野田研一・山本洋平・森田系太郎編著『環境人文学Ⅰ・Ⅱ』刊行を機に 世界とのコミュニケーション|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年6月21日

野田研一・山本洋平・森田系太郎編著『環境人文学Ⅰ・Ⅱ』刊行を機に
世界とのコミュニケーション

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人間(ヒューマン)と非人間(ノンヒューマン)を共に主体として捉える「多自然主義」
 
野田
 今年2月にツヴェタン・トドロフが亡くなりましたが、彼はコミュニケーションには二種類あるという言い方をしています。一つは人間間のコミュニケーション、もう一つは人間と世界、自然、宇宙とのコミュニケーションだと。ただ近代社会は人間と人間の間が主軸で、それがコミュニケーションだと考えている。それに対して人間と世界、自然、宇宙といったコミュニケーション、つまり神話や伝承あるいは卜占みたいなものによって世界を読むコミュニケーションというのは、近代以前の迷妄もしくは前近代的なもう終わったものとしてしまっているのではないか。トドロフは、近代はいわば「世界とのコミュニケーション」を抑圧するかたちで人間同士のコミュニケーションが優位に立った世界だと言うわけです。また彼は最終的に「世界とのコミュニケーション」を失ったことが、ヨーロッパにとっては一種の勝利であると同時に取り返しのつかない大きな敗北なのだとも言っているんですね。その意味で「世界とのコミュニケーション」という視点を再考すべきではないかと思います。文化人類学という研究分野は、いわばプリミティブな社会とか前近代社会の観察を通じて、「世界とのコミュニケーション」という問題をずっと見続けている分野かなと思っていますし、レヴィ=ストロースの「野生の思考」というアイデアそのものが、「世界とのコミュニケーション」を前提とする分野なのかなと思っています。その辺を奥野さんに伺いたいのですが。
奥野
 まず、環境文学における議論との関わりでお話しいたします。文化人類学は調査地の現実そのものを書くこと、民族誌もしくはエスノグラフィとして出発するわけですが、民族誌がどうあるべきかを問う「文化表象論」と呼ばれる領域があります。文化表象論というのは環境文学で発達してきた表象論に比べた場合、いささかつまらないものに思えます。文化表象論は、文化をどう書くのかという記述論であり、その表象そのものが巻き込まれている権力構造の問題を対象としていますが、その問題に拘泥するあまり、文化人類学は自らの豊かな可能性にフタをしてきたのだと感じます。20世紀の最後の四半世紀に文化人類学が文化表象論に取り組んでいた間に、環境文学では表象に関しての可能性がかなり深められて、修辞をめぐる実に豊かな議論が花開いてきているのだと思います。

近縁の文化人類学ではエドゥアルド・ヴィヴェイロス・デ・カストロというブラジルの研究者が、近年の新しい人類学を率いています。彼は、レヴィ=ストロースの『構造人類学2』の中で示されたエピソードを再解釈しています。それはアメリカ大陸が発見された直後に、大アンティル諸島の原住民たちが白人をめぐる人間調査をするというもので、だいたいこんな話です。大アンティル諸島の原住民に遭遇した白人は、原住民が自分たちと同じ魂を持っているかどうかを調べたのに対して、原住民は白人が自分たちと同じように魂を持っていることは疑わず、その反対に白人が自分たちと同じ身体を持っているのかどうかを調べました。原住民は白人を水に漬けて溺れさせ、死体が腐敗しなかったり精霊に変身しないのを確かめて、ようやく白人も自分たちと同じ身体を持つ人間だと認めました。原住民は人間だけではなく精霊や動物にも魂が宿ると考えていて、白人もまた同じだと考えていたわけです。原住民のコミュニケーションは、人間だけではなく精霊や動物に対しても開かれたものだったのです。
野田
 そういう意味では魂を有するのは人間だけではないという観点が原住民の方には前提としてあるわけですが、言及されたヴィヴェイロス・デ・カストロのように、いま文化人類学の中で非常に大きく動き始めていると感じられる多自然主義あるいはパースペクティズムの思想の中では、まさしく全ての存在がある意味では人間であるといった観点とか、魂を持つというような考え方をベースに展開されているわけですね。そういうものがいま文化人類学の中で取り出されていることをもう少しお話いただければと思うのですが。
奥野
 「多自然主義」とその対義語として「多文化主義」という言葉があります。ヴィヴェイロス・デ・カストロによると、白人たちの考え方は、「一つの自然、複数の文化」という多文化主義です。生き物とか森林、気象現象などの「自然」は地球上どこに行っても同じであると見るもので、そのことを基礎にしながら自然科学が普遍科学として立ち上がります。つまり一つの自然に対して多くの文化があって、それぞれの文化のアプローチによって自然は別の見方で眺められる。これこそが私たち近代人の自然観、文化観だと言うことができます。他方で大アンティル諸島の原住民の世界観はそのまったく逆です。「一つの文化、複数の自然」。多自然主義的な宇宙では人間だけではなく、動物、精霊、無生物などが一つの文化のメンバーであり、それに対して多くの自然がある。つまり蟻には蟻の身体があって、ウーリーモンキーにはウーリーモンキーの自然があるという見方です。一方の多文化主義は人間集団間の争いを生み、複数の文化が集うようになると多文化共生が唱えられて多文化間の調停が図られてきました。多文化主義は広く世界に浸透していて、そのやり方から逃れる手立てはいまのところありません。他方で人間と非人間が共に主体であって、その間のコミュニケーションが想定されている多自然主義的な宇宙では、動物も精霊も含む全ての有機体、それどころか無生物も含む非人間を私たち人間と同じ一つの主体として捉えることが世界の出発点ですが、多自然的宇宙は、トドロフの言う「世界とのコミュニケーション」への回路に開かれています。
人間中心主義的な学問のあり方に対する問い直し

