木下直之著『せいきの大問題』(新潮社)刊行を機に 股間の向こうに人間社会を見る 対談=木下直之×赤川 学|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年6月8日

木下直之著『せいきの大問題』(新潮社)刊行を機に
股間の向こうに人間社会を見る
対談=木下直之×赤川 学

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せいきの大問題(木下 直之)新潮社
せいきの大問題
木下 直之
新潮社
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美術史家/東大教授の木下直之氏が『せいきの大問題 新股間若衆』(新潮社)を上梓した。前著『股間若衆 男の裸は芸術か』から五年、再び股間若衆が読者のもとに帰ってきた。
今作も日本の股間表現の変遷などを丹念に繙き、また近年に起こった股間界隈の出来事にも言及する。
この刊行を機に社会学者/東大准教授の赤川学氏との対談をお願いした。 (編集部)

股間にかける凄み

木下 直之氏
赤川
 『せいきの大問題』を刊行されましたが、これは二〇一二年に出された『股間若衆 男の裸は芸術か』の続編にあたりますね。
木下
 前著は褌好きの間では秘かに話題になっていたそうです。「褌好きによる褌好きのための本だ」というツイートを見つけました。そんなつもりで書いたわけではなかったのですが、うれしかった。
赤川
 男女問わず褌好きはいますからね。今作が出る際に、木下さんからいただいたメールに「これまでで一番恥ずかしい本です。股間だけに穴があったら入りたい」とありました。
木下
 たいした意味ではありません。自分のことを少々さらけ出したというぐらいの意味ですよ。今でも中学生時代の友人からは「ケケ坊」と呼ばれるんだけど、その語源は「ケケボーボー」だった、とかね。
赤川
 『股間若衆』では「曖昧模っ糊り」など章タイトルの付け方の妙技に驚くとともに笑ってしまいました。今作も前作同様笑いもあるのですが、ある意味では非常に真面目な本ですね。
木下
 前の本だって真面目ですよ。ただ、今回は気に入ったタイトルがなかなか思いつかなかった。すでに前著の章タイトルに「新股間若衆」「股間漏洩集」などを使っていましたし「股間若衆Ⅱ」では編集者からOKが出なかった。やっぱり前作を乗り越えろと。実は「せいきの大問題」はちょうど東大の赤門をくぐる時に浮かびました。そこに深い意味はないけど、門をくぐった時に思いついたことは忘れられないですね。黒田清輝は本書でのキーパーソンなので「清輝の、性器の、世紀の大問題」とした章もあります。こういう言い回しは歩いている時に突然降りて来る。
赤川
 股間にかける凄みを感じました。その凄みを私なりに整理させていただくと、まず、股間を人びとがどう表現してきたのかが非常によくわかる本になっています。例えば、油絵原則(両股を閉じ、陰毛を描かなければ、裸体であっても普通の油絵と変わらないとする説)であったり、股間を葉っぱで隠すお約束を最初に受け入れたのは誰か、といった一種の美術の作法を、どう表現者が苦心しながら取り入れたかがよくわかりました。私は美術は門外漢ですが、真面目に読むと凄い本だという気がします。このような研究は何学と呼べばいいのですか。
木下
 文化資源学の一環です。もっとも文化資源学会では顰蹙ものかも。
赤川
 表現手法の変化を追うのは美術史でもオーソドックスな手法ですか。
木下
 あくまでも形態にこだわり、変化を追いかけていく意味ではオーソドックスです。でも、誰も追いかけなかった。踏み込んではいけないところにまで踏み込んだということはありますね。あくまでも、街の中に置かれている男性裸体像にこだわる。股間をさらけだした男性裸体像が白昼堂々なぜそこにいるのか。この本では、作者性はほとんど問題にしていません。美術史はむしろそこにこだわる。しかし、誰かがそれを置いたわけですよね。作者だけではなくて、むしろ作者以外の人たちの力が働いてそこに出現する。

