特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店) 『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年6月29日

特集「中動態の世界」 第一部 國分功一郎×大澤真幸「中動態と自由」(代官山蔦屋書店)
『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念

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能動態でも受動態でもない、「中動態」という耳慣れない言葉がにわかに注目を集めている。哲学なのか言語学なのか、はるか昔にあって実は今もあるという、古くて新しい「態」のカタチ。その「中動態」が、もしかしたら私たちの社会通念や経済システムすら根幹からひっくり返す可能性さえ秘めているという……。

哲学者の國分功一郎氏がこの春上梓した、『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)は刊行直後から話題となり、すぐに重版も決まった。本号では、この『中動態の世界』について特集する。第一部(一・二面)は、五月一〇日に代官山蔦屋書店で開催された、社会学者の大澤真幸氏との初顔合わせのトークイベント「中動態と自由」を、第二部(三面)では、四月二一日に荻窪・Titleで開催された國分功一郎氏による講演の模様をレポートする。 (編集部)

■中動態の世界を可視化する

――トークイベントでは、私たちが思考を語る上で欠かせない言葉、あるいは言葉によって規定されている私たちはどういう世界を生きているのか。言葉を規定する「文法」に関心を持ち続け、「自由」を強く志向する二人が、「中動態と自由」について語り合った。

國分 功一郎氏
國分
 僕が中動態を知ったのは大学生の頃です。聞いた瞬間に衝撃が走るような感じがあったことを覚えています。その感じが何だったのか、ひと言で言うのは難しいのですが、能動と受動で人間の行為を分類してしまう思考に対する疑問、その分類に付随する形で存在している意志や自発性、責任といった概念に対する疑問、自分の中にボンヤリと存在していたそれらの疑問が心の中ではっきり浮かび上がってきたような感覚だったのだろうと思います。

そうした疑問は現代哲学の中ではむしろありふれたものですね。また、本に書きましたけれども、それらの疑問を中動態に結びつける学者も国内外を問わず結構いました。でも、彼らの書き物を読んでも全く納得できませんでした。それらはいずれも中動態について「能動態でも受動態でもない」ということ以上のことを何も言っていなかったからです。

冒頭に書きましたが、この本は今までいろいろな方が考えてこられたことの総合に過ぎません。これは謙遜ではなくて、僕は本当にそういう気持ちで取り組んだんです。「能動態でも受動態でもない」という説明では不十分だということも言語学者バンヴェニストを読めば分かることです。しかし、バンヴェニストの議論をきちんと押さえた上で、先ほど述べた意志や責任の問題にまで言及している本があるかというと、全くない。だから、各トピックについてのこれまでの研究の最良の部分を総合したというわけです。

以上が『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)という本のもくろみであるわけですが、書くきっかけというのは別にありました。『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社/増補新版:太田出版)を出した後、依存症の自助グループの方と仲良くなったんですが、そこで、意志や責任の概念になやまされている人たちに出会ったんです。「自分の意志を持たねばならない」「責任を引き受けねばならない」と強く思い込んでいればいるほど、自分の抱えている問題が悪化していく、そういう事態についてのお話を伺い、自分は何としてでも中動態に取り組まねばならないと思ったんですね。

そういう事情もあって『中動態の世界』は医療の領域と大きく関わっています。感想も身体に関わる分野の方から多くいただきました。でもそれだけじゃなくて、たとえば建築とか、書いた自分としても驚くような分野からも「これは自分がしていることと関係がある」という感想をいただきます。

この本は基礎論のようなものとして書いたので、様々な分野への応用はむしろ禁欲的に控えたところがあります。でも、多くの分野の方に役立つとしたらとてもうれしいです。 
大澤
 僕らは能動態と受動態があると学校文法では習うわけですが、でもそのどちらでもない「中動態(MiddleVoice)」というのがあって、確かに日本だけでなく西洋の哲学者や言語学者がMiddle Voiceについて言及しています。そこに何か面白味のある文法があるというだけではなくて、世界の見方にかかわる何か重要なことがありそうだということについては、ジャック・デリダなどはからかい半分で、西洋の哲学は実は中動態の抑圧の上に成り立っているんだというようなことを言っています。 
國分
 あれは勘で言っている感じですよね。
大澤
 でもその勘は結果的には結構当たっているという話にもなるのですが、とにかく中動態というものに鍵があるという話は、現代思想的な文献には結構出てきます。その割にはまとまった研究は少ない。バンヴェニストによる言語学的な研究はありますが、それを哲学的に一般化した研究は少ない。この欠落を僕自身が強く思うようになったのは、九〇年代の終わりくらいから二〇〇〇年代初頭にかけて「自由論」というものを考えるようになったときで、この本も最後に自由という問題に落ちることになっていますが、そのときに改めて自分の思考のプロセスの中に中動態の問題が浮上してきた。