野田
 最近エンバイロメンタル・ヒューマニティーズ、つまり環境人文学という一種学際的な研究が語られるようになってきています。今回の本の中でもウルズラ・ハイザさんの環境人文学に関する論文があるわけですが、もともと文学の側からすると、これは環境文学研究とかエコクリティシズムと言われてきた領域の一つの結果でもあるかなと思います。ハイザさんは文学研究者なのでそちらからアプローチして、環境人文学といった共同性の場を睨みつつ、理論的な統合の方向に向かっているのではないかと思います。一つの大きな流れとしては環境学というものが自然科学系から社会科学系、そして人文科学系と多様なかたちで展開されていて、それが環境文学という領域にも絡んでいます。特に最近では人文学を環境の視点から再編し共同性を作り出そうという動きになっていると思われます。ただ環境学の方からはもともと学際性というのは重要だったわけで、特に持続可能性の問題で言うならば、人文科学、自然科学、そして社会科学などが連携する必要がある、そうでないとこの問題は解けないという視点で、学際とか領域横断的な指向性をもともと持っていたと思えます。

もう一つは人文学そのものの問い直し、つまり環境学の方に向かっていくだけではなく、人文学そのものが環境の視点で問い直されて再編成する必要があるのではないかといった動きにもなっています。人文学は人間学でもあるわけですが、人間中心主義的な学問のあり方に対する問い直しという意味で、単に人文学を環境学に連携させるだけではなくて、人文学そのものを環境学の方から問い直していくとどうなるかといった問題意識にもなってくると思われます。つまりさきほど奥野さんから文化人類学の中からの問い直しとして自然あるいは環境という問題が出てきたのと同じことが人文学全体にとっても言えるのではないか。逆に言うと自然や環境という領域を近代の観念的な編成の中で外部化したり空白化したりしてきたのが環境問題の根源であるとすれば、「世界とのコミュニケーション」の部分を排除してきたという問題、つまり人間中心主義批判といったところに行きつくのかなと思います。
奥野
 今日再び「世界とのコミュニケーション」の可能性が取り上げられ、個と社会と自然・環境との連続性だけではなく非連続性の問いが文化人類学の本流へと流れ込んで、渦巻いたりうねったりしています。それは、自然環境の外部化、空白化への挑戦を含む問いです。これはエコクリティシズムの問題意識でもあると思いますし、さらには環境哲学や哲学の大きな流れでもあるのだと思います。隣接する人文諸科学の問題意識が、かなり明確なかたちで重なり合い、共有するようなところが出てきたのではないでしょうか。いまうねりと言いましたが、「世界とのコミュニケーション」をめぐる課題は、文化人類学でも本流になり、次は、人文諸科学がうねりあう環境人文学という大海原に出て行こうとしていると言えるのではないかと思っています。
野田
