもたらすためとか。実はそれが日本で「公」と言われてきたもの。所属集団のために犠牲になるのが「滅私奉公」。所属集団を超えた、ルールによる共生空間としての「公」は、日本にない……という言い方が少し前までできたけど、今はどこも日本と同じだ。トランプのアメリカ・ファーストも、経産省ファーストも同じレベルです。

平たく言えば、社会のために戦う存在を描くコンテンツは今や不自然です。社会のために戦う人間が現実にいないからです。社会が消えて対人関係だけになるという変化がコンテンツに影響を与えたのですね。昨今のハリウッドでは戦争映画はもちろん、スパイ映画でさえ「世界平和のため」「社会秩序のため」が消えました。昔のスパイは「国家のため」「西側(東側)のため」に生きたけど、昨今の『ジェイソン・ボーン』シリーズを見れば「自分の心を改造した黒幕をつきとめる」「殺された恋人の復讐をする」という個人的動機しかない。パブリックな動機を描けないのです。せいぜい「自分が抱くのはパブリックな動機だ」と思い込むパラノイアが描けるだけ。この二〇年はそうなりましたよね。
切通
 『「シン・ゴジラ」をどう観るか』と『正義から享楽へ』に、宮台さんのシン・ゴジラ論が収録されていますが、映画の中で、ゴジラを人々が最初に目撃した時、誰も「ゴジラ」という怪獣だと認識しませんね。巨大不明生物が現われた、その瞬間の人々のリアクションは様々です。携帯で写メを撮る人もいれば、必死で逃げる人もいる、ボー然と見上げているだけの人もいる。本多猪四郎監督の昭和の「ゴジラ」は、とにかく人々が一斉に逃げて、相手がゴジラだろうが、ラドンだろうが、いち早く自衛隊が配備され、闘うというスタイルだった。けれど『シン・ゴジラ』では人々が、巨大不明生物自体を、共通のものとして認識していない。
宮台
 そう。「ゴジラ」というシンボルがかつて持っていた性格を「シン・ゴジラ」は持てない。誰にとっても同じ強度で「社会の敵」と認識されることは不可能になった。ならば、樋口真嗣監督・庵野秀明脚本の『巨神兵東京に現わる』の方がいい。単に未規定な存在だからです。同じ意味で、アメリカ映画の『クローバーフィールド』の方がいい。ゴジラは誰もが知っているゴジラだから、未規定な存在として描き切れないんですよ。その意味で『シン・ゴジラ』は中途半端でした。原理的に苦しい企画だったという気がします。
切通
 『ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ』という記録集が昨年の終わりに出たのですが、それに初期のプロットや、いろいろな段階でのシナリオが載っているんです。それによると、初期にはゴジラが有翼になって飛ぶ描写が入っていた。

