『吉本隆明全集』(晶文社) 第Ⅱ期刊行開始記念 トークイベント(上野・輪王殿) はじめての吉本隆明    糸井 重里×ハルノ宵子 |書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年6月7日

『吉本隆明全集』(晶文社) 第Ⅱ期刊行開始記念 トークイベント(上野・輪王殿)
はじめての吉本隆明   
糸井 重里×ハルノ宵子 

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単行本未収録作を含めた『吉本隆明全集』は、全38巻・別巻1。
完結は2023年を予定している。
創刊四年目を迎える『吉本隆明全集』(晶文社)は、この五月、書簡集の発売をもっていよいよ第Ⅱ期刊行が開始された。
これを記念して、四月十五日(土)上野寛永寺・輪王殿で、糸井重里氏とハルノ宵子氏によるトークイベントが開催された。
テーマは「はじめての吉本隆明」。
八〇年代に出会ってからその晩年まで吉本隆明氏と交流を続けてきた糸井重里氏と、吉本氏の長女で二〇一二年に自宅で介護してきた父を看取ったハルノ宵子氏のお二人が身近な人しか語り得ない、「吉本さんちのおとうちゃん」「父・吉本隆明」について語った。(編集部)




「ご住職さんはお寺では 何をなさっていたか」 (糸井)

糸井
 ハルノ宵子さんこと、本名は吉本多子(さわこ)さん。さわちゃんと呼ばせてもらっています。多子さんの“さわ”は、古典から取ったんでしょうね。
ハルノ
 多い少ないの“多”に子と書いて、多子(さわこ)と読みます。なんでも『古事記』に、“人多(さわ)に 来入り居り”というくだりがあるそうで……。
糸井
 知らない人は、多子(たこ)さんと読んでしまいがちですが。
ハルノ
 まあ、高校の頃からずっとタコがあだ名ですから(笑)。
糸井
 名前をつけるときにも既に吉本さんがそこにいたという感じがしますね。
ハルノ
 そうですね、こだわりでしょうね。
糸井
 僕は今まで吉本さん絡みの企画があったときには、敬して遠ざけるというか、なるべく出ないようにしてきて、いわゆる学問的な部分では僕は何もわかりませんが、このまま語る場面がないままよりも話した方がいいんじゃないかなと。どちらかというと、ご住職さんはお寺では何をなさっていたかということをお経とは別にお話しするような役割で引き受けました。多子さんもご自身があまり調子の良くないなかで、じゃあ自分が出るかねえと言ったタイミングが合いまして。今まで講演なんて出なかったでしょ。
ハルノ
 出ないですよ、こんなの(笑)。この晶文社がよくぞここまで父の全集を引き受けて頑張ってくれているという、その心意気に感じて何か少しでも手伝えればと。あまりの気の毒さですよね、感謝だなと。愛すべき出版社ですね。
糸井
 吉本ばななさん、まほちゃんと呼んでいますが、ばななさんも晶文社が途中で投げ出さずにこつこつと全集を出し続けているということに対して、エラいなあという文章を書いているのを読んで、僕もそう思いました。さわちゃんとも似たような気持ちがあって、応援団みたいなものですけど、この全集が生きて繋がっているという感じをいま伝えたいなと。
ハルノ
 でないとこの全集を買ってくださる方々がどんどんいなくなって、そしたらそのあと空白地帯ができちゃうんじゃないか……。そう思うと若い方に読んでいただきたいし、決してとっつきにくいものばかりじゃなくて、簡単に読めるものもあって、簡単に読めるけど考えるとなんだかすごいことじゃないかという本もたくさんあるので、それは是非若い方に読んでいただきたいですね。
糸井
 二人で久しぶりに会って何を話そうかといったら、おそらく、なんで僕が吉本さんと知り合いになったのか、知らない人は知らないと思うんですね。
ハルノ
 そうですね。八〇年代かな?
糸井
 そうです。その頃、吉本さんは『「反核」異論』 (一九八三年/深夜叢書社)という本で批判されていて、今それを読んだら普通のことを言ってるんですけど、当時は不倶戴天の敵みたいに言われて、ちょっと文章を書いたりするのにも差し支えるくらい嵐が吹いてる時期でした。
ハルノ
 やっぱり余計なことを言う人だったから叩かれますよね。それで、結構打たれ弱いんです。ダメージ喰ってない顔してますけど、結構弱ってたりするんですけどね。特に知識人といわれる方々やこれまでの吉本ファンにそっぽ向かれたとか、そういうのは怖くない。だけど、オウムのときもそうだったけど、一般の大衆、普通の方々からこぞって「お前の娘がそういう目に遭ったらどうするんだ」と、それを喰らうとちょっとキテましたね。
糸井
 なるほど、文章で防御的に攻撃的になるというか。
ハルノ
 それとやっぱり知識人の方や読者の方々は、自分のリングの上の人だと思っていて、そうじゃない自分の味方であるはずの自分もその中の一人であるはずなのに、その中で村八分になってしまうような、そんな感じだったですね。
糸井
 誰も相手にしてくれなくなっても自分が生きていける場所を作っていなければという気持ちは、「自立」という二文字であらわせるんですけど、雑誌『試行』を出していらっしゃったのは、どこからも頼まれなくてもここに書けるという、そういう場所を作ったということだと思うんです。それがある程度機能していた。でも、飯のタネにはならないですよね?
ハルノ
 ならないですね。ただ損はしてない。経理をやっていた母もとっても厳しくて上手かったんだと思いますけど、それで自分の懐が傷むとか、そういうのではなかった。
「晴れた日にまた 会いましょう」 (吉本隆明)

