山本哲士著『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社)公開トークイベント  現実世界の不可能さに向かって、吉本思想の必要性|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年5月18日

山本哲士著『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社)公開トークイベント 
現実世界の不可能さに向かって、吉本思想の必要性

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四月七日、新宿区神楽坂の読書人スタヂオで、『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社)の著者・山本哲士氏による公開講演が開催された(聞き手=小紙編集長・明石健五)。
トークイベントでは、山本氏の吉本氏との出会いから二五年にわたる対話と思索、本書を書くに至った経緯、現在の思想を取り巻く状況などが、多岐にわたって講演された。その講演を抄録する。 (編集部)


世界次元に対応しうる吉本思想

吉本 隆明
――本書の特徴としてまず、三部構成になっていることがあります。第一部は、吉本さんの『共同幻想論』を理解する上で、おさえておくべき思想的な問題、あるいは前史的なことが書かれています。第二部が、いわゆる「本論」、『共同幻想論』に関する分析・解説です。そして第三部は、『共同幻想論』を踏まえて、現在の問題として、我々は具体的にどのように社会を、国家を作り変えていけるのか、ある意味で、ひとつの思考的実験について語られています。こうした構成を採用した理由、本書の執筆にいたる経緯などをお聞かせ下さい。
山本
 メキシコに留学していた一九七〇年代後半頃、イリイチの研究所の図書館に教育批判理論の膨大な文献がありました。そこにブルデューやフーコーも含まれます。これらの文献が日本には届いていない、それらを片っ端から読み漁りながらイリイチ本人と毎週議論したりしていた中で、世界次元に対応しうるものは、吉本思想しかないという感触を得たのは、私なりの大きな転機だったと思っています。当時はまだフーコーの翻訳なども十分ではなかったし、ブルデューはスペイン語で読んだのですが、それらに較べても吉本思想は圧倒的にずば抜けていると再感知しました。学生時代の吉本主義者と言われている人たちと自分の読んでいる吉本さんとの違いみたいなものが隔絶していた実感に、世界水準を経て再度吉本さんへ至りました。

帰国後、毎日新聞の記者が吉本隆明さんにどうしても教育を語らせたいからインタビューしてくれないかと。それがきっかけで吉本さんに教育をめぐるインタビューをさせていただいて、毎日新聞の「教育の森」に掲載されました。今でも印象に残っていますが、帰り際のエレベーターのところで、吉本さんが「山本さん、まだ語り得てないところがたくさんあるでしょう。語り切りませんか?」と。「どういうことですか?」と聞くと、「続けましょう」と。それが非常に驚きで、この方は物事の探求に非常に誠実な方なんだと。それで、エディタースクールの吉田公彦さん(谷川雁氏の弟)が引き継いでくださって、吉本さんと徹底的に対話を詰めたのが、『教育・学校・思想』(日本エディタースクール出版部)という本になった。そのときに感じたことがいろいろあって、それをどこかでもう一度詰め直したいなと思っていたときに、『週刊読書人』の「戦後五〇年を考える」(一九九五(平成七)年一月六日号)でインタビューをして、それがきっかけになって、いっそのこと全総括をやりましょうと、わたしの研究所で企画を組み、まとめ上げ、それを『週刊読書人』の「戦後五〇年を語る」(一九九五年八月一八日号~二〇〇〇年九月八日号)で連載公開したのです。吉本さんと二五年間くらい対話をし続けてきて、今振り返ると自分が学びながらずっと対話していたことに改めて気付きました。世界的な思想、理論は自分ではやっているつもりでしたが、常に吉本さんを基準にしていた自分にも改めて気付いた次第です。そういうことがあって、吉本さんの家で吉本全集を出されている晶文社の太田泰弘さんや松木近司さんと酒談していたときに、「山本さん、何か書きなよ」と言われて、それでは『共同幻想論』を入門的に書いてみましょうかと書き始めたんです。
共同幻想の国家化〈国家・家族・個人〉