宮台さんの「シン・ゴジラ論」を読んで、庵野さんが現代の怪獣を考えたときに、「ゴジラ」を未確定なものにしたかったのではないか、と思いました。それで、大空を飛翔するシーンを描いたんだけど、それではゴジラじゃない、と抑制がかかった。じゃあせめて、しっぽの先を枝分かれさせて、そこから何かが出て来るかもしれないようにしようと。あれは思わせぶりな謎かけなどではなくて、ギリギリの譲歩として残したものではないか。つまりあれが、「ゴジラ」という形態を保った上で、未確定なものを創造した、ギリギリのラインだったという感じがします。
宮台
 庵野さんは「負け戦」をしました。誰もが知るシンボルを使って誰も知らないものを描くのは難しい。得体が知れな過ぎれば「大人の事情」が働いて「もっとゴジラにしろ」で終了。今日の僕らが恐れている危機は未規定なものです。規定された危機が描かれてもリアルじゃない。「シン・ゴジラ」も劇中では「未知の存在」という設定にせざるを得ない。この認知的不整合を甘く見積もった結果の失敗作です。日本=碇シンジ、米国=碇ゲンドウ、石原さとみ=派遣された分身の母、という設定を含めて陳腐。面白くなかった。
切通
 「ゴジラ」という既視感を、いかに回避するか。
宮台
 僕らが抱く社会的不安は名状しがたいものです。かつては安倍政権が悪いで済んだけど、今はどの国も同じです。何もかも崩れてきた中、今までの解釈枠組が役立たないという経験に僕らは直面しています。だから「未規定な何かに直面して社会が滅びる」という『クローバーフィールド』や『巨神兵東京に現わる』の設定が刺さるわけです。庵野さんのテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』のインパクトも実はそこにあった。でも、子どもも見ることを前提にした怪獣映画は、規定不能性の度を過ぎれば「大人の事情」に引っかかる。その意味で映画『シン・ゴジラ』が成功する確率は元々小さかった。
切通
 前半で総理役の大杉漣が、踏切に人が逃げ残っているからゴジラを攻撃できないという場面がありますよね。それが元で対策が遅れていく。しかし前段階のプロットでは、逃げ遅れた人がいると分かっていて、首相は攻撃を命令するんですよ。それを聞いた主人公は、日本の首相もなかなかやる、と感動すると。庵野さんは危機に関して理想的に行動できるリーダーを描きたかったのかな、と思ったんですよね。でも保守急進的に進め過ぎると、観客が付いて来れないから、シナリオが変ったのではないか。
宮台
 そこです。アニメであれば『新世紀エヴァンゲリオン』の碇ゲンドウのような究極の傍若無人さも平気で描けて、むしろ「社会の側こそが」未規定で不気味なものに変じつつあることを示せたかもしれない。そうすれば問題を辛うじてクリアできたはずです。しかし実写では難しいですね。観客が反発しなくても、配給会社が黙っていませんから。
切通
 ラストで、ゴジラを東京駅付近でフリーズさせるところは、初期から残ったプロットですが、それが放射能を拡散しているという設定も、半減期が二週間とほとんど無害な存在になります。最初の案では、東京を捨てるんです。東京は汚染されたから、関西に遷都するという設定で。しかも主人公の矢口蘭堂は、ゴジラがフリーズして東京にいるということは、日本人が核を保有したということだ、と考える。自主防衛のための、核武装論者として、矢口蘭堂を捉えていました。それが、ゴジラに放射能の害が余りあるということになると、東宝の看板キャラのイメージダウンになるので、半減期が極端に短くなったのでしょうし、皇居には一切触れるな、とも言われ、遷都の問題を出せなくなった。最終的に、ゴジラが東京のど真ん中でフリーズした、ということしか残らず、問題提起が埋没してしまった。
宮台
 とすれば、庵野さんは両手両足を縛られた状態だから、本当に「これ」を描きたかったのか疑問になります。ただ、ネットを見る限りでは、左系も右系も「日本も捨てたもんじゃない」という感想が専らで、むしろ観客の劣化ぶりに度肝を抜かれます。どれだけバカなんだ。村上龍『五分後の世界』のように「本当ならこうもあり得たのに……」という反実仮想によって現実の不可能性を再確認する、というなら分からないでもない。でも、たとえ同時代の観客が喜んでも、バカ相手のバカ作品というんじゃ話にならないよ。
切通
 『正義から享楽へ』を読んで分かったのですが、宮台さんは「クソ社会」という言葉をよく使うけれど、社会のどこが悪いからそう思う、ということではないのかなと思いました。社会の中に生きている個人が、そう感じていることが重要ということですね。
宮台
 そう。「個人がクズだから社会が回る」という意味で「クソ社会」。「人々がマトモなのに、社会が崩れた」という幻想は、もう無理です。だから「社会のために身を捨てて闘う」という動機づけもあり得なくなった。誰もが「クソ社会」であることを既に知っていて、実際「クソ社会」を生きるべく、敢えてクズとして生きる個人も大勢います。だから「クソ社会」がますますクソになる。第一部で話したように、法に従ってさえいりゃいいと考え、法を少しでも破ると鬼の首でも取ったかのように徒党を組んでバッシングして「インチキ仲間」を醸成する、クズだらけ。でも、冗談じゃなく法は破るためにある。破ったのに何でもありにならずにシンクロできることから、「仲間」を確認するわけです。

