凄惨を極めたる函館大火の実況|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読写 一枚の写真から
2017年6月20日

凄惨を極めたる函館大火の実況

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函館市は明治四年以来、消失戸数一千戸以上に及ぶ大火は前後八回を算しているが、今回の火災は未曾有のもので、関東大震災に次ぐ歴史的の大火であった。写真右上は新川町電車通りの焼跡に惨憺たる残骸を横たふる市内電車。右下は一望際涯なき焼野原である。(『歴史写真』昭和9年5月号)

昨年末の糸魚川市街に始まり、五月の釜石市や福島県浪江町の山火事など、広範囲を焼き尽くし、鎮火に長時間を要する大火が続く。

ここに取り上げたのは、昭和前期の「函館大火」の映像である。

昭和九(一九三四)年三月二十一日午後六時五十三分頃に発生した火事は、折からの強風にあおられて、翌朝六時頃までに市内の三分の一を焼き尽くし、二千百六十六人の死者を出す大参事となった。

写真は『歴史写真』昭和九年五月号に掲載されたもので、「関東大震災に次ぐ歴史的の大火」と報じた。

火元について、記事には「住吉神社神官方の漏電」だとあるが、函館市によれば「旋風の為火元木造二階建の屋根飛び炉火より発火す」(ホームページ)とある。部屋に吹き込んだ隙間風が炉の火を舞い上がらせて屋根に飛んだということだ。

函館市は地形の関係から大火が起きやすく、江戸時代から消防隊も組織され「日本一」といわれる体制があった。しかし、この火の手を発見したのは五分後のことで、それから消火活動が始まった。この「五分」が大火につながるキーポイントだとする指摘がある。

大火の被害が大きかった原因は、「一・発火より消防署に於て知覚するまでに約五分を要したこと、二・風力甚大で火災の伝播速度大且飛火多く尚風向の旋転方向亦最悪的であった事、三・火元付近は特に地形の関係に依り延焼中頻りに風の旋転、突風起りし事、四・発火地点及海岸付近は特に矮小粗悪木造家屋連担し且全市に亘り粗雑木造家屋が多かった事、五・防火地区極めて尠く、広場、公園等の都市計画上の施設が完備して居なかった事、六・発火地点は水道終点である為め水圧弱く水量乏しく、加ふるに風力強き為めに消防組の活動意の如く行われなかった事、七・道路概して狭隘にして消防組の部署変更に困難なりし事」(『函館大火災(昭和9年3月21日)調査報告』、函館市ホームページ)

物理学者の寺田虎彦も「当時の気象状態と火元の位置とのコンビネーションは、考え得らるべき最悪のものであった」としながら「火事の大小は最初の五分間できまる」と初期消火の重要性を説いた(「函館の大火について」)。

函館大火の写真群で特筆しておきたいのは、掲載された全てに「津軽要塞司令部検閲済」と記されていることだ。

風上から発生した火は海岸方面に広がって、大森海岸地区がとりわけ多数の死者を出した。街が壊滅した状況を記録する写真は多数あり、絵葉書にもなっているが、当時公表されたものはみな検閲を通っていた。

津軽要塞は、日本軍が沿岸部に構築した要塞の一つで函館山にあった。要塞から十キロ以内は「軍事機密」の地区だとして撮影を禁止され、絵葉書なども函館山をぼかして売られていた。

火が要塞を背にして広がったので、「軍機」が避難経路を妨げることはなかったようだが、もし要塞方面に避難しなければならなかったら、軍部はどのように対応していたことだろう。

昨年末の新潟県糸魚川市大火は折からの強風で、約四万平方メートルが焼けたが、死者を出さなかった。正確な情報を市民が共有して、助け合いながら避難したことが大きな要因だとされている。このような大惨事が起きたときに、市民にどれほど正確な情報が伝わったか。軍機を思わせる「検閲済」の文字が、市民最優先ではなかった社会の不安を伝えている。
2017年6月16日 新聞掲載(第3194号)
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