これは誰かがやらなければいけないと思っていて、でも自分がやることではないし、いずれ誰かがやるんだろうなと。しかもその時に僕は、中動態は印欧語の文法に由来する用語ですが、日本人がやることに意味があると思ったのです。時折そういうことを思う主題があるのですが、実際に出てきた場合に失望する場合が多い、でも國分さんの本は期待以上というかここまでやってくれれば本当に意味があったという仕事になっていて非常に面白かったです。

すごく大雑把に言うと哲学がある時期から近代に結実した西洋の世界観をどうやって相対化するかみたいなことが大きなテーマになっていて、彼らの念頭にあるのはギリシャ以来の哲学から近代哲学に至る流れを乗り越えるというようなことで、日本で昔よく言われていたのは「主客図式を乗り越えろ」みたいなことだったのですが、その課題をむしろ能動態と受動態という形で記述したり二項対立ではない見方に遡行するという形でやっているような気がする。その結果見出されるのが中動態。主客図式の乗り越えみたいな問題よりもっとデリケートな問題がここで扱われていて、思想というものが一回転している感じがすごく面白かったというか、興奮して読ませていただきました。
トークイベント「中動態と自由」会場風景、大澤真幸氏(左)と國分功一郎氏(代官山蔦屋書店)

■ハンナ・アレント『革命について』

大澤
 この本でいろいろな方について言及されていて、一番重要な役割はバンヴェニストですが、彼を別にすると、スピノザともう一人の重要な主役としてハンナ・アレントが出てきます。アレントによる意志の定義が素晴らしくて、意志の概念は実はギリシャにはなくて、アリストテレスには意志の概念はないんだと。よく似たような概念はあるけれど、それは我々の言っている自由意志の概念とは違うんだということをアレントは言っていて、なるほどとすごく納得しました。國分さんもそれを利用しながら進めていくのですが、しかし結果的にアレントと國分さんは真逆の立場になる。アレントはある意味で意志の概念を救い出そうとしていますが、國分さんはむしろ意志は特殊な世界観の中でしか現れないものであって、それを立てた途端見えなくなるものがあるんだという立場で考えていく。國分さん風の考え方のラインのほうが普通だと思いますが、アレントは逆方向で行く。國分さんから見たときにアレントをどういうふうに評価するのか。ハンナ・アレントの立場から考えてみると、アレントは新しいものを人間が創り出すことにものすごく高い価値を与える。

偶然にもシンクロしていて面白いなと思ったのですが、僕はひと月前から朝日新聞の書評コーナーで「古典百名山」というエッセイを書いていて、担当の第一回はカール・マルクスの『資本論』、第二回はハンナ・アレントの『革命について』を書こうとしていたんです。そうしたら、この本の一番最後も『革命について』で終わる。能動・受動・中動の問題と少し関係があって、簡単に言うと、アレントはフランス革命よりもアメリカ独立革命の方が偉いと書いてあるわけです。なんで偉いかというと、彼女がすごく重視している問題があって、アメリカはヨーロッパと違う仕方でポリティカル・ボディを立ち上げていると。どういうことかというと、アレントは新しい政治のシステムを創ることは素晴らしいことだと思っていて、それがなぜ正統性、権威を持つかということに関心を持っている。例えばフランス革命だと王権もカトリックも潰して正統性の調達に苦しんで、「理性の祭典」をやったりする。最後には、エキセントリックな展開になっていってテロの嵐に至る。 それに対してアメリカ独立革命はどうしたのか。アメリカはヨーロッパから離れているのでヨーロッパ風の方法で自分たちを正当化できない。ここで能動態の問題が出てくる。つまり彼女はゼロから建国したことが、えも言われぬオーソリティーを宿すんだと。簡単に言えば神が世界を創造したのと同じようなことを人間が行う、永続性のあるものを人間が作ることがものすごく素晴らしいんだと。そこにオーソリティーが宿っていくのだと彼女は言う。彼女からすると本当は中動態の発見というのは困ることです。でも彼女は勘がいいからアリストテレスの中に意志の概念は無いんだと発見してしまう。でも彼女はむしろ意志の概念を救い出したいんです。ゼロからの創造を支える意志を救い出そうとする、それがある種人間を価値付けることだと。アメリカの憲法は能動態的に作られていて、そこに独特の輝きがある。アメリカで最高裁が重要な意味を持つのは、憲法を能動態で作った記憶を裁判所が保存し続けているという方法で人間は政治が出来るんだと。

