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2017年7月24日

(昭和33年/読書人創刊号より)批評のない国 現代の書評とジャーナリズム
匿名は認められない 批評精神を刺激する書評を 佐藤春夫
「読者よ誰の言うことも信用するな!」

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昭和33年5月5日発行
週刊読書人 創刊号紙面
「おかげでにくまれぐちをきかなければならない」。
冒頭から佐藤春夫先生が大いにボヤいておられる。1958(昭和33)年、創刊号の巻頭の辞からしてこれだから、批評の状況は今も昔も驚くほど変わらないらしい。
曰く「満足な書評なぞをしてもらった覚えはない」、曰く「みんなが読むというので読み、みんなが面白がるというので面白がる」云々。学者も批評家も編集者も出版社も読者もケチョンケチョンにけなされる。おかげで60年前から「わが民族」は「批評ぎらい」だったことがわかるというものである。
では、批評というものはどうあるべきか。
「読者よ誰の言うことも信用するな!」、半世紀を過ぎてなお古びない、佐藤春夫の批評精神を今また新たに胸に刻みたい。(2017年 編集部)※以下より1958年5月5日掲載当時の内容です。


佐藤春夫氏
また困ったことを持ち込まれておかげでにくまれぐちをきかなければならないらしい。

いつぞや「批評のない国、ボスの国」という小文を書いて、わが民族の批評ぎらい、したがって、批評の発達しないこと、そのためボスのバッコなどについて書いたことがあった。この考えは残念ながら今も変わらない。

勤務評定とかいうものは、いろいろ複雑な内部的ないきさつもあり、門外漢には、簡単に賛成も反対もしにくいが、客観的に見てこの中にも、評定される人間の批評ぎらいや、評定する側の側の純粋な批評精神を疑われるもの謎があって、この点僕にはその賛否のかかわらず、面白くない話題のように思われた。

もっと敢然と調達に批評の対象になることにあまんじる公正明大な生活者となり、または上司の功利的な仕事の手先としてでなく、純粋に自分たちの周囲を批評するような気分で、勤務評定ができるような機構なら批評される側も嫌がらないのかもしれない。これらも「批評のない国、ボスの国」の一現象なのだろう。

書評も、もとより批評の一種だから、批評のない国で、特に書評だけが発達する道理もない。

批評のないわが国では、批評家のかわりを、ジャーナリストがつとめているのではないだろうか。ジャーナリストのデスクが、執筆者をきめ、その掲載する様式や、頻度によって、執筆者の値打ちが自然に評定され、読者もそれをあやしまずに受け入れるとすれば、新聞雑誌の編集長が、それこそ有力な批評家の仕事を具体的にやっているというものであろう。

しからば、新聞雑誌の編集者が批評家としての資格を十分にそなえているかという点になると、もちろんそういう人材もないではあるまいが、十人が十人その資格をそなえているとはいえまい。こぼ場合読者の一人一人が批評家として、ジャーナリズムを批評するだけの見識が欲しいのだが、これは望むほうが無理らしい。
褒められたり怨まれたり

僕は書評をされる側にも、する側にもなってよく知っているがごめんこうむって思いきって答えれば、満足な書評なぞをしてもらった覚えはない。遠慮して固有名詞は略するが、書評の有力をもってきこえた某週刊誌で、批評の「高村光太郎像」というものを、書評に取り上げてもらったことがある。ここの書評欄は執筆者の名をずらりとならべているが、個々の文章については署名がない。それでどんな大先生のお手をわずらわしたかわからないが、光栄なことに出版社がよろこぶほどほめてくれてあったのは有難いが、不思議なことに、ご承知のような中編(もしくは長編)が短編集となっているのには驚いた。あれは回想記風の年代記で、長い年月にわたる思い出話で、ずるずるべったりに再考しては曲もないので、ところどころに小見出しをおいていたが、どういう読み方をしても短編集とは読めないと思う。この書評家先生が短編集とおっしゃるのだから、折角どうほめて下さっても、短編と長編の見わけもつかない先生からほめられたのでは、ほめられがいがない気がした。読者は果たして何とおもったであろうか。