山本
 ところが、自分が無意識に共同幻想の概念を使っていたことが膨大にあることに逆に気付いた。国家が「共同幻想」と言い換えられましたが<共同幻想国家論>が未だ何も論じられていない。別な言い方をすると、吉本さんは「国家は共同幻想以外の何物でもない」という断定までされているわけですが、その共同幻想と国家の間が全然詰められていない。共同幻想というのは、吉本さんの『共同幻想論』でおわかりの通り、前半の『遠野物語』の民潭、後半は『古事記』から、対幻想、個人幻想との関係で論述されています。国家以前の共同幻想です。国家とはどんなに見積もっても近代以前にはないにもかかわらず、古代国家とか中世国家とか、江戸幕府も国家だみたいな、そういう出鱈目な概念空間に囚われた歴史学や学者ばかりがいて、古代あるいは前古代からある共同幻想と国家との繋がりが解明されていない。「共同幻想を国家化する」過程で、何が構造的に形成されるのかをもう一度『共同幻想論』の中で読み込み直し、理論構成しなければいけない作業をしました。

もうひとつのきっかけは、三・一一の原発事故で、南相馬市から許可を得て原発の警戒地域に防護服を着て入ったときに、街が完全にゴーストタウン状態、神社の鳥居や塀が崩れてそれが放置されたまま手付かず。これは何だろうという衝撃。日本人があれだけ大事にしていた神社、神様を放置状態にするしかない状態までいっちゃった日本って一体何なんだと、私なりの『古事記』の読み直しを共同幻想概念を使ってやりました。これで気付いたのですが、結論的に言うと、吉本さんの『古事記』読みが、殆ど『日本書紀』の神話幻想、つまり吉本さん自身が『日本書紀』の共同幻想に捉われてしまっていて、それと異なる『古事記』の神話形体の共同幻想に辿りついていない。これは一体何なんだ、何が作用しているのか。『古事記』は吉本さんの共同幻想概念を持ってこないと絶対に読み切れない、辿り着けないんです。イザナミが死んで黄泉の国に行き、イザナキが迎えに行く。死者を迎えに行くのですが、互いに対話しています。死んでいない。すると黄泉国は生者の国、つまり国つ神(くにつかみ)の場所国なのです。古事記研究者たちは、黄泉比良坂はどこにあったんだろうかと実在を探したり、また平田篤胤や本居宣長は地下の国だと誤認を言説化するわけですが、こういう解釈が平然とまかり通っていて、しかも『古事記』研究者が神話幻想と歴史的実在との違いを認識できていない。吉本さん自体も例えばスサノオを稲作の始祖にしてしまっている。スサノオは折口信夫が言うように水に関わる国つ神であって、高天原国へ召喚され、国つ神幻想を捨てきれなかったから放逐されたのです。位置付けがずれていて、日本書紀共同幻想に捉われた『古事記』の読み方になっている。神野志隆光氏が明示しているように、古事記言説と書紀言説は全く別物です、読めばすぐわかります。これを私は場所ごとの多元的な国つ神幻想の古事記幻想として大国主や大物主を主に『国つ神論』(文化科学高等研究院出版局)で解き明かしましたが、この本は吉本幻想論をベースにしています。吉本さんの『共同幻想論』における『古事記』解釈のずれと違いを克明にして、その中で見つけたのが「場所の共同幻想」という、場所ごとの神様である国つ神をベースとした共同幻想形態、つまり古事記の共同幻想形態と日本書紀の葦原中国(あしはらのなかつくに)という日本全国を前提にした共同幻想とに、根源的な違いがあると気付きました。「共同幻想の国家化」は、一元的な日本書紀幻想へ統合・集中化して場所多元的な古事記幻想を剥落させていくのです。