でも國分さんは中動態的に救い出したい。中動態を使ってみればそれとは違う見方というものが出来るんじゃないかということが僕の聞いてみたいことです。

■私的領域/公的領域 

國分
 ありがとうございます。この本にとってアレントは非常に重要な存在です。僕が彼女に同意しているということではなくて、むしろ各論点について彼女と正反対の答えを出している。にもかかわらず、どこか彼女と心通じているという気持ちがあった。それはやはり人間を信じているというところだったと思います。人間を信じ、人間に期待している。ただ僕にはその期待の仕方が共有できなかったんですね。

アレントはまさしく能動性の哲学者であったと思います。ですからアメリカ憲法についても、これが能動的に創設されたものであるという事実に注目する。能動性こそが権威を創り出すというわけですね。

そういう能動性の哲学になっているところは僕はアレントに全く共感できない。僕が共感するのは、たとえば、彼女が公的領域と私的領域を区別した時に、私的領域について話をするときなんです。この公的と私的の区別は、政治と生命、自由と必然など様々にパラフレーズされますが、おもしろいのはこれを明るい場所と暗い場所の対立として説明する時です。人間の心には必ず暗い場所がある。だから人が自分の行為などに対してもつ動機など、説明することはできない。光を当てて明るくして、それを公的領域に持ってこようとするととんでもないことになる。というのも、動機を説明しようとすると人は誰しもが偽善者になるからだ、と。アレントのこういう実存についての説明には非常に心引かれます。

僕が大学生のときにハンナ・アレントは政治学者の間でものすごく流行っていたんですが、そのとき忘れられていたのはアレントのこのような実存主義的側面ですね。だから全く面白くなかった。
大澤
 アレントは影の部分が面白くて、彼女がメインで言おうとしていることではなくてメインから排除した部分といったような。ジョルジョ・アガンベンがアレントを読むときにもそうです。アレントが公的/私的領域を分けるけれど、そのことがむしろ公的領域が私的領域に否定的に依存していることを意味している、とアガンベンは読む。 憲法を例に関係づけると、ヴァルター・ベンヤミンの暴力の類型論がおもしろい。憲法制定的な権力と、法を維持するための暴力というのがある。普通はその二種類だけで、能動/受動モデルで考えているわけです。ところがもう一つ何だかよくわからない神的な暴力というのがある。ベンヤミンは二つの他にもう一つの暴力があることにすごくこだわったのですが、中動態でその三つ目の暴力と対応していると解釈できれば面白い。ベンヤミンの例でいくと憲法制定暴力と神的暴力の区別が難しい。それは能動/受動の言葉しかなかったので理解出来なかったけれど、中動態で考えてみたらどうだろうかと。 
國分
 僕はベンヤミンは詳しくないのできちんとお答えできないんですが、創設する力は能動だとして、維持する方は中動的ということになるのでしょうか?
大澤
 維持するのはどちらかというと受動態で、暴力によって我々が何か強いられている的な気分だと思います。何かを構成するための能動的な暴力とそれによって自分たちが抑圧されて方向付けられているという強いられている感、受動的暴力と二種類あるというのは誰もが思いつくことですが、ベンヤミンが面白いのはもう一つ違うものがあるということなんです。
■「日本国憲法」と中動態の平和的利用