復習すると、四万年前からの言語使用を前提に、一万年前からの農業革命で定住が始まり、ストック保全と配分の必要から法が生まれた。でも従来の在り方から遠く、ゆえに言語使用による否定項の蓄積(無意識)が生じるので、これを処理すべく定期の祝祭を通じて法外の地平を共有、「法がなくても仲間であること」を確認した。日本では古くから無礼講と呼ばれます。祭りは無礼講。無礼講は無茶苦茶じゃない。そこに共通感覚があるから一定枠に自動的に収まる。自動的に収まるから「仲間」である事実が確認できる。法を破らないと法外の共通感覚は分からない。それを誰もが知っていて、タテマエ(法)とホンネ(法外)と呼んだ。ホンネは何でもありじゃなく共通前提の宝庫。それが空洞化したから法外が見通せなくなり、互いのホンネが分からずに疑心暗鬼になって、疑心暗鬼のクズ同士がバッシング・スクラムで連帯する。これが「個人がクズじゃないと回らない社会」つまり「国民国家を前提としたグローバル経済」。これを乗り越えるための探求も僕の仕事です。

別の言い方をすれば、法にさえ従えばいいという、共通感覚も共同身体性も欠いたクズが大半になった結果、国民という〈見ず知らずの仲間〉がむしろ不可能になり、また、それが不可能になったから、法にしがみついた上で、法外に逸脱した者に徒党を組んでいきり立ち、「インチキ仲間」の麻薬に浸るクズも量産された。この悪循環の解除が課題です。

切通さんの本もこのイベントもこうした課題に重なる。「クソ社会」は全体としてはどうしようもありません。「仲間でない連中を仲間だと思わなきゃいけない」という大規模定住社会につきものの矛盾の露呈だからです。これを隠蔽する機能を果たしてきたのがリベラリズムと呼ばれる普遍主義です。でも言葉で誤魔化しちゃダメなんだよ。仲間じゃないヤツは仲間じゃない。「インチキ仲間は」仲間じゃない。法外でシンクロできる者だけが仲間だよ。この当然の原則に戻り、「社会という荒野を仲間と生きよう」ではないか。

むろんそれだけじゃ仲間集団同士の軍閥闘争になる。でも、仲間集団Aのメンバーである自分も、仲間集団Bのメンバーである他者も、抽象水準を上げれば、「仲間集団の共同身体性」を生きるがゆえに「仲間に強い〈同感〉を感じる存在」として等価です。この事実を出発点に、仲間を超えて〈同感〉する。そうした〈コミューナルなコスモポリタニズム〉が必要だというのが僕の主張。大筋は一水会の元代表・鈴木邦男氏が提案してこられたものです。〈同感〉とは他者の心に映る感情を自分の心に映し出す働きで、アダム・スミスが『道徳感情論』で強調したもの。東浩紀氏の『観光客の哲学』は、こうした抽象水準を上げる営みを触媒する「郵便の誤配と再配達の繰り返し」を可能にするアーキテクチャーを作ろうと提案するもの。これらの思考はクラスタを形成していると言えます。
切通
 六〇年代の第一期ウルトラシリーズでは、原状復帰以上の未来が描かれましたよね。進歩していく未来だったり、科学が保証する未来だったり。そういうものがなくなり、そればかりではなく七〇年代前半のウルトラシリーズは、社会や大人を信用していないし、秩序や平和の回復を信用していない。でも怪獣に世界を壊滅させてしまうわけにはいかないから、そこそこのところで止めてもらわなければならない。そういうところに落とし込んでいるだけで、秩序を戻すということに、熱い連帯意識を見出そうとするようなドラマにはなっていない。
宮台
 本当にそう。「怪獣を見た」と証言する少年が嘘つきじゃなかったと分かって終わる程度。面白いご指摘です。ウルトラマンが何のわだかまりもなく秩序をもたらせた時代がかつてはあったと。人々が社会という概念を明確に持っていたし、そのぶん社会の敵という概念も持っていたし、社会の敵が外側ではなく内側にあるという観念も持っていたし、M78星雲の「光の国」が象徴する未来とはそれを克服した社会だと皆が思っていた。