 ここではエドゥアルド・コーンの『森は考える』を手がかりにしたいと思っているのですが、これは奥野さんたちが翻訳をされた大きな仕事でもあり、新しい文化人類学の展開面を示すものです。この本を手がかりに、環境文学系の人間から見ますと、アルド・レオポルドという環境思想家あるいは森林学者でもあった人の、『野生のうたが聞こえる』の中の「山のように考える」という論文を当然連想するんです。だけどコーンの『森は考える』は、ある面では山の身になって考えるというレオポルドのアイデアの限界を突破した書物と感じられてすごいなと思いました。レオポルドの場合は、タイトルが示すように、山の立場になってみようじゃないかという人間中心主義脱却を提唱する画期的な環境思想だと言われてもいますが、これはまだエンパシーの思考で、山が自ら考えるかどうかはわからないという観念が、彼の思想には貼りついていると思うんです。しかしコーンは「森は考える」と言ってしまっているんですね。これはやはり人間中心主義から本当に脱したような表現になっているという意味で大変興味深い。つまり文字通り森が思考するのだというアイデアで書かれていて、森ひいては自然に対して主体を認知するものとして出てきている。これが結果として森あるいは自然における他者認知をめぐる記号過程を単なる人間化とか擬人化ではなく、相対化していく議論を生み出していくのではないかと思います。森そのものが考えるのだというこのスタンスは、人間中心主義からの脱却であると同時に、場合によっては人間の地位切り下げみたいなもの、あるいは人間の自然化を意味する。そうするとそもそも自然とは何かということを非常に具体的に問い直さざるを得なくなる。その点で環境文学研究にとっても非常に重要な本だなと思います。
奥野
 『森は考える』は原題では“HowForestsThink”、「いかに森は考えるか」というのが元々のタイトルです。レヴィ=ストロース的な「野生の思考」の伝統を、民族誌の次元でいかに突き詰めるのかという点が主題となっています。エクアドル東部のルナの多自然的な宇宙では、精神とか思考は人間だけに偏ってあるのではない。動物たち、精霊たちも人間に似通った存在であって精神や思考を持っていると考える。それを理解するために西洋の認識図式みたいなものを持ち込んで考えるのではなく、調査地の現実そのものの中で自然と人間の関係がどのようになっているのかを考えることから出てきたのが「存在論」の議論だとしますと、ルナの存在論に依拠しながら、人間以外の存在者を含め、人間と非人間がどう思考しているのかを示したのが『森は考える』だと言うことができます。人間だけが思考するのではなく、すべての有機体を含め、森全体が思考しているという一つの思想が、C・S・パースの記号論に基づいて示されます。たとえば、ある時、犬が赤毛のシカだと思って勇ましく吠え立てたのですが、それと見かけがよく似ているヤマライオンと見間違っていたことに気づいて、急に勢いを落として吠えるようになったことが、犬が思考していることの証として語られます。犬は命拾いします。「差異に気づくことの不在」、つまりシカとヤマライオンの差異を感知しないイコン的な記号プロセスがそこには認められます。その記号過程の中に自己が出現するのです。また、ウーリーモンキーが、木が倒れる轟音を聞いてその場を飛び退くことは、倒木音により何かが起きることを察知しているというインデクシカルな記号過程の中で思考していることを示しています。森の中では、イコンやインデックスに拠りながら、記号論的な自己がその都度立ちあがってきます。コーンは、「生ある思考(livingthought)」が、自己そのものであると言っています。森の中に諸々の自己がいる。諸々の自己、これを私たちは「諸自己」というやや不思議な言葉に訳しましたけれども、コーンは諸自己によって成り立つ「森の思考」を記述しようとしました。
主体を自然に対して付与する逆擬人化の創造性