大澤 真幸氏
大澤
 実は、意図があって聞いているのですが……我々の憲法である「日本国憲法」が念頭にあるんです。アレントはアメリカの憲法がなぜ権威を持ったのか考えている。憲法の正統性に関して普通は神様に与えられたとか、自然法に適っているとかそういう法や政治の外部にある絶対的なるものに参照する方法をとっている。つまり受動態なんです。それに対してアメリカはヨーロッパのように伝統に頼ることができなかったから、創設したということが権威の源になった、ゼロから能動的に創ったということがえも言われぬオーラを発揮したんだという説明なんです。

そこで僕は我が国の憲法のことを思った。この国の憲法がうまくいかない理由はアレントを読むとよくわかる。我々日本人は戦後体制を創った時に創設したという感覚は持っていない。創設するということが持っている輝きがゼロなんです。アメリカが能動的に作った憲法に対して、日本人は押し付け憲法と言うように受動態なんです。受動態だから自分たちは何となく気に入らないということになっている。しかし、第三の態として中動態的に我々の憲法というものを我がものにする手があるのではないかと僕は内心思っているんです。そういうふうに考えるとこの概念、言葉は一つの哲学としても文法の理論としても面白いけど、日本人にとってすごくポリティカルな意味を持ってくるという気がしている。
國分
 非常に興味深いご指摘です。伺っていて思ったのは、アメリカの憲法がなぜそこまで権威を持つことができるのかというと、自分達で自分達に憲法を与えたから、つまり、能動態というより中動態で記述されるべき過程がそこにあったからではないでしょうか。日本国憲法の場合は、仮にそれが押しつけられたものだとすると、押しつける側と押しつけられる側の対立、つまりいわゆる能動態と受動態の対立にあることになる。すると、能動と受動の対立の中にあるものを、なんとかして中動態のもとで引き受けられるようになったとき、憲法を権威あるものとして受け止められるようになるのかなと、いまお話をお伺いしながらそのようなことを考えていました。
大澤
 中動態から受動態が発生するわけだし、中動態はポテンシャルとして能動態/受動態の両面を持っている。アレントは中動態的な部分の能動性の部分を強調目に言うことで、全体として見ればむしろ中動態的に出来ている。逆に言うと能動的なものも実は中動態的なものに引っ張ってこられる。我々はいま憲法に対して受動的な気分になっているから、受動的なものを中動態に引き寄せることで我がものにできるかなと。もう一つ思うのは中動態というのは、かなり普遍性があって、基本的には印欧語、ヨーロッパの言葉で考えているわけですけれども、この中でも細江逸記さんという英語学者、戦前の偉大な忘れられた碩学の論考を利用して日本語の話も入っているのですが、面白いのは日本語でも並行的に論じられること。僕が中動態を由々しき問題として考えなければならないと思ったのは、むしろ日本語論を通じてでした。カナダ在住の言語学者・金谷武洋さんも言っていることですが、考えようによっては日本語はヨーロッパの言語よりもっとはっきりと中動態を残しているのに、それを「自動詞」などと呼んでしまうものだからわからなくなっている。日本語の自動詞はほぼ中動態なんですよね。ある意味では日本語の中に中動態感みたいなものがヨーロッパの人たちよりももっとたくさん残っていて、中動態の平和的利用とか積極的利用みたいなことが我々は得意なはずだという気分があるわけです。それで一つの応用問題として憲法問題に使えるんじゃないかと。
國分
 中動態の「平和的利用」、「積極的利用」は実は日本は得意じゃないかというのは本当にそうだと思うのです。日本には中動態の「軍国主義的利用」とでも呼べるものもありました。いわゆる「無責任の体系」は中動態で説明することができます。でも、これを積極的に使うこともできるはずだし、憲法についても先ほど述べたように、夏目漱石的な内発/外発の図式とは違うところでこれを捉えられるのではないか。
■かけ離れた極限で再び出会う