対談の中でも時々伺ってはいたことで、吉本さんは共同幻想はひとつだと。それには<一>なるものを設定する根拠――それ自体を超えるものがないということ――があるのですが、それに対して私は区別します。つまり遠野物語の前半が場所共同幻想で、後半はそこから離脱する共同幻想の関係構成です。場所の共同幻想(向こう側がある)と国家的な共同幻想(向こう側がない)、この切替えがいかに構成されるかが「共同幻想の国家化」に関わる。そして原発事故(南相馬などの場所と社会的電力供給の国家編成との逆立の問題)と吉本さんが亡くなったことも重なって、もう一度それを総体的に解明しようということで書いたのが『吉本隆明と『共同幻想論』』(晶文社)です。

吉本さんは共同幻想を問題にする際に、その前提となった<国家・家族・個人>という三層の違いを前提にして、もうひとつ「共同の意志」「対の意志」「個人の意志」という意志の世界と、個人幻想、対幻想、共同幻想という非意識の幻想との違いと関係について、『共同幻想論』を書く以前に格闘しています。意志でなす次元と意志ではどうにもならない次元の相克において、ただ共同幻想と対幻想と個人幻想の三つは次元が違うんだという単純な話ではありません。ここが国家化されていく、構造的な関係と過程として問題を設定しました。ひとことで言うと「共同幻想の国家化」、吉本さんの本質論と現在の歴史的な段階で編成されている国家、それとの関係をどう掴んだらいいのかということになります。

そこを掴む為には、フーコーの<統治制>概念を使うことで共同幻想が統治制化される。別の言い方をすると共同幻想が国家というところに配備される。それから対幻想が家族に配備される。個人幻想が自己主体があるかのように配備されてくる。この三つの関係性を押さえることが共同幻想の国家化の基本になることを、他の世界線での理論成果と重ねてその前提的な問題設定を第一部で展開しています。これは構造主義的、記号論的な現代思想の文化主義的政治理論を超えていくことでもあるのです。
述語的思考形態 幻想の初源


――第二部で「逆読みの手法」を使われた意図、狙いを教えてください。
山本
 もうひとつ大きなポイントがありまして、吉本さんの英訳をネイティヴの人に頼んだことがあります。吉本さんの思考の中で、例えば「自分」という言葉がよく出てくるのですが、その自分とは吉本か日本人か東洋人か人間か、一体誰のことなのか、自分を「I」ともセルフとも訳せないとネイティヴの人が言ってきて、それを吉本さんに問いただしたんですね。そうしたら吉本さんは、「自分ではわからない。全部のような気がする」と、逆に言うとどうでもいいということなんですけれども、そのときに吉本さんの言説には主語がないことに気付いたんです。英訳が誤認だらけになっていくんです。

特に吉本さんの思考形態は全て「述語的」な形で思考されている。西洋人が思考しているものとは全然違う思考形態なんです。西洋的思考形態をもって、『共同幻想論』を最初から読んでいくと、段々幻想形態が高度化されて複雑化され国家に繋がる。単純なものから段々複雑に構成されるという、この論法になってしまいます。そんな馬鹿なことを吉本さんがやっているわけがないので逆に読めばいい。「そうなっている」根拠を探ることになります。

これはラカン的になるんですけど、結果は既に前もってあったんだということになるわけで、その結果は起源論・規範論ですね。禁制というものは最初からあったものなんだけれど、その原初は事後的に理解されるしかない。つまり共同幻想は国家なるものの水準に入ってくるその水準のところで戻って、禁制論、憑人(つきびと)論、巫覡(ふげき)、巫女、そこを読み解いていかないとそれらも位置付かなくて、そこが幻想初源なんです。つまり初源は後でくるんです。別の言い方をすれば古事記は大体、崇神天皇か応神天皇が出発点で、それ以前の神武天皇からさらに遡って天つ神(あまつかみ)のアマテラスやスサノオというのは、後の人間がこうだとしてそこから書いていく。
『資本論』を第三巻から読む


崇神か応神の次元から『古事記』を遡って読んでいかなければいけない。これを最初に天地の天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)がいて、神産巣日神(かみむすびのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)がいて、そこから神様が順番に出ていったと、そういう発生であるかのように読んでしまうのですが神話的事実じゃない。自然神ではない人為神です、しかも渡来的な事実というよりも、神話や物語の本質構成ではないということですね。

