特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title)  『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年6月29日

特集「中動態の世界」 第二部 「失われた「態」を求めて」國分功一郎講演(荻窪・Title) 
『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院)刊行記念

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國分 功一郎氏
――私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想い続けていた――。
四月二一日(金)、荻窪の書店「Title」で、國分功一郎氏による『中動態の世界』刊行記念の公開講演が行われた。
失われた「態」を求めて、旅を始めた哲学者・國分刑事(デカ)による捜査仕立てで語られた「中動態の世界」を取材した。 
(編集部)


■どんな領域にも入り込み、 その領域を活性化させるのが哲学


本書は雑誌『精神看護』に二〇一四年一月号から一一月号まで掲載された連載を元に、医学書院のシリーズ「ケアをひらく」の一冊として刊行された。中動態は文法上の用語だが、國分氏は同書が哲学の本なのか言語学の本なのかとよく聞かれるという。

「むしろ逆に聞きたいのは「その際に「哲学」とか「言語学」と呼んでいるものは何なのか? 何が想定されているのか?」ということです。僕はこの本を哲学の本として書きましたが、哲学の特徴の一つは領域がないということ。哲学はどんな領域にも入り込んでいってその領域を活性化させる。この本の場合、言語の領域、しかも文法の領域に入り込んでそのような作業を行っています」。

哲学が言語を扱うこと自体はとてもありふれたことで、國分氏が大学生だった九〇年代には当たり前過ぎる風景だった。

「いつか言語を巡る哲学書を書きたいとは思っていました。けれども自分がこのテーマを扱うならば、言語一般を巡る大雑把な話ではなくて、或る特定の言語の中の特定の文法を巡る非常に具体的な議論をすることになるだろうと思っていました。そもそも昔から文法の本を読むのは好きでしたし」。
■「中動態」を知る 意志というのはどうも胡散臭い


國分氏が中動態という言葉を知ったのは大学生のとき、その時点では何かに引っかかったけれども、何に引っかかったのかはわからなかったという。

「中動態に対する自分の関心の内容が分かってきたのはこの十年くらいですね。ヒントになったのは「意志」や「責任」の概念でした。それらを批判的に捉えられるようになってきた。実は自分の専門であるスピノザが、「人間は確かに意志というものを感じるけれどもそれは行為の原因ではない」「どんなことにも原因があるが意志というのは自由な原因ではない。それは強制された原因である」と言っているんですが、そのことの意味をうまく理解できずにいました。中動態を通じて、だんだんそれも分かってきたんです」。
■中動態は意志の問題と直結する

中動態と意志の問題がどうもつながっているようだと気づき始めたのが五年程前。きっかけは、二〇一一年に『暇と退屈の倫理学』を刊行したことだった。この本をきっかけに薬物・アルコール依存症者の自助グループとの交際が始まる。國分氏はそこから多くを学んだ。

「意志とか自発性といった概念は哲学では批判されています。けれども依存症者の人たちはそれらの概念に実際になやまされている。それを知ったことが本書執筆の動機の一つになりました。例えば、薬物依存症の人は薬をやめたいと思っている。しかし「自分の意志で絶対にやめるぞ」と思っているとやめられない。しかもそのことで自分を責めている。きちんと意志の概念を批判しなければならないし、そのためには中動態に取り組まねばならないと思ったんです」。

意志の概念と中動態はどのように関係しているのか。

「中動態というのはかつて印欧語にあったカテゴリー。今は能動と受動の対立で人間の行為を分類するのが当たり前と思われているけれども、かつてはそれとは違う分類、中動態と能動態の対立を主軸に据えた分類があった。かつてあったこの分類と比べてみると、能動/受動という分け方は、「お前がやったのか? それともお前はやらされたのか?」と、相手の意志を問うものであることが分かる。しかし、どんな行為も様々な要因の帰結としてある。自分の意志で自分の行為が生まれるという考え方そのものが怪しいというか、もうこれは信仰に過ぎない」。

國分氏が研究しているジル・ドゥルーズやスピノザも自発性や能動性、意志といった概念に批判的だった哲学者だという。

「多くの研究者も口先ではそうした概念を批判している。しかし実際に自発性や能動性や意志を前提せずに人間の行為を考えるとはどういうことなのか、それについての納得のいく説明にであったことがありません。多くの人は「じゃあ、自分たちは無意識に操られている存在なのか?」と思うでしょうが、それにどれだけの学者が答えられるのか。『中動態の世界』はこの素朴な疑問に答えた本です」。
【捜査開始】 失踪届けが出された「中動態」

