現代の女たちを優しく肯定する映画 堀 禎一「夏の娘たち~ひめごと」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年6月13日

現代の女たちを優しく肯定する映画 堀 禎一「夏の娘たち~ひめごと」

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堀禎一は『夏の娘たち~ひめごと』でまたしても小津安二郎の映画を蘇らせた。『秋日和』のように、独り身の母と娘が心を通わせ最後に娘が嫁ぐ。葬式で女たちが喪服を着て、結婚式の日に花嫁が白無垢姿を見せるのも同じだ。『東京物語』や『小早川家の秋』の喪服と『秋刀魚の味』の白無垢も思い出される。ヒロインの直美は母と話して両手で顔を覆って泣き、義理の妹の亜季は父の死を悲しみハンカチを顔に当てて泣く。これらは小津の映画の女たちと同じ泣き方だ。直美が母に裕之との結婚の意志を告げると、母は「味噌漬け持ってきて」と頼む。『麦秋』で、紀子が矢部たみに息子と結婚する意志を告げると、たみが「パン食べない? アンパン」と誘うように。

しかし決定的な違いがある。小津の映画が親子の関係を物語の軸に据えるのに対し、『夏の娘たち』では娘の恋愛が中心になるのだ。その結果、小津の映画と違って親の独身は娘の結婚のいかなる障害にもならず、その一方で、娘の報われぬ恋が物語において大きな比重を占めるようになる。『秋刀魚の味』で路子は三浦に報われぬ恋心を抱いた。直美と裕之は相思相愛だが、この関係も実らない。

では、一度は結婚の意志を固めながらも、直美は何故裕之と別れる決心をしたのか。その心理的な理由を語らないのが、堀禎一の演出の鍵だ。観客があれこれ推測しても無駄である。観客が目にするのは虚構世界の表象であって、虚構世界それ自体は不可知の地平にある。ライプニッツは充足理由律を唱えつつ、人はその充足理由をほぼ知りえないとした。現実世界の充足理由さえ分からないのに、どうして虚構世界のそれが分かるのか。ただし、心理的な次元を超えた理由なら、それなりに説得力のあるものが演出によって用意されている。つまり、直美が別の男の三味線で「春雨」を唄い踊ったからなのだ。直美はこの男を変な人だと思う。だがそうした感情を超えて、唄が二人を結びつけた。だから彼女は結婚式の控室で「春雨」を再び口ずさむのだ。

充足理由律の徹底は決定論に行き着く。裕之との別れの充足理由が「春雨」の唄だとして、この唄の充足理由も存在する筈だ。こうして延々と遡るなら、全ては最初から運命づけられていたことになる。こうして映画に運命の主題が浮上し、道祖神が根源的な充足理由に関わるものとして画面と台詞に現れる。

「春雨」という端唄はまた、小津の映画と『夏の娘たち』のもう一つの重要な違いを示唆している。詞に出てくる鶯と梅はそれぞれ遊女と男を指す。遊女が男に夫婦になろうと唄っているのだ。堀禎一の新作の娘たちは皆、ある種の遊女なのかも知れない。ともかく風俗嬢の麗奈は勿論のこと、直美も性に関して比較的自由な女である。一方、小津の映画で原節子が演じる女たちは反対に、男が後妻を貰うことを不潔と感じたり、死んだ夫への忠実を頑なに守ったりするほど性的に潔癖だ。勿論、聖処女のイメージは作品に沿ったものでないとはいえ、それでも原節子はある種の純粋さを確実に体現している。だが、堀禎一の新作の娘たちはそんな純粋さを否定する訳ではないが、画面に素肌をさらしつつ積極的に性を謳歌する。『夏の娘たち』はそんな現代の女たちを優しく肯定する映画なのだ。

今月は他に、『クリミナル 2人の記憶を持つ男』『LOGAN』『オペレーション・メコン』『露出投稿マニア』などが面白かった。また未公開だが、ツイ・ハークの『女たちの総て』もただただ素晴らしかった。

2017年6月9日 新聞掲載(第3193号)
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