だから起源点を現在に置き、初源に戻って最初から決まっていたこと、と読んでいかなければいけない。その為には単純に後ろから読んでいけばいい。吉本さんは「自分は『資本論』を第三巻から読む」という言い方をしていますけれども、それがずっと印象に残っていて、『資本論』を第一巻の商品論から読んでいる限り、マルクス主義者の殆どがそうですけれども、第三巻に辿り着かない。幻想がどこにあるかと言ってもどこにもありはしない。なぜそういうことをしたのか根拠の世界、意味するところの世界があって、そこでシニフィアン作用するのが幻想なんです。国家だってどこを探してもないわけで、ないものがあるかのように作用している。そういう意味作用の働きを逆から順番に掴み取っていかなければならないということになります。規範が成立する、その前に罪責の問題がある、その前に母制、祭儀のことがある、「他界」まで辿り着いたその起源はと、順番に辿っていきますと、最後の禁制、憑人の意味が浮き上がってくる。

吉本さんが順番に書いていったものを、国家という次元に組み込まれていくその根拠は何かと逆から読んでいく。そうすると国家化させるプロセスとして浮き上がってくるのが「共同幻想国家論」です。つまり、吉本さんが問題設定して吉本さん自身が解答を与えてない次元がそこから浮き出してきます。これが第二部の一番基本的なところの読みで、そういう遡及的発生論にしないと一方通行の形成からではキャッチしきれない。国家が国家として機能していくように、共同幻想の作用がどう働いているかという中身として、憑人、巫覡という個的なものが共同幻想を対象にするのと、巫女は共同幻想を対的に対象にするんですけれども、そういうところから<他界>という世界が疎外構成されて、<他界>という形で場所の外に構成されてくる。それは神話的には死者の国とされた生者の黄泉国で、古事記のイザナキ・イザナミ次元の初源からある(というより国産みに配置された)、そうした幻想の規範の世界がどうなっていくかキャッチができます。

『遠野物語』を問題にしていたということは、明らかに「場所の共同幻想」を問題にしていた。起源論で天皇の名は場所の名をもっていた。『古事記』を問題にしたということは、天つ神幻想を抱く高天原<国>の場所共同幻想が、神武以降の「スメラミコト」共同幻想へと転じられていくことであって、葦原中国の国家的な形を射程に入れ得る共同幻想の域に入っていく。しかし『日本書紀』はそこを先取りして国家一元的な共同幻想の可能性を社会空間的な「葦原中国」を大前提にして作っていた、ですから高天原は無い(異文にあるだけ)。日本には、古事記幻想と書紀幻想という二つの異なる設計原理があるのです。これが『共同幻想論』を逆から読んだひとつの成果だと思うんです。天皇は「まつろわぬ」人々=国つ神にずっと苦しめられます、統一などできていない。兎やワニや蛇や猪は、国つ神の存在表象です。国つ神を剥落はさせますが、記紀共に記述から排除はしえない、配置の仕方が違うのです。
西欧思想に「共同幻想」の通道を


――第三部は、吉本さんと対話をしてきた山本さんが独自に引き継いで書かれています。吉本さんが語り得なかったことを語り継ぐ第三部を置いたことについてお話しいただければと思います。
山本
 『吉本隆明と『共同幻想論』』をやりながら、『フーコー国家論』と『ブルデュー国家資本論』(共に文化科学高等研究院出版局)の必要性を感じて、この三部作を同時的に書きあげていきました。特定の原書を対象に厳密に読んで、国家論の理論世界へ構成し、場所政治・経済の可能性を開くことが共通した方法です。吉本了解は、世界線でやらないと不可能です。共同幻想の国家化は、幻想の統治性化(内在化)・統治制化(外在化)をなすことであり、諸制度を国家配備した「社会」編制を自然化して、国家資本へ集中化し普遍化していくことです。
フーコーは国家に実体はないと強調しています。つまり統治制化が為されているだけだと。「国家理性」という国家を平穏に永続化し増強する言説、つまり規整化の理念体系が意味作用しているだけで、「冷たい怪物」などはない点を非常に強調するわけです。身体に対するかかわりと人口を生殖、衛生を含めて統御していく。身体と人口に対して、それを安全な秩序であると組み立てて、領土を持った国家間の均衡を図っていく。そういう形で統治制が組み立てられていて国家に実体がない。それがまさに吉本さんの言っている共同幻想の話なんです。ところがフーコーに共同幻想の概念なんてありませんから、統治技術を明示したが、それが受容され存続していく根拠は、フーコーはそれ以上先に進めることはできない。