ところが七〇年代前半、消費社会化を背景に、対人関係がせせり出し、社会が消えると、ウルトラマンも何のために怪獣を倒さなければいけないのか、動機が怪しくなりました。『帰ってきたウルトラマン』の段階ですでに、怪獣を倒してくれて「ウルトラマンありがとう」という流れがあり得なかったわけです。上原正三さんも子どもにすごい台詞を言わせているよね。「全部ぶっ壊しちゃえ、破壊しつくしちゃえ」。ハルマゲドン願望や黙示録的願望を子どもが平気で口にするのは、第一期にはあり得なかった。社会が消え、未来が消えたことへの、作り手の呪詛かもしれません。
切通
 六〇年代には『ウルトラセブン』にしても、世界に矛盾があるという感覚は持っていて、ウルトラマンが怪獣を倒すのが正義なのかどうか、という疑問はありました。でも『セブン』が宇宙人だったから、異文化の問題は出てくるけれど、それは社会の話だったじゃないですか。それが七〇年代前半のウルトラシリーズになってくると、個々の子どもの心理、みたいな話になってくる。『怪奇大作戦』のテイストで、そもそも信用できない社会は、秩序回復したとしても、その社会自体が生きづらい場所なのではないか、という不信感のまま進んでいる。

この社会がクソ社会であることが分かっているから、社会の回復は語らない。孤児の少年は、彼と仲良くして見守ってくれた青年がウルトラの星に帰ってしまった後、どうやって生きて行くんだろう、とか。ウルトラマンは現実にはいないわけだから、脚本家として田口さんや上原さんは、ウルトラマンがいない状況の中で子どもたちに最後に何を残せるのか、そういうことを考えていた感じがします。
宮台
 突き詰めてしまっている感じがしますね。田口さんが書いている回は特に。
切通
 それ自体何十年も前ですが、『正義から享楽へ』を読むと、現代は世界を回復するようなところで終わるドラマでは説得力がなかったり、その人物だけ浮いてしまったり、ますますそういうところへ進んできている感じはしますね。
宮台
 ただ『帰ってきたウルトラマン』では、「社会なんてぶっ壊せばいい」と言っている子どもが、言葉と裏腹に愛を求めていて、最後は「僕のこと信じてくれるんだね」と言うんです。本当のことを言ったのにぶんなぐった郷隊員に対して、「ほら、僕の言ったことは本当だったじゃないか」と食ってかかるかと思ったら、「信じてくれるんだね」と。
切通
 ぶたれたことを恨まないのか、と思いますよね。
宮台
 そこはスケールは小さいけど「回復モチーフ」があり、そこが今とはだいぶ違う。
切通
 第一部で、一種の共同体や共同性がなくなってきている中で、ハルマゲドン願望を抱えた平成ライダーシリーズを子どもに見せることを躊躇した、と宮台さんがおっしゃいましたけど、昭和第一期のウルトラマンからは四〇年以上が経っています。お聞きしたいのは、前提状況が全く違う中で、クソ社会の中で違う周波数を持ち続けるにはどうすればいいのか。共同体の復興をどう考えていったらいいのか。

あるいはフィクションをどう作っていくか、ということでもいいんですけれど。
宮台
 園子温監督が十年くらい前に『紀子の食卓』(2006年)を撮ったのですが、その中で仮説的に示しているのは「今どき共同体を復権しようとするヤツはうざい」ということ。家族を復活しようとする父親が、子どもたちに血祭りにあげられて終わります。グザヴィエ・ドランというカナダの若い監督がいて、園子温とよく似たモチーフを描きます。園子温は父憎しですが、グザヴィエ・ドランは母憎し。

