人生は演技であり、絶えざる生成変化である  マーレン・アデ「ありがとう、トニ・エルドマン」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年5月16日

人生は演技であり、絶えざる生成変化である 
マーレン・アデ「ありがとう、トニ・エルドマン」

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マーレン・アデの『ありがとう、トニ・エルドマン』は人間の演劇性についての映画だ。ヴィンフリートは別人に成り済ますのが大好きで、架空の弟に扮して荷物の配達員を困惑させたり、ジョーカーのようなメイクを顔にしたりする。さらに、長髪のかつらと出っ歯の入れ歯で、架空の人物トニ・エルドマンとなって、ブカレストで働く娘のイネスの前に現れる。最後には、巨大な着ぐるみでクケリという精霊になる。徹底して演劇的な男だ。

だが、ヴィンフリートだけが演技をしている訳ではない。人間は絶えず演技をする生き物だ。イネスは顧客に気に入られるように振舞うし、そもそもコンサルタント会社で働きながらいつもどこか無理をしている。クラブで薬物を摂取する時、イネスは普段とは違う別人になろうとするのではないか。プレゼンの前に白シャツを血で汚し、助手の若い女性の白シャツと交換する時、イネスはある意味でその助手に扮して彼女との距離を縮めるのではないか。裸になっても、演技を捨てて素の自分をさらけ出す訳では決してない。全裸のパーティーが催されるイネスの自宅が最高の劇場と化すのを見れば、それは明らかだ。自分自身と向き合う時さえ、人は自分に対して演技をしている。本当の自分が底にあって、その上で演技をするのではない。あらゆる自己同一性は虚構なのだ。人は絶えず演技をしながら別人に生成変化し続ける存在である。

物語映画の登場人物ほど、同一性の虚構を露にした存在はない。人が画面に見るのは登場人物であり俳優でもあるという二重の存在だ。役の年齢とともに俳優が変わったり、危険な場面でスタントマンが代役をしたりと、二人一役は当たり前だし、一人二役さえ珍しくない。物語映画は同一性の揺らぎを通して、別人への生成変化を絶えず画面に刻印している。

けれども、同一性に基づく知覚が語りの根底にあるのも事実だ。ドゥルーズによれば、知覚イメージを前提として、イメージの一次性、二次性、三次性のそれぞれに対応する感情イメージ、行動イメージ、関係イメージが生成され、これらの組み合わせにより物語が語られる。知覚イメージが成立しなければ、映画は物語を語れない。つまり、嘘偽りの同一性に基づく知覚を受け入れて、物語映画は初めて成立する。映画は虚構の遊戯なのだ。

マーレン・アデの演出も同一性に基づく知覚の上に成立している。ある人物はイネスであり、別の人物はヴィンフリートであり、また別の時にはトニ・エルドマンを演じるヴィンフリートである。こうした知覚自体が揺るがされることは決してない。マーレン・アデは同一性の虚構を積極的に引き受けるのだ。ただし、それは人物を特定の同一性のなかに閉じ込めるためではない。演技による生成変化が絶えず起こっていることを、また人生とは演技であり、絶えざる生成変化であることを物語として示すためである。そして映画を通して、観客を様々な登場人物へと生成変化させるためでもある。それ故、監督の演出が、ショットや編集ではなく俳優の演技に集中するのも当然だ。ここでは仕草や表情、服装や髪型のひとつひとつが何より重要なのだ。この点で、トニが初めて登場する女性たちの食事会の場面や、終盤のパーティーから公園へのくだりが素晴らしく、忘れられない。

今月は他に、『スウィート17モンスター』『ReLIFE』などが面白かった。また未公開だが、ルクレシア・マルテルの『頭のない女』もとても良かった。
2017年5月12日 新聞掲載(第3189号)
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