失われた「態」、失踪届けが出された中動態をどこに探しに行けばよいのか。國分氏は三つの捜査方法と中動態の歴史を図示したダイアグラムを使って“捜査”を開始した。

■能動態/中動態の対立から能動態/受動態へ
「僕らは能動と受動の対立を当たり前のものと思っています。実際、たとえば英文法の授業でも、態には能動態(Active Voice)と受動態(PassiveVoice)があり、そしてそれしかないと習います。ところが言語を研究していくと、実はこの対立はそんなに昔からあるものでもないということが分かっていきます。かつては能動態と受動態の対立とは違う対立、能動態と中動態の対立というのがあったからです。何らかの理由で後者から前者への変化が起こった。それはなぜなのか? その変化の歴史の意味について考えたい。

この変化の歴史は意志の概念の勃興と関係しているというのが僕の仮説です。僕らが意志の存在を信じるようになる過程と、中動態が言語の表舞台から後退していく過程とが平行しているからです。僕らが意志の存在を信じているとはどういうことでしょうか? 僕らは自分の行為を意志の実現であると思っています。意志するから行為しているのであると思っているわけです。しかし、一つの行為が実現するためには実に多くの条件を満たすことが必要です。歩くという基本的な行為においても、身体はものすごく複雑な動きをしているのであって、これを意志でコントロールすることなど実はできないし、していない。歩くという行為は身体を取り巻く無数の関係の実現であって、意志の実現ではありません。しかし僕らは意志という精神の能力を感じるのであり、その存在と力を信じている。いわば意志に対する“信仰”があるわけですが、これをどう捉え直したらよいか考えたいのです」。
【捜査方法1】 スピノザ的「効果」の考え方

たとえば太陽を観ると、我々はそれが自分たちから約二〇〇フィート隔たっていると表象する。我々は太陽までの真の距離を知らない間はこのことについて誤っている。しかし我々がその距離を知ったとすれば、誤謬は除去されるが、表象は、言い換えれば太陽の概念――身体が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本性を表示するような――は除去されない。したがって我々は、たとえ太陽までの真の距離を知っても、太陽が依然として我々の近くにあるように表象するであろう(『エチカ』第四部定理一備考)

國分
 ではどのようにこの課題に取り組めばよいか? まず僕が採用した一つ目の方法が「効果」(Effect)に注目するというもので、これはスピノザにヒントを得ています。この有名な一節においてスピノザは「我々は太陽までの真の距離を知らない間はこのことについて誤っている」と言います。普通、僕らはここから、正しい知識を入れればこの誤りは取り除かれると考える。でもスピノザは違うように考えました。確かに誤謬は除去される。けれども表象は除去されない。というのも、太陽をすぐそばにあるものとしてイメージしてしまうのは、太陽までの距離についての知識を欠いているからではないからです。太陽には強力なエネルギーを発するという性質があり、その性質故に我々はどうしてもそのようなイメージを抱いてしまうのです。つまりすぐそばにある太陽という表象は、一つのメカニズムの効果として存在している。

ならば意志についても同じように考えられないだろうか。それは何らかのメカニズムがもたらした効果ではないかというわけです。
【捜査方法2】 ウィトゲンシュタイン的 「構文の効果」の考え方

「私が自分の手をあげる」とき、私の手があがる。ここに一つの問題が現れる。私が自分の手をあげるという事実から、私の手があがるという事実を差し引いた時、そこに残るのは一体何か?(『哲学探究』六二一節)

國分
 次にヒントになったのがウィトゲンシュタインです。彼は構文のもたらす効果に注目している。この引き算式について、多くの人はおそらく「意図」や「意志」と答えるでしょう。「私が自分の手をあげる」と「私の手があがる」を比べるとそのようなことが分かる。すると、そのような効果をもたらす構文を使っているが故に、僕らは意志の概念を信じているのかもしれない。意志の概念には大きな矛盾があります。けれども、僕らはそれをなぜか信じている。それは僕らが使っている言語のもたらした効果ではないかというのが僕の最初にあった直感だったわけです。

意志の概念に大きな矛盾があるとはどういうことでしょうか? 僕はハンナ・アレントという哲学者による分析を使いながらこれを説明してみました。一言で言うと、意志には、独立していると考えられていると同時に、独立していないと考えられているという矛盾があるのです。どういうことか?