世代が二〇歳違うので、違うところもあります。ドランはこんな感じ。「親を含めた家族が狂っていたせいで、自分も狂ってしまった。そのことで親を憎みたいが、親が狂った理由も、親の親を含めた家族が狂っていたからだ。そこに連鎖がある以上、母親を憎んでも仕方ない。ならば、許すしかない…」云々。一見凡庸だけど「許しからしか始まらない、だから小さな単位からしか始まらない」というメッセージです。世代が違うと言ったけれど、狂った家族にも短いなりに歴史があることを感じさせられます。
切通
 ちょっとしたことかもしれないけど、その転換を起こすのは何なのかと。「シン・ゴジラ」論の中で、前半機能不全を起こしていた官僚制が、後半なぜ突然好転したのか分からない、と書いていましたよね。
宮台
 突然なので夢オチみたいな感じ。命懸けで考え抜いた跡が感じられません。
切通
 アメリカ映画なら、矢口蘭堂が目覚ましい活躍をしたから、個人の活躍で克服できたということになるだろうけど、全くそうは描かれていない。確かにどこか、描き損ねている。怪獣が怪獣として認識できない社会というものを、前半ある程度面白く描けているのに、なぜそれがふっと、通りがいい方向へひっくり返ったのか。僕もたしかに後半、気持ちよくなっちゃったところはあるんだけど、なぜそうなり得るのか、あるいはなり得ないのかが描かれれば、もう一つ面白い映画になっていたかもしれないですよね。
宮台
 そう思います。役人たちが社会のために本気になるかどうかは疑わしい。だから「危機を共有した役人たちが省庁の壁を乗り越えて阿吽の呼吸で連携し始める」というのは変です。東日本大震災が起ころうが原発が爆発しようが「危機を共有した役人たちが省庁の壁を乗り越えて……」なんてことはなかった。なのに、なんでシン・ゴジラが出てきたらそうなるんだよ。第二次大戦のときだってまったくあり得なかったじゃないか。

たぶんトランプの任期は長く続かないけど、そう見込まれるからこそ危険があります。周りにいる連中がアポカリプティック(黙示録的)だし、米国本土を射程に収めるICBMの開発完了も近いから、政権末期に北朝鮮に限定核を撃ち込む可能性があります。対する北朝鮮は、山中に隠した所在不明の移動式発射台に加え、潜水艦発射台も持つから、一部に核弾頭を搭載した数百発のミサイルを同時発射します。百発は山手線内に向けられているという話もある。そうなったとき、シン・ゴジラを前にした役人たちみたいに霞が関が一致団結して阿吽の呼吸で助け合うとは思えない。首都圏から逃げることだけ考えているかもしれない。『シン・ゴジラ』は、好意的に解釈しても「大人の事情」から生じた「夢オチ」です。「日本も捨てたものじゃない」などと意気が上がる観客は、頓馬過ぎます。

(会場)
 私は、平成ライダーど真ん中の世代ですが、今の『シン・ゴジラ』の話で、確かに中盤以降の東京を蹂躙した後の話は、退屈なんですよね。ただ、庵野監督も樋口監督も、非常に東宝特撮が大好きで、それを踏まえて後半を見ると、全てが東宝特撮の過去の作品の引用なんです。庵野さんはあくまでエンターテインメントという部分を逃さないところで、妥協ではあるかもしれませんが、批評性とのバランスを取ったのかなと思ったんです。
宮台
 異論があります。さっき『クローバーフィールド』と『巨神兵東京に現わる』の話をしましたが、両方に共通するのは、ニューヨークの破滅を、あるいは東京の破滅を、人々が究極の享楽として望んでいるのではないか、という明白な問いかけです。『クローバーフィールド』は、たまたま監督と制作と脚本の担当者が東宝の「ゴジラ展」を東京に見に来たら着想が浮かんだということだけど、僕が推測するにその着想とは「破壊の享楽」に尽きるでしょう。ゴジラが大暴れする後半パートには『巨神兵東京に現わる』からの引用が多々あって「破壊の享楽」に満ちているのに、「あのゴジラか」という既知の枠と、行政官僚制のパワーアップという絵空事が、全てを台無しにしています。