糸井 重里氏
糸井
 こんなことしてるとアンタが損するぞと、僕は結構言っていただいたことがあって。知り合ったきっかけは何かというと、吉本さんが当時『マス・イメージ論』(一九八四年/福武書店)か何かで僕のことも含めてサブカルチャーについて書いている時代があって、共同通信社の今はもう退社なさっている石森洋さんという方が、新年号の配信に吉本さんと僕の対談を考えられて、どうでしょうかと言ってこられた。僕は吉本さんに自分の名前が書かれること自体よくわからないんだけど、わからないなりに吉本さんの本を読んでいた人間ですから、語られること自体は光栄ですという気持ちはとてもあるので、「僕は何ができるかわからないけどいいですよ」と答えた。吉本さんの方は「いいんだけども良くない」みたいな感じで、一回お会いしましょうということになって、下町の方のバーみたいなところで、石森さんと僕と吉本さんで会ったのが初めてなんです。

当時僕は三〇代半ばで、そのくらいの年齢の普通の人間だったら、吉本隆明という人が約束した場所にいるんだと思うだけで、鎌倉の大仏様を見るみたいな感じになるんですけど、それを超えた腰の低さで。偉い人だと思おうとすると逃げて行くというか、平ら以下のところにいつも視線を置くみたいなところがあって、最初からウワッ低い!どうしようと思ったんです(笑)。でも、そういう心配は結局なにもなくて吉本さんの方がものすごく低い場所で語ってくださって、こういうふうに居られる人ってすごいなと思った。

そこから吉本さんが、この対談はやめた方がいいという話をし始めたんです。何かというと、今は『「反核」異論』とか俺が書いたせいで、書いたのが悪いんじゃなくてそれをとやかく言ってる奴らの方が悪いんだけど、とにかく今逆風が吹いていて非常に天候が悪いと。そういうときに、糸井さんが僕と話なんかしているところにいると、一派だと思われますよと。僕は若いですから一派だと思われようとそんなことはどうでもいいという気持ちももちろんあるんですけど、それは今の時期はあんまりお得にならないから、これからあなたがやりたいことをやっていくのに、いいことはあまりないからと。私があなたに会うことはいつでもいいから、今の共同通信の企画はやめておきましょうと言ってくれたんです。

ちょっと残念なわけです。その先二度と会えないかも知れないという気分もあるから。でも、吉本さんがいつでも来てくださいっていうことを強く言ってくれたことと、本当に忘れもしないんですけど、帰りがけに「晴れた日にまたやりましょう」と言ったんです。僕は詩人だなあと思った。今は荒天の状況の中で会ったけれども、晴れた日にまたきっと実現するから、晴れた日にまた会いましょうと、すごく腰を低くしてた人が言ってくれた。それでいっぺんに先輩としてファンになっちゃって、ちょっとしたらまた石森さんが、吉本さんのところに行くけど行きませんかと声をかけてくれてお邪魔したのがたぶん一ヶ月以内だったと思うんですね。そこで以前からの知り合いみたいに接していただいて、そこから僕は近所付き合いに近いようなお付き合いを……。

ハルノ
 私は最後まで糸井さんがそのスタンスを崩さないでいただいたことに、本当に感謝しているんです、実は。つまり晩年になって、これまで親しくしていた方々が、もちろんもう吉本さんも齢で大変だろうと考えられたんだろうし、吉本からもう得るものがないと思われる方も多々あるんだろうと思われるんですが、みんな足が遠のいていくんですね。だから最後まで糸井さんが横丁の親父に話聞きに行くんだという感じでコンスタントに来ていただいたのは本当に助かったんです。父も喋って頭も活性化するし、喋ったことはそれなりにまともだしね。本来なら寂しいんですよ。本当に最後の最後まで付き合ってくれたのが糸井さんと、講談社の『フランシス子へ』を出した、お姉様編集者の方々。そのふた組だけで、私は糸井さんとその彼女たちにとっても感謝しているんですね。
糸井
 僕の方こそ、こうやっていつもさわちゃんにご迷惑をかけてお茶やご飯を出してもらったりしてたんで、すいませんという気持ちがあるんです。
「家に“思想界の巨人”がいるのは有り難くない」 (ハルノ)