赤川
 佐藤健二さん(社会学者)が『流言蜚語』で、資料の歴史性つまりなぜ資料がここにあるのか自体が歴史社会学の課題だとおっしゃっています。それに近いかもしれません。男性裸体彫刻という表現物が、どのような経緯でここにあるのかという問いですね。
木下
 股間に絞り込んでフォーカスしている。リアルな股間は扱いが難しい。プライベートな空間では好き放題に晒していいのだけど、公の場所で同じことをすれば犯罪になる。そうではない人工物としての股間――形を成しているものもあれば、股間を思わせるだけのものもある――がなぜこんなにもたくさん街中に存在しているのか、という関心ですよね。彼らは駅前のほかに、市民会館や体育館のそばに生息する習性が確認されています。
赤川
 股間表現に関する表現者側の苦心という以上の問題を、今回はお書きになっていますね。端的に言うと、社会の側がどう表現に介入してくるかの問題です。これは社会学に近い問題関心です。さらに歴史学的な問題関心からも、重要な指摘がいくつかなされています。たとえば「芸術VS猥褻」という二項対立がどのように生起したのかという問いです。これについては通常、明治期の黒田清輝の腰巻き事件が脳裏をよぎるのですが、それには前史があるんですね。
木下
 「腰巻事件前夜」としました。明治二十二年の雑誌『国民之友』の付録にあった山田美妙の小説「蝴蝶」の挿絵が問題になったことがあったし、黒田以前にも裸体画をめぐる議論がありました。もちろん、黒田については美術史で昔から問題にはされてきたのですが、股間にはそれほど踏み込んでこなかった。というのは、本書で取り上げた黒田の〈朝妝〉〈智・感・情〉〈裸体婦人像〉の三つのヌード作品がありますよね。十年も経たない間に作られた三つの作品はずいぶんと性格が違います。腰巻事件をもたらせた〈裸体婦人像〉は三人のモデルを使って合成したもので現実の裸体を表現したものではありません。しかも布で隠された股間部分は、その布を剥がしてみると実は何もない。陰毛もなければ割れ目もないただのデルタ地帯です。しかし、そこに局部が見えている、という理由で問題になりました。これまでは一体何を表象しているのか、というところまで論じられず、黒田の絵描きとしての人生を語ることを圧倒的に重視し、股間を問題にしなかったのです。腰巻事件で隠された部分だけの図版使用を所蔵美術館に求めたけれど使用許可がおりなかったので、やむをえず展覧会図録から複写し掲載しました。美術の業界では股間部分だけの写真掲載が想定されていないのだとわかりました。
股間をめぐる事件の当事者に

赤川 学氏
赤川
 他にも図版や写真の掲載を断られた話が出てきましたね。
木下
 男根信仰についても写真掲載を断られた所がありましたし、鶴岡八幡宮の「政子石」では写真撮影を断られました。石の割れ目は女陰を表していると周りが勝手に言っているだけだと。これは勝手に言っているわけではなくて、幕末期にスイス遣日使節団長のエーメ・アンベールが訪れた時には、同社の神官が自ら案内して誇らしげに語っていたと、その著書『幕末日本図絵』には書いてあります。言説はいくらでも変わってしまう、といういい例ですね。
赤川
 なるほど。性表現に対する社会の動きや反応を考えるという、歴史社会学的にも、たいへん興味深い指摘です。もう一点、勉強になったのは、ヌード写真と裸体画の違いについてです。「裸体画は現実の身体を加工し、その肌を陶器のように磨き上げ、股間には性器もなければ性器を暗示する陰毛さえ表現されなかった。ポルノ写真はその対極を目指し、股間を広げ、さらに性器までも広げて見せた」という対照は、あまり指摘されてこなかったのではないでしょうか。
木下
 産業化した後のヌードについては十分に論じられていると思うけれど、初期のヌード写真があまり論じられていません。写真という新しい技術が実用化されるとすぐにヌード写真は出現している。カメラを手にするとすぐに撮りたくなったんじゃないかな。それはわかる気がするよね。のちにポルノグラフィと呼ばれるようなものは重要な被写体になる。日本も同じで、でもかなり撮られていた。ところが現物はなかなか表には出てこない。出てきてもコレクターが押さえてしまうから写真史の中でも充分に語られないままなのです。『明治裸體寫眞帖』(星野長一コレクション、有光書房、一九七〇)や石黒敬章『明治期のポルノグラフィ』(新潮社、一九九六)では当時の写真が紹介されています。姿見の前に立つ黒田の〈朝妝〉にそっくりな写真があったり、大股開きの写真も多い。もちろん性器を見せる写真です。写真の発明とともに出現したヌードに対し、芸術としてのヌードはピタリと股を閉じて違いを明確にしていく。
赤川
 歴史学的にも重要な知見だと思います。ところで今回のご著書は、事件史のような側面もありますね。木下さんが様々な股間をめぐる事件の当事者になっていくという…。
木下
 「ろくでなし子裁判に対する意見書」まで出してしまいました。弁護団側が東京地方裁判所に提出したもので、法廷で言及されました。木下直之の言うところによれば……、と法廷で自分の名前が呼ばれるとドキリとしますね。これは裁判官しか読んでいないものだから完全に初公開です。
赤川
 出しても大丈夫なんですか?
木下
 ……もう遅い(笑)。実は、前作『股間若衆』はおもしろさに始まったと思っているのです。それから『せいきの大問題』刊行までの間にいくつか大きな出来事がありました。一つは春画展に関わったことです。二〇一三年にロンドンの大英博物館で「春画展」が開かれた際に少しだけお手伝いをしました。大英博物館での春画展のタイトルは「Shunga:sexandpleasureinJapanese art(春画―日本美術における性とたのしみ)」でした。当初日本の研究チームは春画の一つの持ち味である笑いを重視し、「sexandhumourinJapaneseart(日本における性とユーモア)」を提案しましたが却下されました。それは風刺と勘違いされるという理由からでしたが、展覧会は大盛況に終わりました。