もうひとつ、ブルデューは文化資本、社会資本、経済資本という諸資本が象徴資本に集中化されて、諸資本が法律家や官僚の生成によってオフィシャルなものからパブリックなものへと正統化、普遍化され集中化されたものが国家資本になるという捉え方をする。王の家の世襲再生産から、国家貴族の能力再生産への移行です。そして客観的な諸構造と個々人の認知構造が合致している論理的統合をなす。国家による支配、抑圧とか、そんなものは存在しない。人々の認知構造それ自体が国家の認識、思考形態なんだと。では国家資本についてブルデューが論じているかというと何も解明していない。なぜかというと国家資本というのは共同幻想の世界に位置付くからです。それは象徴資本とは別次元です。「誰が」国家を作ったのか、をブルデューは問題設定してしまいます。共同幻想の概念がないものだから、西欧の非常に優れたブルデューもフーコーも壁にぶつかって、そこから先へ行くことができない。西欧の、統治制の歴史、国家生成の歴史ですが、共同幻想論以後の数百年にわたる有史の実際世界です。そこに通道を付けようというのが第三部ということになります。
個人幻想/自己幻想 の出現と逆立

山本
 他方でラカンは「大文字の他者」だという言い方をしていて、ルイ・アルチュセールはそれを受け「大文字の主体」だ、これが国家だ、イデオロギーに働きかけるイデオロギー的国家装置だという論を立てます。大文字の他者というのは何かというと「父の名」で、家族における父の役割ですが、それは実際の生身の父ではなくて、大文字の他者という神に近い父の名だ、象徴的ファルスという言い方をします。これはつまり共同幻想ですよね。そこから国家の在り方と、家族の在り方、個人の在り方、これをちゃんと識別して押さえることが国家論なんだと位置付けていかねばならない。イリイチがはるか一九六〇年代、七〇年代の頃に結論的に言ってたことで、学校は要らない、医者は要らない、モーター乗り物に乗ると移動時間はもっと長くなるとか、つまり逆生産という、制度が目的としたことと反対の結果が生み出されてくる。その事実が眼の前にあるのに誰もそれに気付かない。なぜか、共同幻想に取り憑かれており、思考形態が収奪されて認知構造までそこに捉われて「再認」しているからです。そこで国家というものが永続的に存続するんだという認知の構造がとられていて、そういう国家配備が統治で為されている。その統治性は国家が権力をもって展開するのでなく、諸個人がそのように幻想を受容し、永続するものだと誤認している再認状態です。

対幻想では夫と妻の愛の世界なのに、夫は賃労働者として賃労働男になる。女性は家事を営む家事女になる。子供は学校に行くシャドウ・ワーカーになるという、経済的にセックス編成された対幻想の世界が転倒して家族が構成されているということになります。

