ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理 / パトリック・ロレッド(勁草書房 )独自の理論的・実践的な動物の哲学を展開する|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年6月19日

独自の理論的・実践的な動物の哲学を展開する

ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理
著 者:パトリック・ロレッド
出版社:勁草書房 
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デリダの動物論 そう聞くだけで、興味を覚える人はきっと少なくないだろう。

動物論は哲学・人文科学において大ブームが続いているようだ。デリダが動物について語った諸々の言葉は、このブームの重要な加速要素になっている。そんななか、さらに一歩を進めて、デリダ思想の核心は動物論である、と大胆に宣言する著作が現われた。それがこの『ジャック・デリダ 動物性の政治と倫理』である。

著者パトリック・ロレッドはデリダの動物論について、ブームどころか、まだまだわずかしか語られていない、と見ている。「デリダの読者の大多数は動物の問いを過小評価してきた」だけでなく、「デリダの思想を理解する際に動物の問いにしかるべき重要性を認めることを拒否してきたのではないだろうか」。しかるにデリダの哲学的仕事とは、読者の読みの期待を裏切ることで、物事の顧みられなかった一面に光を当てようとするもの、そうした意味での「脱構築」の営みであった。だとするならば、「われわれ読者の依然として非常に人間中心主義的な期待を裏切る」仕方で、脱構築は「人間に固有であるとされているものの脱構築」を必ず作動させるはずだ。だからこそ、まさに「脱構築とはエンペドクレス、モンテーニュ、そしてニーチェの思想のあとに続く、西欧における動物性についてのもっとも新しい重大な思想」(二頁)である。

ロレッドは本書を「デリダにおける動物倫理の序論となることを望む」ものとし、小著ながら内容は多岐にわたる。しかしおそらく彼のデリダ論―動物論の焦点をなすのは、「肉食的供犠」という事柄である。「西欧は、肉食的供犠という支配的で複合的な形式をとる動物の供犠を糧として存続している」(二二頁)。大げさな言い方だろうか。いや、そうではない。人間とは何かということ、人間が「主体」であることの条件には、「動物を肉として食べられる」という機能ないし合目的性がつねにいつでも貼り付いているのだ。西洋における「主体」は、この「動物の殺生という手段を介して生殺与奪の権力を保持しない限り、主権的主体として理解されえないのだ」(三四頁)。この生殺与奪の恣意こそが、人間的主体という政治的動物の権力性を端的に示す。その権力構造をデリダは「肉食―ファロス―ロゴス中心主義」と呼んだ。

しかし他方で、動物にたいする支配権力の行使ということが人間主体に必ず内在しているのならば、そのことは同時に、隠れた前提、すなわち、人間の主体性は動物たちという支えなしにはじつは成り立ちえないという、裏側に隠れた前提を露わにさせる。つまり「動物性による主権の汚染の危険」(六二頁)はウイルスのごとく主権的主体をつねに脅かしているのだ。だがそこにこそ、動物にたいする不当な権力的支配について人間自身が新しく気づきを得る可能性が、また「肉を食べる男性」を範例とする人間観に「ベジタリアンのフェミニスト」を対置して脱構築を作動させその先にある何かをかいま見る可能性が、たしかに潜んでもいる。

ロレッドはフランスにあって、英米ほどは動物倫理の研究が盛況でない現状のなか、トム・レーガンやダナ・ハラウェイの議論を参照しつつ、新たに独自の理論的・実践的な動物の哲学を展開しようと試みている。その心意気は大いに買いたい。とはいえ、新分野の開拓途上という感のある論の運びはやや飛躍が多い(ないしは、やや少なすぎる)とも見られ、著者の研究の今後の進展を待ちたいところである。人間中心主義を人間が乗り越えるというアポリアへの見積もりも若干甘めだろうか。西山雄二氏が巻末の訳者解説で的確に述べておられるように、デリダ自身は「菜食主義者もまた動物を、さらには人間をさえ食べている」と慎重に指摘することを忘れていない。「供犠的暴力を解決するための純粋な非暴力などなく、他者を同一化すると同時に他者を尊重するための適切な仕方を学ばなければならない」(訳者「解説」一四八頁)という次なる課題を、これからのデリダ論―動物論は受けて立たねばなるまい。

おそらくは昨今の動物論ブームのなかでしばしば用いられる「猫」と「ダニ」という範例も、問い直される必要があるのだろう。第四章でロレッドは野良猫と自由について非常に興味深い議論を展開しているが、この論と先立つ章との連関が見えにくいのは、私見では、猫が食用の対象とされないことによると思う。ロレッドが「肉食的供犠」と呼ぶような、肉食の罪深さと或る種の根源性――この事柄を考えるとき、私は真っ先に中村生雄(一九四六―二〇一〇)の仕事を思い浮べる――にありのままに迫るという動物論の最良の部分は、じつは「猫」と「ダニ」の例ではかえって隠れていくかもしれない。

動物たちへの眼差し。人間の肉体という生きもの、この我儘で脆い生きものへの眼差し。現代文明による人間自体の家畜化。私たちが見ていながら考えずにいてしまっているさまざまな現実について、動物論の哲学は、文化人類学や宗教学・生物学等と豊かに切り結びつつ、私たちを挑発し続けることを、まだまだやめそうにない。
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2017年6月16日 新聞掲載(第3194号)
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