ところが、この春画展が日本になかなか巡回できなかった。結果的には永青文庫などで行うことができましたが、開催までかなり難航しました。そこで、それはなぜかを考える春画展示研究会を作りました。春画については、これまでにも「週刊読書人」(二〇一三年四月十二日号/二〇一五年九月十八日号)で話をしています。

もう一つはろくでなし子さんの逮捕と裁判です。また同じ頃に、写真家の鷹野隆大さんが愛知県美術館で展示を行なった際に作品を撤去せよと愛知県警が介入した出来事がありました。ろくでなし子さんの方は起訴されて事件となり、鷹野さんの方は、まさしく現代の腰巻き事件という形を取ることによって事件化しませんでした。それまで二人には面識がなかったけれど、春画展が視野にあったので、性表現を現代の日本がどう受けとめるのかが気になり、この二つの出来事をしつこく追いかけました。鷹野さんには春画展示研究会にも来てもらって作品を見ながら色々と話をうかがいました。この本は、カバーを外すと、鷹野さんの腰巻き事件の展示風景写真で装幀されています。一九〇一年の腰巻き事件では、新聞の挿絵はたくさんあったけれど、雑誌「明星」だけが展示風景の写真を載せてくれたお陰でわたしたちはこの問題を百年後の今も論じることができる。だから今回も歴史に残すつもりで撮らせてもらいました。 
日本は人間の姿と 向き合っていない