ハルノ 宵子氏
ハルノ
 八〇年代前半って父が自分でお茶淹れて持っていってましたよね。
糸井
 そうですね、ご自分で大体なさっていました。富岡多恵子さんが吉本さんと外で会ったときの印象を文章にしていて、「自転車を全速で漕いで、全速でカーブを切る老人」として描かれている。お母さんは口は元気なんですけど、基本的には病身だったので、買い物とかは吉本さんがだいぶなさっていて。老人でカーブを競輪の選手のように曲がる人ってなかなかいない。吉本さんは脚を悪くしてもまだやってましたね。
ハルノ
 危険でしたね、あれは(笑)。
糸井
 脚悪いのにブレーキとかどうなるんですかと聞いたら、「まっ、大体転んで止まる」と。転んで止まるブレーキって(笑)。お宅に通うようになったのは、ひとつは書いてある作品を書いたものとして付き合うほかに、人の居方として真似したかったんですよね。例えば次女のまほちゃんが、お父さんから教わったことはあんまりないけれども、人が大勢居たときには一番低いものでありなさいと習ったというふうに文章で書いてたと思うんですけど、その一貫した姿勢。こういうことが本当に一生続けられるんだっていう、僕はそれを真似して生きようと思いましたね。家の中ではどうだったんですか?
ハルノ
 えばるとかそういうのは特にありませんでしたけど、やっぱり面倒くさいんです。
糸井
 あれはあれで……。自分がこうするべきだと思ってやってた態度ですよね。
ハルノ
 特に低くもないし、ただの親父でしかないんですけど。有り難くないですよ、家に“思想界の巨人”がいるのは(苦笑)。
糸井
 まほちゃんがそれも文章に書いてるけど、「家の中に頭のいい人ばっかりいると本当に嫌なんだ」って。だから猫がいる。猫って無条件に馬鹿だから、猫のことを語っているときには馬鹿な話ができる。火をつければいくらでもややこしいこと言う人がいる。
ハルノ
 ウチの家族はとことんやり出したら終りでしたよね。そういう意味では全員が。みんな火薬庫に火をつけないようにして。
糸井
 僕は思うんだけど、あらゆる家庭が吉本さん家みたいじゃないけど、話し合いを徹底的にやっていったら崩壊しますよね。
ハルノ
 たいがいそうだと思いますよ。ある程度以上は踏み込まない。踏み込んではいけない。
「人生相談の大家みたいな」 (糸井)


糸井
 吉本さんとは関係ないところで何か大変なことが起こって、自分が相談を受けたときに、俺はこう思うんだけどそれは浅知恵かな、器用過ぎる答えかなというときがあるんです。器用過ぎる答えでしのいじゃうと本当の解決にならないみたいときに訪ねていくと、吉本さんは大体明快に答えをくれるんですよね。
ハルノ
 そうですね、あれはちょっと見事でしたよね。
糸井
 僕の割に近い人の話で子どもさんが手がつけられなくなっちゃってなかなか大変だった。そのときに吉本さんに聞きに行ったら、それはね、大体親のやってきた悪いことを子どもはあんまり超えることはないんですと、大体自分がやってきたことのあたりなんですよと、超えそうになったらやることは違うんだけどその範囲だったらなおりますよと言われて。その人はそうか、と本気で思ったんですね。だったらいま子どもがやってることを応援しようくらいに思って、確かにその通りでなおっちゃったんです。
ハルノ
 割とあるんですね。若い方なんか『真贋』(二〇〇七年/講談社インターナショナル)っていう読み易い本から入ったらいいんじゃないかなと思うんです。本当にこれは人生のヒントだと思うことがいっぱいあるので、高校生の方々が会場にいるけど、ちょうどいいくらい。
「吉本さんにいま学校の先生をやってほしいね」 (糸井)

2017年4月15日上野寛永寺・輪王殿で
糸井
 思えば僕が吉本さんのところに通う口実として、実際に人生相談をやってました。今は新潮文庫になっている『悪人正機』という本がありまして、これは『週刊プレイボーイ』の連載として始めたんですけど、吉本さんが目が悪くなってから書くのが大変だと、でも喋りでいくらでも仕事なんかあるよって器用に考えることにして、人生相談の連載、質問をして答えてもらうっていう連載をしたんです。質問がそんなにくるもんじゃないので、当然僕が聞くテーマを考えて質問するというかたちになるんですけど、そのときわからなくても後で読むと本当に面白い回答があって。