吉本さんは対幻想、家族をものすごく大事にしますので、その質問を問いかけると、吉本さんと私の間で大論争が起きることはわかってましたので、そこは私も固く口を噤んで、もっと本質的な対幻想というものと婚姻形態がどういうものかという思想的な議論をなすようにしましたけど、現実的には疎外転倒になっている。そうすると、愛情の表現として子どもが学校に行くのが嫌だといったときに、学校に行きなさいということを親が行使する。そのように共同幻想の代行為者になって、親の在り方をひっくり返してしまうのは一体何でそれは何を作り出しているかというと、認知構造が共同幻想の国家化された国家資本に集中化されているからです。これも共同幻想の中の重要な概念なのですが、「個人幻想」と「自己幻想」という二つの言表が入れ替わり立ち替わり出てきます。それは、個人幻想から共同幻想が対立的な形で逆立する、その逆立から疎外されるのが自己幻想だということです。

その自己幻想は何かというと、まさに自己は自己として存在し得るという、共同幻想、対幻想からも切り離されて、自分ひとりで存立しているのだという幻想を持つことが自己幻想。個人幻想はもっと共同幻想、対幻想とどういう関係を取るかの全体性に留まっている状態。社会的な装置全体が何をやっているかというと、個々人を「社会的な代行為者」に育成しているということです。つまり学生、教師、医者、会社員、役人といった社会的代行為者の勤めを務める。そうすれば生きていける、生活できるという仕組みになっている。それが支えられているのが、共同幻想の蓄積の累積の中で為されているということで、この本ではまだ気付いていなかったのですが、個人幻想が自己幻想に疎外されて家族の中で個人として生きていくという状態になっていると、国家との関係はどうなるかというと、これがブルデューを踏まえてですけど、国家資本に「主語的な様式」が集中化されて統治化されて収奪されている、ということがわかってきました。

吉本さんの思考形態は述語思考形態で、学者連中は吉本さんは客観的に詰めが甘いとか思想家で主観的に物事を言っているだけだと、こういう評価になるのですが、意味された言葉の世界に「意味されたもの」だけを扱っているからそうなってしまうんです。創造的思想は「意味するもの」を明示します、それを掴むことです。意味するものは意味されたものに一致はしない、横棒が入り込みます。さらに、日本語に主語がないのに、主語があるという学校文法の嘘をこの一五〇年間にわたって教え続けることが可能になっている。国語の教師も主語がないと知りながら、主語があると教え続ける。こんなことがどうして可能なのかというと、国家資本に必要なのです。国家が国家として機能してきて配備されていくうえで、主語制化というのは国家として絶対に必要なものになります。そうすると、主語化していけばいくほど自分から遠のいていくんです。自分のことがどんどん限定されますから、さらに自分の本当のことが言えないという状態になってきて、主語化するほど、私個人、自身からどんどん遠のいていくという、そういう幻想作用が作用している。つまり、共同幻想のこちら側、社会に国家配備される社会幻想や制度幻想、商品幻想を、私は幻想概念を拡張して現在の歴史段階を読み解きます。

そこの構図が統治制化された対幻想、個人幻想、共同幻想の集約体としての国家、家族、個人主体に集約されてくるということが読み解けた。ここはフーコーとブルデューを持ってこないと、吉本さんの可能性を引き出せない。吉本主義者はみな吉本さんが意味付けた答えを求めるのですが、答えは吉本さんのどこにもないというのが私の基本姿勢で、但し我々が人類として、私個人が自分として生きていくうえで何が大事な問題かという問題の本質の提示と所在は吉本さんほど正確に開示している人は世界にいない。ラカンもフーコーも提示できていない、吉本さんは提示し切れている。そこの問題構成を踏まえて、ラカンやフーコー、ブルデューを読んでいくと、非常に正確に掴むことができます。今、国家論の補遺という形で「再生産様式論」と「否認と誤認・再認」という二つの本を書いていますが、ここまでいかないと『共同幻想論』は解き明かせない。知の生産とか思考は、現実世界の不可能さに向って、世界の一流の論者たちと交通しながらそれをツールにしてなされていく。そのときに吉本基準が活用されうるんです、主語制言語にある欧米が届き得ていない水準です。
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2017年5月12日 新聞掲載(第3189号)
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吉本隆明と『共同幻想論』/晶文社
吉本隆明と『共同幻想論』
著 者:山本 哲士
出版社:晶文社
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