せいきの大問題(木下 直之)新潮社
せいきの大問題
木下 直之
新潮社
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赤川
 図書館に収蔵されるとカバーを外されてしまいますね。
木下
 それはいいですね。現実に起こったこれらの出来事に関わることで、前作とは随分と変わりましたね。ある意味で社会学的な、つまり社会の中で股間がどのように存在しているのかをより考えることができたように思います。
赤川
 『せいきの大問題』は女性の股間も結構出てきますね。前半は男の股間が多いけれど、春画やろくでなし子さんの話題が出てきてからは女性の股間数がぐっと増える。数えてみるとほぼ一対一でした。
木下
 数えたんだ(笑)。それは人間の生まれる男女の数がほぼ同じになることに通じているんでしょうかね。少子化問題専門家の赤川さんに伺いたいところです。いくら少子化になっても男女比はあまり変わらないでしょう。
赤川
 そうですね。あとアダムとイブについても書かれているので、男女の股間数は「平等に」増えますね。
木下
 アダムとイブについては調べていく中で、股間表現について考えるには避けて通れない問題だと思いましたね。余談ですけれど、昨年「タモリ倶楽部」に出演、股間若衆を題材に語ったことがあります。その時にテレビの限界をつくづく感じましたね。キリスト教にできるだけ触れないでほしい、と言われました。だからアダムとイブそのものの図は出せなかった。出版物でも股間そのものはこれまでも出していないけれど、性表現に関しては比較的自由になっている。ところがテレビははるかに後退しています。
赤川
 あの、表現の自由のご本尊というべき「タモリ倶楽部」ですらそうなんですね。
木下
 「ブラタモリ」の方が股間を扱うには名前がぴったりなんだけど。
赤川
 絶対に取り上げないですよ(笑)。
木下
 女性のヌードはテレビではほとんど見かけなくなったでしょう。
赤川
 テレビドラマ最後の乳首はいつかと考えてみると、おそらく渡辺淳一の「失楽園」がドラマ化された際の川島なお美以降、急速に減少したと思います。あれ以降のドラマではほとんど見ないですよね。
木下
 大相撲はあんなに乳首と乳房を見せているのに。いつもそう思うんだよね。結局は男と女のヌードがなぜこれほど違う場所に置かれてしまったのかという問題になる。
赤川
 そうですね。あと私が私蔵している『造化機論』関係のコレクションを、木下さんがまじまじとご覧に来られたことがありました。その時は正直、木下さんの心中で何が起こっているのか、よくわからなかったのですが、木下さんなりの視点で資料を見ていくと、『造化機論』に関する社会史・風俗史とはまた異なる、別の光景が見えてくるということなんですね。
木下
 日本の書物では、アダムとイブのイメージは『解体新書』まで遡ります。扉絵のアダムとイブらしき二人は股間を葉っぱではなく手で隠している。葉っぱで隠すのは明らかに旧約聖書が起源であり、それが変形しながら日本にどのように伝わってきたのかを考えたかったのです。
赤川
 木下さんの見立てだと股間表現に関して日本独特の流れもあると思いますけど、西洋的な流れを生真面目に取り入れた人たちが一部いて、その影響を西洋の本場以上に受けてしまうというような図式でしょうか。
木下
 ヨーロッパの芸術家たちには、肉体へのこだわりが強くあると思う。写真でも絵画でも彫刻でも、ここまで表現するのかと思うくらい人間の肉体と向き合う。そうして、人間をむき出しにしてしまうようなところがある。ところが日本はそうではなく、美術の約束事の中だけにきれいにちんまりと収まっている気がします。
赤川
 欧米ではポルノグラフィでも普通に性器は露出させますね。本にもデボラ・ドゥ・ロベルティスさんが行ったオルセー美術館内のクールベの〈世界の起源〉の前で大股開きのゲリラ・パフォーマンスのことが書かれています。彼女はその場から引き離されたり、当局によって逮捕されることはなかったんですね。
木下
 オルセーは彼女を引きずりだしませんでした。その光景はYouTubeで見られるけれど、警備員は体には触れずに、やめるようにと説得した。警察も事情聴取だけで逮捕はしませんでしたね。
赤川
 日本では間違いなく逮捕されてしまいます。股間の開放というか、股間を見せても罰せられないんですね。
木下
 文化的に裸の位置が違うのでしょうね。造形表現、美術と言ってもいいけれど、日本は人間の姿と向き合っていないと思いますね。裸体表現、というよりも性器表現をあれだけ極めた春画でさえ、裸を通して人間性を暴いているわけではないような気がする。それこそ、「笑い」がそこには不可欠だったと思うのです。
股間史観に至る