野田
 先日奥野さんが文化人類学会で発表されたのをたまたま伺う機会があって、そこでヤマアラシになったかのように記述された民族誌をあえて提示されていましたね。加藤幸子の『ジーンとともに』を彷彿させる文体が大変面白いと思ったのですが、なぜそれをあえてなさったのか。コメンテーターからはヤマアラシの擬人化ではないかという指摘を受けたわけですが、奥野さんは何を考えてヤマアラシのエスノグラフィをあえて書かれたのでしょう。ある種の挑発行為をされたのかなとも思いましたが。
奥野
 「マルチスピーシーズ民族誌」というジャンルがあります。それは「世界とのコミュニケーション」を具体的にどのように調査し記述していくのかを扱う新たな文化人類学のジャンルです。2017年5月末に、マルチスピーシーズ民族誌の課題を話し合う分科会を文化人類学会の研究大会で初めて開きました。私の発表というのは、人間とヤマアラシの絡まりあいを取り上げたものです。ヤマアラシの胃石は、マレー半島の都市住民である華人の間では癌やその他の病気に薬効がある漢方薬として重用されます。それが都市部では非常に高値で売られていまして、それに乗じて、ボルネオ島の奥地では胃石の採集が近年ブームになっています。胃石の産出はまた、ボルネオ島の自然破壊と自然再生に大きく関わっています。熱帯雨林が切り倒され丸裸にされて、その後に油ヤシのプランテーションが作られたのですが、そこにヤマアラシが実を食べに来るようになった。ヤマアラシはどうやら殺虫剤がかかった実を食べることによって胃の中に石をどんどん作りだすようになったようなのです。そのトピックを、マルティサイテッドという複数の場所で行う調査手法に従ってフィールドワークして前段でまとめて、最後に、ヤマアラシがその現象をどういうふうに見ているのかを描きました。発表時には、これは擬人化なのか、あるいはこれを擬人化と言っていいのかということも含めて、ヤマアラシが語っているという全体の構図としては私が語っているにすぎないのではないかというコメントがなされました。マルチスピーシーズ民族誌では、人間以外の主体を主題化して、その主体がどのように世界を見ているのかというところにまで行かなければいけない。その一つの解決の方向がさきほど言った『森は考える』の記号過程を使ったもので示されていたのだとすると、もう一方で学問的な探究としては擬人主義の議論が出てくる。その議論は、人間と動物の二元論をめぐる問題が前提となっているのではないかと考えています。語られる前の本来的な動物自体の表現というものがあるのかないのか、結局のところ私たち人間が人間と動物の身構えの類似性を感知しているに過ぎないのではないか。私自身はこうした議論が向かう先には、主客の内面的な連続性に目を向ける人類学の今日のアミニズム論があるのではないかと思っています。ただ、そうした擬人主義の議論から離れて、今回の文化人類学会でやや挑発的に提示したのは、文学的な想像力を活かしながら、あるいはそれを取り入れながら描きだす可能性です。文化人類学者たちには、評判がよろしくなかった(笑)。なぜ文学的な想像力という方向に行くのかがピンとこないというような受け止め方でしたね。「世界とのコミュニケーション」を文化人類学という王国だけに向かって語ることには限界が来ているのではないかと個人的には思っています。だから環境人文学が一つの可能性としてあり、さらにそこには文学的な作品の豊かな世界の広がりがある。そういった試みを今回は実験的にやったわけです。
野田
 ずうずうしい言い方なんですが、人間は他者に対して常に想像力で向かっているという側面を忘れてはいけなくて、他者理解はこのような、つまり擬人化のような想像力で架橋していくものではないかという気がするんです。奥野さんの記述は、実は文化人類学がやっていることはこの擬人化とそれほど大きな距離があるのかという問い返しだったのではないかという感じがあります。擬人化は非科学的なものだという否定的なニュアンスがありますが、そこには創造的な側面があるということも考えなくてはいけないのではないか。そのような問い直しを私に示唆してくれたのが、矢野智司さんの「逆擬人法」というアイデアです。これは宮沢賢治の擬人化についての議論で、人間の観点から自然をある種人間的なものとして読んでいくという意味では形式的には擬人化とおそらく変わらないのですが、矢野さんは擬人化をマイナスなだけではなく、むしろ自然に対して声と主体性を与えるものだという視点を考えるべきだと指摘しているわけです。これに今村仁司さんの「自然の人格化」をめぐる問題意識を重ねると、擬人化のよりクリエイティブな側面が立ち現れます。この逆擬人化の創造性はまさしく声と主体を自然に対して付与することにあるわけです。コーンの言う自己を持つ存在としての自然の方向に向かっているという意味で重要なことなのだと思いました。
環境人文学を人文諸科学の共通のプラットフォームに