今度は書評を書いた場合の話だが、これも固有名詞を略して、ある中国文学研究家(?)が中国の短編集を訳した時、書評をたのまれて批評したら、ほかの書評では、好評であったのに、僕の批評だけが手きびしかったというので著者先生から非常にうらまれてひどい目にあったことがある。

浪花節みたいな七五肩をすぐれた訳詞と見るような、ほかの書評家なみのものさしを持ち合わせてなかった身の不運であった。それにしても批評の何物であるかを知らないような著者の書物を褒めなければならないような立場を辞退しなかったのが僕の不明に相違ない。

そもそも批評というものは、日常のおざなりの社交ばかりですましている人間生活の間で、本当のことをいってみたいという衝動的熱情をもつ人間の、本能的な仕事で、平常のつきあいがあるからといって浪花節を名詞なみに評判するするような、社交的なおざなりを書けば、ぼくならずともすべての批評家は泣くであろう。いやしくも書物の一冊も出そうという人間は、それぐらいの常識を持ってほしいものである。出版社にしても、そのくらいな常識を持ち合わせた人間の書物だけを出すような常識をもってほしい。
みのがせない雷同的現象

すべての書評も、批判的常識がうしなわれて、コマーシャリズムとジャーナリズムに支配された上に社交的おざなりが横行しているのが現代の一般の書評の傾向でありまいか。読者にしても書評を批評としてうけとらず、うけとるだけの教養もなく、ただ評判記くらいのつもりで読んでいるのであろう。

いや、そんな評判記より、ベスト・セラーの評の方が彼等にとっては重要な批評に違いない。

みんなが読むというので読み、みんなが面白がるというので面白がるので面白がるので、この雷同的現象が批評にかわって、ベストセラーが生まれるのである。彼等読者はみんなが読むものを読まず、みんなが面白がらないような、つむじまがりをしないで、雷同をくりかえしているように思われる。

こういう現象を、一般の批評家は、だまってみすごして、書評などでも、その作品の出来不出来を論ずる場面があって、それを未熟な作品という人があっても、その未熟な作品が何故によまれているかという、もっとも面白い批評的なテーマを逸しているように思われる。

僕が将来のしょひょうにもとめるのことは批評家が独自の見解を読者に無理に同調させようということではない。どんな正当な批評でもすべて無条件で読者にうけ入れられそうなはずはない。

だから、本当の石器人は何らかの問題をすべての読者に提供して、読者自身をしてその問題を考えさせる一つの例として、自分の意見をのべたような書評がもっとも好ましいのである。つまり読者の批評精神を刺激するようなものがもっとも好ましい書評でないだろうか。そうして、一人一人の読者をして一人一人の独立した書評家たらしめることが、ジャーナリズムによる書評家の好ましい態度で、この方法によって、読者の民度が向上されるというものではないだろうか。

うらがえして言えば、すべての読者はいかなる書評をも自分の立場からもう一度批評してかかってみるべきである。その読者も書評家であるという自覚をもっていいのである。
批評とは体あたりである

批評というものは体あたりである。ものとものと接触の関係をあらわすのが批評である。ガラスに石が当たって、ガラスがこわれるような、ガラスにゲンコツがあたって、ガラスがこわれ、ゲンコツが傷つくのが批評である。ガラスのわれたのを見て、ゲンコツとガラスのかたさを考えるのが批評である。だから、僕は何をしている人ともわからない匿名の批評というものはすべての場合みとめられない。

人に教えられることだけが批評の読み方ではない。それはうのみというものである。自分で噛んで、消化し、糞にして出すことが批評である。

現代に書評はない。読者よ誰の言うことも信用するな。ただ自分の頭だけを信用して、面白いものや、よいものを感心すればよい。これが読書の要諦ある。自分の考えがまとまった上で参考のためにすべての書評家の意見に耳をかたむけるのが聡明な態度である。(さとう・はるお=作家)

1958年5月5日 新聞掲載(第223号)
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