赤川
 研究姿勢の問題として、いよいよ木下さんの性嗜好についてお聞きしたいのですが、木下さんの一生を賭けた股間研究とは、どういうものであったのでしょうか。
木下
 一生を賭けてないよ(笑)。赤羽で出会ってから十年くらいです。
赤川
 ろくでなし子裁判の意見書の中に、木下さんの公式の研究テーマが書いてあるんですね。「わたしは、十九世期の日本文化を研究する者です」「特に芸術表現が幕末から明治維新を経てどのように変容したのかを、絵画や彫刻といった狭義の美術ではなく、写真や見世物、芸能や祭礼の領域における造形表現も視野に入れて研究してきました」とあります。そして正統な芸術分野からは少し外れたものに肩入れしながら研究をされてこられたと表明されています。また別の箇所には、研究に取り組む姿勢について「いつも、どこからかはみ出してしまうものを追いかけてきた」とあります。その態度を「ゆるふん」という言葉で表しています。
木下
 私の最初の本は『美術という見世物』ですが、それは「美術展は見世物にしてはいけない」という美術館の世界ではよく耳にする言葉への違和感から出発しています。ある美術館の館長が、見世物小屋だったらただ物が並んでいるだけじゃないか、と言ったことに対して、見世物小屋には見世物小屋の論理にしたがって物が並んでいることを書いた。それを言ったのは静岡県立美術館初代館長・鈴木敬先生(中国美術絵画史家)です。実は私は今年四月からその静岡県立美術館の六代目館長になりました。本当に奇遇だと思います。鈴木敬館長によって、学芸員は研究をしなければいけないという制度設計がなされたので、静岡県立美術館ではそれなりに研究体制が出来上がっています。ただ、どこまでを自分は研究領域とすべきなのかは常に問われます。研究が重要であることは当然だけど、私の場合はここから外側は研究しなくていいとはあまり考えない。それが「ゆるふん」という比喩に一番ぴったりくる。河鍋暁斎の〈友人の肖像〉のように褌の横からぽろりと見せているようなゆる~い感じです。もう少しゆるく考えてみようということですね。どこまで緩めても常に境界線は存在するので、その境界線はどのような理由でそこに引かれているのか、自分はなぜそこを境界線とするのかを自覚して取り組むべきだと思うのですね。

ゆるい境界線で言うと、本書の中に丸木俊の〈原爆の図〉があります。昨年三回ほど実見する機会があり、じっくりと見ました。これまでは原爆の絵という捉え方で漫然と見ていたけれど、今は何を見ても股間にまず焦点が合ってしまう。そうすると見えないものが見えてくる。こんなふうに股間を描いていたんだ、と。そして、丸木俊が黒田の教えた絵画原則に従ったら、原爆の被爆者を絶対に表現できないという当たり前の事に気付かされました。まさに絵に教えられたのですね。小さな図版では股間がどのように表現されているかまではわからない。被爆者の下半身に焦点を当てた図版提供をお願いすると、先ほど同様に断られかねないのに、丸木美術館は大きな図版で載せることを許してくれました。
赤川
 現物を見ることの重要性にも繋がりますね。今作の前半に「股間探偵」という言葉も出てきます。これは非常に感銘を受ける言葉です。股間を通して見るからこそ見えてくる歴史がある。私はこれを「股間史観」と名付けたいですね。ちなみに「股間をたずねて三千里」「時をかける股間探偵」というキャッチフレーズも考えてきました(笑)。つまり股間という視点をもつことによって、芸術の領域はもちろん、社会の断面がくっきりと見えてくる面もある。木下さんはついに股間史観に至られたんだと思いました。邪推ですけれど、そんなに股間がお好きなのでしょうか。
すべては赤羽から始まっている