大澤
 中動態の言語歴史、動詞の憶測的起源の仮説は直観的に非常に説得力がありますね。もともと名詞文があって、非人称の動詞が出てきて中動態などの動詞が出てきてそこから派生系として能動/受動が出て来る。動詞としては中動態と能動態が出てきて、中動態の中から受動態が派生したときに、中動態の方が痩せ細ってしまって能動/受動に流れていった。その場合、過去に向かって探し求めるということがありますが、同時にメビウスの帯のように一周してきて、逆の極限に行くと気付いたらもとに戻っているようなところがあって、中動態的感覚からこれ以上遠いところはないところまで行ったときに、中動態的なものに出会うということがあると思うのです。

本書でアレントのカント批判に少し触れていますが、カントは実践理性において人間の意志の自律について徹底的に考える。そしてそれは定言命法、厳格な法則に従っていることなんだとなるのですが、アレントからすると意志の自由を救い出そうとしているのに、カントの定言命法では意志がないということになっているということで否定するわけです。能動性の極限に徹底した受動性があるといった構造になっている。つまり、カントでは能動の方を追求すると受動に到達するという形式で、見ようによっては中動態に到達しているわけです。印欧語の一番古い、プレ・ソクラテスよりもさらに前みたいなところに中動態のオアシスがあるんだけれど、同時にこれほど遠く離れたところはないというところに辿り着いたら(カント)また中動態に出会っているようなことがある。
國分
 動詞の「憶測的起源」についての僕の議論についてそのように言っていただけるのはとてもうれしいです。『中動態の世界』の日本語についての議論のところは、大澤さんの自由論を念頭に置いていました。大澤さんは自由が他者性と関わっているということを強調されている。僕は細江逸記の論文を参考にしながら、中動態のもつ「自然の勢い」という力に注目しましたが、これは他者と言ってもほとんど一緒です。そのような他者というか力にいわば使役されるところに自由の領域がある。

こういう自由の概念は先ほどから何度も言及しているアレントにはないものです。でも、アレントというのはなぜだかとても気になる存在ですよね。僕はドゥルージアンですけれども、いま猛烈にアレントに関心を持っていて次はアレントについて本を書こうと思っているんです。大澤さんも最近アレントについて短い記事をお書きになったとのことでしたが、アレントとの大澤さんの付き合いについて少しお話を伺えればうれしいです。
大澤
 アレントにはどう付き合ったらいいかわからないところがあるんです。例えばアレントの師のハイデッガーは難しいけれど、西洋の思考の体系、形而上学からどうやって抜け出すかみたいなことにすごくこだわっていて、そのプロセスに乗っかりたい、身を委ねたい気持ちになるから読みやすい。アレントはあまりにも西洋を基本は全面的に肯定してしまっているので、思考の全体に付き合うことは難しい。ところが彼女はすごくセンスが良くて、例えば「あらわれ」とか「あらわれの空間」というアレントの言い方、これは一人ひとりをかけがえのないものとして尊重しましょうということなんだけど、「あらわれの空間」なんて言われるとグッとくる。
國分
 詩的なところがありますよね。
大澤
 彼女のそういう言い方に惹かれてしまう感じがあります。ただ、アリストテレスやギリシャ哲学に彼女が見つけ出したかった「無からの創造」がないということに気付いたとき、急にクリスチャンになってキリスト教やアウグスティヌスの研究をしたりする。狙いを定めて外して迷走する。そのアレントが揺れていく感じというか、迷走感が面白い感じがする。
國分
 彼女自身が迷走していてそれがある意味では親しみやすさを感じさせるのかもしれない。
大澤
 アレントの創設という考え方は全体としてみれば中動態の構造なんです。でも彼女としては「無からの創造」という能動性を強調する感がある。

憲法の話に戻ると日本人は自分の憲法について押し付け、使役感が強い。細かい論点になりますが、柄谷行人さんが『憲法の無意識』(岩波書店)を書かれたときに対談したのですが、その本のあとがきのエッセイが面白くて、押しつけ問題のことなんです。押し付けだから納得できないというのが僕らの憲法に対する感覚ですが、それに対して柄谷さんは押し付けこそ真実だと。具体的には内村鑑三のことが書いてあって、内村鑑三は最初はキリスト教が受け入れられなくて結局押し付けられる。ところがその後状況が変わったときに押し付けた方はみんなキリスト教を捨てていくのに、一番押しつけられ感が強かった内村鑑三だけが最後までキリスト教を貫いた。柄谷さんは、押しつけられたものだから我がものではないというのは本当だろうかということを問題にしていて、結論が書いてあるわけではないのだけれど、そのエッセイについては昔、加藤典洋さんが「柄谷の奇説」と引用している。普通の人は憲法をどうやって主体化するか考えているのに、柄谷さんは主体化できない方が偉いんだみたいなことを書いているわけです。