奥野
 今回の二巻本ではウルズラ・ハイザさんと結城正美さんが素晴らしい環境人文学の概説を書かれています。それらの章の中、さらにはこの本の中でも何ヶ所かで取り上げられているキータームの一つ「アントロポセン」、「人新世」あるいは「人類新世」というキーワードです。このキーワードが、人文諸科学を含め、近未来的に非常に大きなトピックだと思います。現在は一万七千年前に始まった完新世に位置付けられていますが、人類が地球生態に対して非常に大きな影響をおよぼしたことを重く見たクルッツェンが、地質年代区分の変更を主張したことに始まるものです。地球が誕生してから47億年、生命が出現してから37億年、単一の種で地球環境に大きな負荷を与えた生命体は他にいない。こうした点を踏まえて、人間とはどういう存在なのかをもう一度問い直す流れが人文諸科学の中に生まれているのではないでしょうか。そのような問題をどのように捉え、どう考えるのか。自然と環境に関する人文諸科学としてどういったことができるのか。そうした問いに対する一つの方向としてこの本の中でも期待されているのが、マルチスピーシーズ民族誌です。マルチスピーシーズ民族誌とは、「行為主体である存在の絶えず変化するアッサンブラージュ(組み合わせ)の内部における生命の創発に通じた民族誌調査および記述」を目指すものです。これは欧米中心主義的な確固として一貫しているものとしての人間像の脱中心化に向かうポストヒューマニズムの流れの中で、複数の有機体との関係において人間的なるものが創発する仕方を考えようとしています。

それからもう一つ、研究者は縦割りの学問の中に入って議論しているので、隣接学問とは話が合わないとか、何を言っているのかわからないということがよくあるわけですが、この本はそうした問題を超えて連携を模索する出発点として、文学、哲学、地理学、人類学、歴史学などの人文諸科学の協働を試みるという大きな企みがあります。私が関心を抱いたのが、伊藤比呂美さんと管啓次郎さんの対談に続いて、伊藤さんの作品を取り上げて編者である森田系太郎さんが論じられているマテリアル・フェミニズムズです。これは唯物論の影響下にある新しい学的潮流です。たとえば私たちは、身体を、文化を身にまとうマテリアルとして、自然・環境から独立したものとして見るわけですが、身体は女性であれば受精卵を宿したり細胞が分裂したりして出産する自然でもあるし、他方では癌細胞が増殖する自然でもある。つまり身体と自然は対立する概念ではなくて、両者は相互浸透しあっていて、身体も自然にほかならないのだという議論です。

最近の哲学では人間を含めてすべての対象が主体となりうるような哲学を構想しているようです。人類学では諸自己の生態学を論じようとする動きがあります。エコクリティシズム(マテリアル・フェミニズムズ)と哲学と人類学に共通しているのは、他者性を薄めるために、他者という言葉の代わりに別のタームを持ち出している点です。諸自己の自己といったように。隣接する人文諸科学は、人間や非人間を「世界とのコミュニケーション」の中でどのように捉えていくのかにもう一度大きく戻ってきている。おそらくは環境人文学を共通のプラットフォームとすることで、人文学の再編、再構築を目指す好機が到来しているのではないか。この二冊は、環境文学を土台に据えていますが、今後「世界とのコミュニケーション」にかかわる人文学の試みを開いていく、一つの大きな出発点になるのではないかと思っています。
野田
 この二冊は多面的に面白いところがたくさんあります。たとえば教育学の矢野智司さんとか歴史学の北條勝貴さんのような方が、あえて越境して文学から取り出したものを提示してくださっているところなども大きな魅力です。それともう一つは日本文学の研究者がちょっと前に出ているということ。渡辺憲司、小峯和明、北川扶生子のお三方ですね。とくに嬉しかったのが小峯さんの仕事で、小峯さんはすでに共同執筆された『日本文学史』の中で環境文学というセクションをきちっと設けて本草学などの歴史的な位置付けをなさった。これは平たく言えば日本におけるナチュラル・ヒストリーの歴史の整理を手がけられているわけです。これは非常に頼もしい動きだと私自身は思っています。ですからこうした書き手の方々の名前を見ていただいて、さらに刺激される方がいると面白いなと思っているんです。
2017年6月16日 新聞掲載(第3194号)
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