特にわかりやすいことだと、IT系の技術が発達して情報化社会が展開されていったときに、吉本さんはなぜそれをしないんですかみたいなことを聞いたんです。吉本さんはあんまりそっちに興味は無くて、「やったほうがいいときになったら自然にやるからっていうのがありますねえ。本当は疎いんですけどね」と、普通のおじさんみたいなことをまず言って、「変わる変わるいうのがちょっと、みんな極端なんですよ。変わるっていうのは目玉の位置が変わるとか手が三本になるとか、そういうのを変わるっていうんですよ。いろんな発見やら発明やらあったけど、何が起こっても人間の形は何も変わってないわけで、そういう意味では変わらないですよ。そこは変わらないからやるときがきたらやればいいだけだから」って言われて。そのときは随分落ち着いた考えだなと、その答えは随分じれったいものだったんですけど、今どっちを心に留めとくべきかといったら……。さわちゃんも使わない方ですか?
ハルノ
 そうですね、ツールとして使うならいいけど、それを超えたものは要らない。パソコンも使ってますけど、手描きで十分でホントは漫画の方でそこに行きたかったんですけど、その前に漫画家として落ちこぼれましたから(笑)。
糸井
 どっちでもいいということにおさまるし、極端にどっちかになっちゃうのがつまんない。手で書くというのは、お花を活けるとか金魚鉢の水を替えるとか、自分で料理を作るとかそういうことに近いような、これからはそっちの方がおすすめのような気がします。

これも吉本さんに教わったんですけど、「四世紀までに人間は大体のいいことは考え終わったんですよ」と、人類にとって重要な大発見はベスト一〇〇をつけても上位は四世紀までのところで占められていて、あとはバリエーションだと。

昨日たまたま東大をお辞めになった原子物理学者の早野龍五さん(二〇一七年三月退官)と話をしていて吉本さんの話になって、科学史の大好きな早野さんどう思う? と聞いたら、早野さんはすぐに「そうですね」と言われた。そこからの説明がカッコ良くて、早野さんが言ったのは、「食べられる米とか麦とかを育てる技術、子どもを産むときに危険のないようにする技術みたいな、基本的に知らなければ生きていけないとか知っていたら雨露しのげる、大体そういうことを一個ずつあげていったら、火星がどこにあるとか、ニュートンが引力を発見した研究なんかは、実は生きるにあたってなくてもいい。そうやって分類していったときには必ず四世紀までに発見されたものが上から順番になるでしょうね」と。

その後に発見されたことで、決定的にすごいなと思うのは「ダーウィンの進化論」で、神様が決めたことでないことを人間が見つけちゃったときにどうなるかというのがすごくデカいことだと。あと「地動説」、太陽が動いてるんじゃなくて地球が動いてる。これも今まで宗教がなければ説明できなかった部分を別のもので埋めたことで人間が生きることを徹底的に変えた。もうひとつが「大陸移動の発見」で、頭の中だけのことだけど、たぶん人間をすごく大きく変えた、という話をすぐに引き継いで喋ってくれたんです。

吉本さんが早野さんにバトンタッチされてる様子はちょっといいでしょう? 僕はいろんな大学生とか高校生がこういう視点を持って勉強したらいいなあと思うんです。吉本さんにいま学校の先生をやってほしいね。
ハルノ
 そうですね。詩人で科学者だったから考え方が本当はすごくダイナミックなんですよね。細部にはこだわらないほうがいいと、それはあったと思いますね。
糸井
 詩人の部分の想像力が仮説を作るときに言葉として生まれちゃうみたいなことが大いにあったんですよね、きっと。夢見のように。

吉本さんに親鸞のことを聞いたことがあるんだけど、『教行信証』(正式名称:『顕浄土真実教行証文類』)という親鸞の書いた聖典があって、親鸞の作品ってあれですよねと。でも僕らが親鸞を知ろうとすると弟子の書いた『歎異抄』によって知るわけで、親鸞が生きている時代に『歎異抄』はなかったんですよね、僕はそんなふうに見るんですけど、それでいいですか? と聞いたら、吉本さんは「そうです」と。親鸞は『教行信証』を書いているけど、『歎異抄』の方で伝えられていくと仰ったんです。僕は吉本さんのこともそんなふうに思うんですね。 (おわり)
2017年6月2日 新聞掲載(第3192号)
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