受動的なのか能動的なのかよくわからないという問題があって、原稿を書くときにも締切があって、一人で書いていればまあいいやとなる。でも編集者が原稿を待ってると思ったら頑張るわけです。
國分
 それは間違いないですね(笑)。
大澤
 むしろ書かされてる感と書こうとしている感が見事にブレンドされたときに最高のものになる。こういう感じも理論的にはなかなか説明できない。でも現象としてはそういうことはたくさん起きている。そこをうまく説明できると、政治でも人間の思考や行為の問題でも、新しいものが見えてくる感じがしているのでそこにこだわっているわけです。
■他者と所有 二つの中心のある楕円形

■中動態楕円形のイメージ「中心は一つではない」

國分
 この本で論じられなかったものの一つがロラン・バルトの「書くは自動詞か」という文章です。こればバルトの中動態論なんですね。「書く」という動詞を中動態として捉え直している。「書く」を中動態として捉えた時、「書かされている」と「書いている」は区別できなくなります。この論点をさらに展開すると、行為の所有という問題に突き当たります。この行為は誰のものかという問題ですね。

僕は所有の問題にずっと関心があって、『スピノザの方法』(みすず書房)でも『ドゥルーズの哲学原理』(岩波書店)でも、思想の所有権とでも言うような問題を扱っています。この思想は誰々のものであるということが言えなくなるような次元を扱いたいという気持ちが僕のなかに強くあるんです。言い換えれば、徹底的に私有財産制度に反対しているというか(笑)。
大澤
 所有は能動性の極限みたいなものですからね。所有というのは結構抽象的な概念で、社会学者の吉田民人さんという宮台真司さんの先生がいたのですが、彼が若い頃に書いた『所有論』では、所有はコントローラビリティ、制御可能性という概念に集約されるというのが結論でした。つまり、所有という概念は能動性そのもの、純粋な能動性なんです。

中動態を図形の円で考えると、円の中心があって作用因があったとして、打つとか投げるとか、外側に向かっていくのが能動性。それに対して作用が外に出ないで内側に閉じる感じになるのが中動態のようなイメージで、自分なりに解釈した中動態の特徴は、強いて言えば楕円形なんだと思うのです。中心が二つある、本当は。例えば中動態的感覚の一つで「やってもらう」。私が中心なのか、あなたが中心なのか定まらないというか、実は中心が二つある。「書いている」も、私が書いてるのか/書かされているのかよくわからないような感じになって、中心が複数になっている。そのもう一つの中心を外にまで出してしまうと能動/受動になって、こちらの方に中心が残っているなら能動、向こうに中心を移譲してしまったら受動となるのだけど、中動は中心が二つあって楕円形になっているんだと思う。中心が二つあって相互に反射しあうので、主語の領域の中に過程が閉じられてしまうのが中動態ではないかというのが僕のイメージなんです。
國分
 楕円は二つの中心があるとして、僕の前にある中心点は他者なんでしょうか?
大澤
 他者じゃないですね、普通の意味の他者ではない。そこが難しいところで他者以前の他者と言いましょうか……。はっきりと中心が二つに分かれてると思ってしまうとどうしても受動か能動かになってしまうんですけど、二つの中心の目があるだけなんですよね。
國分
 大澤さんの自由論でも、ある種の使役のモーメントが重視されていて、それが他者性に関わると言われているわけですが、この二つ目の中心はその他者性とは異なるのでしょうか。
大澤
 関係はあるはずなんですが、使役とまで言ってしまうと違ってしまう。私が書いているのか/書かされているのかわからないといったときに、普通の意味では他者性ではないんだけれども、どこか他者性がありますね。お前があいつを使うのか/あいつがお前を使うのか、先程の所有感覚のように所有しているのか/所有されているのか。完全に共有だとすれば、私のもの/あなたのものという区別はない。しかし微妙なプロセス、その中間があって、それは贈与だと思うんです。他者性がいろんなモードで現れてきて、その中でそれぞれに繋がりがある。楕円の中にもともと孕まれている二つの中心のさまざまなモードから、分有(共有)、贈与、交換といったものが区別できるかもしれない。
國分
 楕円のイメージは様々に応用できそうで、大変興味深いです。僕らはいろいろなものを円で考えてしまうけれども、楕円で考える、つまり中心点を二つにして考えるというのは、僕らの思考のイメージを変更するものかもしれない。
■他人の哲学でなく自ら哲学している本