木下
 股間は好きじゃないよ、股間について考えることが好きなだけです。でも伊藤文学さん(ゲイ雑誌「薔薇族」初代編集長)がブログに書いてくれて、「ぼくは30数年『薔薇族』を出し続けて、「股間」を見続けてきた。木下直之さん、なんでそんなに「股間」に興味を持つのだろうか。一般の人はそんなところに目を向けないのに、本にまでしてしまう木下さんって不思議なお人だ。」(ブログ「伊藤文学のひとりごと」二○一七年五月六日)。伊藤さんにも同じようなことを言われてしまった。
赤川
 研究者人生を考える上でかなり根本的な問いという気がします。
木下
 もともと下ネタは好きなんだよね。それと股間研究は繋がっていなくは無いけれど、それだけでは研究には発展しない。前著の話になるけれど、すべては赤羽から始まっています。もともとは駅前に存在するものに関心があって、駅前とはその町にとってどのような場所なのか、なぜそこに彫刻を置くのかを考えていました。観光モニュメントなどもひっくるめて、それらを「駅前彫刻」と名づけました。とりわけ、奇妙な抽象彫刻がお金をかけてまでなぜ置かれるのかが気になっていました。そんなことを考えながら、知らない町に着いたら必ず駅のまわりを見るんですよ。赤羽駅に初めて降りた時、ロータリーの茂みの中に立つ二人の男性裸体彫刻を見つけて、「何をしているんだ。君たちは」と近づいて行って、出しているのか出していないのかさっぱりわからない股間を目にして、「君たち、どっちなんだ」と思って、それ以来のめり込んでしまった。これが股間若衆との出会いです。
赤川
 その二人が全裸なのか、それともパンツを穿いているのか、パンツと身体が一体化してしまったように見えたということで「曖昧模っ糊り」という表現につながるんですよね(笑)。私はときおり通勤で、その二人の前を通っていましたけれど、存在すら気づきませんでした。
木下
 普通はそうなんです。目には入っていても誰も見ていない。『せいきの大問題』では米沢駅で出会いの感激は最高潮に達しましたね。思わず米沢若衆も駆け寄ってきて、駅前広場の真ん中で、本当にがっちり抱き合った気分でした。
赤川
 「股間風土記」にありますね。米沢の項の文章にも「股間巡礼」という言葉があります。ただ、木下さんの取り組みは、もはや「巡礼」の範疇を越えているような気がします。巡礼は訪れるべき場所が予め決まっていますよね。木下さんは闇雲に歩かれて、他の人の目につかないところでも、股間があれば目の焦点があってしまう。ちょっとした違和感からスタートして、究極の股間探偵、股間史観に至る、知的な興奮があると思います。
木下
 鹿児島の場合は、息子が指宿の女性と結婚したから結納に出かけたのです。結納を無事に済ませて鹿児島に戻る途中で体育館の前を通り過ぎた。「ちょっと待てッ。体育館にはいるかもしれない」と車をUターンさせると、見事に待っていてくれた(笑)。
赤川
 研究者の凄みですね。もうひとつ、キーワードを考えてみました。「ゆるふんであり続ける恍惚と不安、二つ木下に在り」。
木下
 恍惚の人になっていく不安はあるけれどね。もちろん不安はあって、この春、美術館の世界にもう一度身を置いたわけです。美術館の世界に身を置くということは、アートワールドの約束事で生きていかなければいけない。だけど本質的にゆるいから、ついはみだしてしまいそう。この対談を静岡県立美術館の学芸員が目にしたらどう思うのかという不安も感じながら話しています。
『股間若衆』『せいきの 大問題』の延長線上

『せいきの大問題』の裏表紙
赤川
 ところで、この本自体が検閲にかかるということは考えられますか。
木下
 検閲ではなく摘発はありえますよね。なぜなら、いわゆる「猥褻画像」が満載だから。猥褻は法律用語であり、公権力が貼るレッテルです。その場合に、大きさの問題をどう判断するのか。例えば、本書に載せた鷹野さんの作品は美術館の展示室に並んだ作品とは比較にならないほど小さなイメージです。いったん警察が介入した作品だから問題なのか、それとも性器の見えていることが問題なのか。デボラさんの写真もそうです。写真が小さいからよくわからないけれど、単に性器が見えているから猥褻物にあたるという判断は早計ですね。本来ならばその写真を目にして「性的羞恥心」が害されなければ猥褻にはならない。だから警察の人にもぜひ本書を読んで欲しい気持ちがあります。なぜなら明治の警察は芸術家とともに悩み、学んでいたからです。一方に日本の芸術をきちんと育てたいという考えがあったから、自分たち警察はどこまで関与すべきかを本当に真剣に考えていたんです。今の警察がそこまで真面目に考えているようには思えない。検察もそう。見えているから駄目というマニュアル通りですね。だからぜひ本書を手に取ってほしい。