第一部で「中二病だ」と申し上げたけど、僕がトランプを支持していた理由にも、公式の見解とは別に、僕の無意識に「破壊の享楽」に似たものがあったのかもしれません。ことほどさように、今日、本気でエンターテインメントとしての享楽を提供したいなら、「全て目茶目茶になっちゃえ」という『帰ってきたウルトラマン』の少年の願望を焚き付けるしかありません。単なる直観じゃありません。今日では、誰も社会にコミットしておらず、せいぜい自己像を支える居場所を確保すべく〈妄想〉としての「すごい日本」に固着するウヨ豚がいるだけです。とするなら、「これで社会が敵から守られた」というカタルシスは論理的にあり得ません。百歩譲って「家族が守られた」なら「あり」ですがね。社会をモチーフにするなら『クローバーフィールド』『巨神兵東京に現わる』のように「全て滅茶苦茶になりました、オシマイ」がすっきりします。
(会場)
 確かに、終盤はパロディなんですよね。
宮台
 そうだね。それに対してあまり突っ込むなと庵野さんは言いたいんでしょうね。
(会場)
 最高傑作とは思ってないですが、無下に切り捨てるより構造をみた方がいいのかなと。
宮台
 いや、構造的に難しい企画だから、こうなっちゃったと申し上げているんです。その難しさは、庵野さんが有能ならば乗り越えられるという問題じゃありません。その難しさを共有して、ゴジラ・シリーズをやめるのが大切だ、というのが僕の考えです。
切通
 ぼくは考えるんですが、庵野さんは社会的な視点というものは、そもそもそんなにないんじゃないか。
宮台
 もともとはハルマゲドン系=セカイ系の人だからね。
切通
 そういう人が、本当にもしゴジラが現れたら、ということをものすごく考えてシミュレートして、初代ゴジラが持っていた放射能の問題も入れつつ、求められているものから逃げずに、宿題を果たすように作った映画だと思う。ただ、やはり、半減期の問題だとか、皇居に触れるなと言われてしまう前に、ストーリーテリング中心の人だったら、最初から変更を考えにいれて、一歩手前でそれを感じさせるように作るにはどうしたらいいか、というようなやり方が、僕はもうちょっとあってもよかったと思うんですよ。一つ変えたことで、全体の印象がガラッと変わる作品になってしまう可能性を、もっと考えるべきだったのではないかと。

『この世界の片隅に』にも同じことを感じます。

僕は昨年、長崎で被爆した母親との対談集(『15歳の被爆者 歴史を消さないために』彩流社)を出したのですが、当時十五歳だった母親が、戦争が終わったとき、石川啄木の詩などを読んでいたので、日本の敗戦で解放された人たちがいたことは分かっていた、というわけ。他にも、母親と同世代で、広島で被爆した同窓生を追跡取材した本『広島第二県女二年西組』などで知られる関千枝子さんは、日本が戦争に負けたとき、朝鮮の人たちが騒いでいるのを見たと。そのとき、この人たちは好きで日本人になっていたんじゃない、と分かったと言うわけです。皆がそう感じなくてもちろん構わないけれど、『この世界の片隅に』では、原作にはあった、ヒロインの属性からそういう視点を完全に外してしまって、「最後の一人まで戦うんじゃなかったんかね」というところだけ残し、一方で、玉音放送の後に、朝鮮の人たちが太極旗を揚げているシーンは残しますよね。ネトウヨはこれについて、戦争が終わって朝鮮人が横暴なことをやろうとしていることを描いた作品だ、などと言っている。もちろんネトウヨというのは、何をどう描いても勝手な解釈をするんだけど、これは付け入る隙を、作ってしまったかな、と。

プロットの一部変更によって、意味合いが全体的に変わってしまうことがあるんですよね。結局庶民は、大局に対しては、何も考えないでイノセントに生きているのがいいんだ、というような。それで監督の「主人公のモデルになった北條すずさんは、今でも生きておられます」みたいな発言が拡散されていく。
宮台
 素晴らしい洞察ですね。すずさんは「のんびりしていて現実に対して鈍いけど、空想的な能力は長けている」という設定でした。そういう人だったからああいう反応になったというお話です。そういう人はそれほどいないから、「天変地異のように受けとめていた世界の悲惨が、人の言葉によるものなのか!」と激昂するすずさんの玉音放送の受け止めは、普遍的でも公的でもありません。片渕須直監督は、僕が話した限りでは自覚しておられる。ギリギリで、人畜無害な受け入れやすさと社会批判の鋭さを両立させたんですね。
切通
 原作には、すずさんが、日本が朝鮮の人たちを力で従えていたことに気づき、だからこそアメリカの暴力にも屈服してしまった、「これがこの国の正体かね」と言い、そこに気づかなければよかった…という場面があるんです。つまりそれは、戦争で死んでいればそんなことも知らないイノセントな存在でいられたのにということですよね。そこをカットしてしまったがために、すずさんという存在はイノセントなまま戦後も持ち越されてしまった。だからこそ彼女はあれだけ大きな支持を観客から得たのかもしれないと考えると、複雑な思いがあります。