國分 功一郎氏
大澤
 この本の議論は、もともと行為というのは誰の行為かということから入っていきます。言語について深く考えられて勉強しているし、勉強感もすごくあって、人生に長い希望を持っている人の本ですね(笑)。ここから育っていく芽がいっぱいあってこれで終わりそうな感じがしない。非常に豊穣な土地に蒔かれた種みたいな感じでどんどん育っていきそうな感じを与える本。

先程のロラン・バルトじゃないけど、僕が書くときはこんな感じなんです。<大澤が考えていることを書いているんだろう、でも俺の考えていることはどこにあるのか>。僕の感覚だと俺の考えは外にあるんです。だけど外だから簡単に掴みきれないんですよね。その掴み切ったか切れないところが文章になっていくんだけど、そのための闘いが見える文章があるんです。まさしくこの本がそうですごく面白い。ロラン・バルトが面白いことを書く、何言ってるかわかんないけど、というそういう感じ。この本は何言ってるかわかりますけど同時に努力の跡とかまだ何か掴めそうだというポテンシャリティを感じさせる。
國分
 自分の考えは自分の外にあるというのは、なるほど、非常によく分かります。僕自身が何かを予感している。予感しているものは、たぶん、外側との接触面に現れる。外側からいろいろなデータが入ってきた時、僕の中のものと外から来たものとの接触がアイディアとなる。

それで思い出した言葉があります。ミシェル・フーコーが、「本を書くことによって自分が変わらなかったらそんな本にどんな意味があるんだ」と言っているんですね。僕はこの言葉が大好きなんですけど、自分の中にある考えを単に紙に書き写すのだったら、それでは自分が変化するはずがありませんよね。自分の外側にある自分の考えをなんとかしてつかみとる過程が書くことであり、その過程を通じてこそ、人はものを書きながら変わっていくのだろうと思います。

読むについても同じことが言えるかもしれなくて、自分が予感しているものがあり、読書という外部から刺激を受ける過程があり、何かアイディアが生まれてくる。この本も、読者の皆さんが、自分の外にある自分の考えをつかむきっかけになればうれしいです。
大澤
 熊谷晋一郎さんのお話なども出てきますが、その世界の感受性のある人は凄く刺激を受けると思います。この本に好感を持つのは、(出すのに)すごく勇気の要る本なんです。しかも、期待以上の結果を出しているから文句も言えない。國分さんは西洋哲学のスピノザとかドゥルーズがご専門ですが、殆どの日本の哲学研究者はヨコのものをタテにするだけのような、他人の哲学の研究はやってるけどお前自身は哲学やってないじゃんといったような、つまらない研究になってしまいがちなんです。でも國分さんは自ら哲学してるという感じがすごくあって、そういう仕事を出来る人は同じ時代に日本にたくさんはいないんです。しかも、母語でない言語だから一番難しい、それをやってしかもこれだけの結果を出すのは凄いことだなと思いましたね。

同時に我々は日本語で中動態的なセンスがあるので有利なんです。西洋では中動態感覚を取り戻す為に方法的に現象学的還元みたいなことをしなくちゃいけないと思うんだけど。これだけ野心的に西洋哲学を取り込みながら自分の思索を展開されていて、本当に素敵だなと思いました。
國分
 こんなすばらしいご感想をいただいて本当にうれしいです。今日はどうもありがとうございました。 (おわり)

この記事の中でご紹介した本
中動態の世界 意志と責任の考古学/医学書院
中動態の世界 意志と責任の考古学
著 者:國分 功一郎
出版社:医学書院
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年6月23日 新聞掲載(第3195号)
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