もう一つおもしろいエピソードがあって、裏表紙に河鍋暁斎の猫の絵を使いました。性交中の男女を猫が背後からからかっている絵です。バカバカしくてとても気に入っています。本書よりも少し早く『暁斎春画 ゴールドマン・コレクション』(石上阿希・定村来人著、青幻舎)が出ました。著者のふたりもまた表紙に同じこの絵を使いたかったそうです。だけど駄目だった。どうやらアマゾンのコードに引っかかり、アマゾンで販売できないからだそうです。だから著者たちは断念して今の表紙になった。同じ〈笑絵三幅対〉の絵ですよ。男の膝の上に女がまたがって、むしろこっちの方がいやらしい。考えられる違いはやはり股間が出ているか否かでしょうね。私の本では裏表紙に使ったからアマゾンのサイトには登場しないし、登場する表紙はきちんと葉っぱで守られている。アダムとイブの時代から、葉っぱはそのために存在してきたのですから、誰が何といおうと文句のつけようがない。こんなふうに、股間は現代社会の中でまるで腫れ物のように扱われている。
赤川
 最後に。木下さんは、今後、何に関心を向けていこうとされるのですか。
木下
 私は動物園も研究対象としており、つぎの本は『動物園巡礼』になるはずです。『せいきの大問題』の次がなぜ『動物園巡礼』なのかと思われるだろうけれど、股間を隠すのは人間だけで、動物は平気で出しているでしょう。もともとは展示の問題から博物館に隣接する動物園に興味を持ち、動物園が社会の中でどのような役割を果たしうるかを考えてきたのですが、きっと性の問題にぶち当ると思っています。動物は自分という個体の維持と種の保存だけを考えて、いや考えもしないで生きています。その一員であった人間だけがなぜ股間を葉っぱで隠し、それを外すと猥褻になるのかという問題を、動物園で考えることができないかな。動物園では、環境教育や食育ばかりでなく、性教育さえもできるように思うのです。さらにその次は『猥褻論』を書こうと思っています。それを書いたら大学とはおさらばですね。これまでにも、赤川さんにも色々と質問したことがあったでしょう。例えば、性器という言葉はいつから使われ始めたのか。性欲はいつからとか。
赤川
 意外と遅いですよね。ほぼ戦後です。
木下
 猥褻裁判の章で書いたけれど、当たり前のように使われている性器という概念は果たして自明のものなのか。刑法に性器という言葉は存在しない。法律に性器が登場するのは「児童買春、児童ポルノに係る行為等の規制及び処罰並びに児童の保護等に関する法律」や「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」などです。裁判官はあたり前のように性器と口にしますが、それは何であるのか定義しないんです。そもそも性器はどこを指すのか。チャタレイ裁判の判例に従っているだけで、呆れるぐらい裁判官は勉強していないと思います。判例ばかり勉強せず、裁判官たちも自らの主張をどのように築いてきたのかもう少し遡って考えてほしい。警察だってがんばって自分たちの口を出す範囲を考えてきたのですから。だから『股間若衆』、『せいきの大問題』の延長線上で『猥褻論』を書きたいですね。
赤川
 やはり股間を通して社会を解釈することに繋がりますね。
木下
 下半身を通して世界を見つめ直すことは古来よりあります。人間は裸になれば誰だって同じじゃないか、と。人間は服を着ることによって様々な制度を作り、時代と共にそれを変えてきた。それを見つめ直す時の入口としての股間ですよね。
赤川
 股間の問題を考えていくと、股間東西のあらゆる文献資料に当たらざるをえなくなるという壮絶さを覚えました。
木下
 春画をこれだけたくさん生産した日本の文化とは何だったのか。春画展はなんとか開催できたけれど、世間は裸体表現に対して非常に冷たい。
赤川
 発祥の地である日本でなぜこんなに受け入れられないのでしょうね。
木下
 それを否定した近代の日本社会がどう出来上がってきたのかを考えるのに、股間は恰好の手がかりなのです。 (おわり)

この記事の中でご紹介した本
股間若衆―男の裸は芸術か―/新潮社
股間若衆―男の裸は芸術か―
著 者:木下 直之
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
せいきの大問題/新潮社
せいきの大問題
著 者:木下 直之
出版社:新潮社
以下のオンライン書店でご購入できます
暁斎春画 -ゴールドマン・コレクション/青幻舎
暁斎春画 -ゴールドマン・コレクション
著 者: 石上 阿希、定村 来人
出版社:青幻舎
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年6月2日 新聞掲載(第3192号)
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