この辺りは、また改めて話したいところではありますけれども。
宮台
 僕がなぜ『シン・ゴジラ』に対してこれだけ残念感を持つのかというと、『巨神兵東京に現わる』の脚本を庵野さんが書いているからです。ものすごくいいんですよ。全編、久しぶりに会いにやってきた弟が語る予言的な言葉を伝える姉のモノローグなんです。これがたまらない。巨神兵や巨神兵の恐怖についての具体的な語りは全くないんだけど、ただ一つ、自分はこれを受け入れるかもしれないということだけを語っているんです。表面的には弟の話に取り合わないかのような語り方ですが、映像と共に聴くと、全てを明白に受け入れていると聞こえるんです。理由は、そう聴かないと認知的に整合しないからです。

庵野さんは、『エヴァンゲリオン』のときもそうだったけど、「全て壊れてしまえ」という人々の享楽的な願望にすごく敏感で、観客がそうした妄想を持ちがちなことにも意識的です。そこに焦点を合わせて人々を享楽に誘いつつ、しかしそんなことが許されるのか、許されないとすれば理由は何か、という自問自答へと持っていく。そんな『巨神兵東京に現わる』の長編版を作るのかと思っていた。それを作れたら、『クローバーフィールド』を超えます。なぜなら『クローバーフィールド』を前提にした「再帰的反応=意識のかたまり」になるからです。そんなふうに思うので、どうしても点が辛くなるんです。
切通
 『シン・ゴジラ』は、初代ゴジラ以降初めて、首都を完全に制圧したという点では、興奮を覚えたし、制圧感を現在の技術を駆使して作っているのはよかったと思いましたが、それはあくまでもゴジラ映画の歴史の上での見方になりますよね。

僕は『巨神兵東京に現わる』は、東京都現代美術館で開催された「館長庵野秀明・特撮博物館」展でお披露目された時に見ました。展示された過去の特撮映画のミニチュアを見て、さらに『巨神兵東京に現わる』の絵コンテやメイキングも見ることができるわけです。和気藹々、大人が楽しそうにアナログで作っている映像が流れ、その奥にスクリーンがあって、そこで『巨神兵東京に現わる』を見たんですよ。そのスクリーンの前までは、かつて存在した大人の手作り特撮を愛でる温かい視点に溢れていて、そこに慣れた観客に対して、東京の日常を徹底的にビームで破壊しつくす存在が現れる。このギャップに酔いました。「ハイ、ここまで懐かしんできましたね。ここからはあなたたちの『いま』を破壊し尽くしてあげます。特撮に求めてんのはそれでしょ?」っていう。これは『ナウシカ』に出てきた巨神兵なわけですが、『ナウシカ』では、火の七日間が昔あった、と語られているわけだけど、まさに今、火の七日間が訪れるということなんだ、と。その破壊感、滅亡感は、インパクトが強かったですね。
宮台
 見てすぐ分かるけど、ご都合主義で作られていて、巨神兵のスケール感が滅茶苦茶です。セルリアンタワーホテルと同じくらいの高さに見えるところもあれば、千代田区全体を覆う大きさに見えるときもある。でもそれが僕は愉快なんです。樋口さんからのメッセージなんですよ。「単なる中二病的な自問自答が与える享楽だろ、論理が享楽を与えるわけがないじゃん」と。その見切り方がきっぱりしている。実際トランプ現象も自問自答が与える享楽の中にあります。樋口さんと庵野さんの真に知的なコラボレーションです。庵野さんがやりたいことを樋口さんが完全に汲み取った。だから、点の辛い「シン・ゴジラ」論は、庵野さんに本当に作りたいものを作れというエールのつもりです。
切通
 宮台さんの「シン・ゴジラ」への不満は、破壊の徹底感の不足なんですね。

というところで、二十二時五十三分を回りました。帰れなくなる人もいると思うので、そろそろこのへんにしましょうか。
宮台
 天気が悪いのにこんなに来てくれて、とても嬉しかったです。
切通
 来場の皆さん、本当にありがとうございました。(おわり)
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