意志は意識と結びついていると考えられています。たとえば、夢遊病者が無意識に歩いている行為について、僕らはこれをその人物の意志による行為であるとは言いません。なぜなら僕らは意志という言葉を、意識をもって自覚している状態に対してしか使わないからです。意識的であるということは、周りで起こっていることとか、自分の過去とか、いろいろなものにつながっているということです。周囲や過去から情報を得ながら影響を受けているのが意識的であるということです。この意味で意志は常に外部に接続されたものとして、すなわち、非独立的・非隔絶的なものとして捉えられていることになります。

ところが意志は同時に独立したものであるとも見なされているのです。意志がそのようなものとして現れるのが、責任を問われる時です。人が責任を問われるのは何かを自発的に自分の意志でやったと見なされる時です。「お前が自分の意志でやったのだ。だからこれはお前の責任だ」と判断されるとき、意志は何事からも独立した、ゼロの出発点として捉えられています。というのも、他に原因があったのならば、その人の責任ではないということになってしまうからです。たとえば、脅迫されて盗みをしたならば、もちろん過失がゼロということにはならないけれども、その人に全責任があるわけではないということになる。なぜなら、その人の意志でやったわけではない、つまり、盗みという行為の出発点は盗みを働いた人物にはないと見なされるからです。

すると、意志というのは大変都合よく使われる概念であることが分かります。一方では独立したものとして、他方では独立していないものとして使われているのです。僕らは「意志」という言葉を使っているけれども、この言葉でいったい何を意味しているのかよく分かっていないのだともいえます。このよく分からないものを感じさせるメカニズムが、僕らの使っている言語の中にあるのではないかというわけです。
■バンヴェニストの登場

國分
 この本の帯に「失われた「態」を求めて」という文言が書いてあるのですが、実はこれはやや誤解を招く表現でして、もちろん中動態も失われたのですが、実際に失われたのは中動態そのものというよりは、中動態と能動態の対立という図式そのものなんですね。

ではその失われた対立というのはどういうものだったのか? エミール・バンヴェニストという言語学者がこれを明らかにしています。中動態(Middle Voice)は主語が動詞によって指示される過程の中にいることを意味する。それに対して能動態の方は、動詞の指示する過程が主語の外で完結する事態を意味している。

たとえば「曲げる」というのはこの対立で言うと、能動に対応します。「曲げる」という過程は主語の外で完結するからです。それに対し、たとえば「反省する」というのは主語の内で起こる過程ですね。「惚れる」とかもそうです。中動態は僕らが知っている能動/受動の対立ではうまく説明できない事態をうまく説明してくれます。「惚れる」というのは能動でも受動でもない。単に誰かを好きになってしまう過程あるいは出来事が主語の中で起こっているだけです。中動態はこういう事態を実にうまく説明してくれる。

能動と受動の対立では、自分が自発的・積極的・主体的にやるのか、それとも単に事態を受け入れているのか、やらされているのか、そういうことが問題になります。つまり「する」と「される」の対立であって、そのどちらかでしかない。しかし「惚れる」は「する」ことでも「される」ことでもないのです。それはいわば「起こる」ことです。僕らの言葉はこれをうまく説明できない。しかし、かつては能動態と中動態の区別があったわけで、これを簡単に説明できたのです。
講演の様子(荻窪・Title)

■尋問する言語、意志の出現

國分
 能動と受動の対立を先ほどのスピノザ・ウィトゲンシュタイン的発想から見てみると、これが「意志」を強調する対立であることが分かります。というのも、この対立は常に人の行為について、「お前はこれを自分でやったのか? それともやらされたのか?」と尋問してくるからです。僕はこれを「尋問する言語」と呼んでいます。中動態が失われたというのは何を意味するかというと、意志を強く問う言語、尋問する言語が登場したということだと思います。ではなぜ意志にフォーカスする言語が出てきたのか? 意志の概念を使えば、行為を人に帰属させることができます。つまり「これはお前がやったことである。なぜならお前はこれを自分の意志でやったからだ」というわけです。行為の帰属によって何が可能になるのかというと、責任を問うことが可能になるのです。つまりこの言語は責任を問うことを可能にしている。非常に興味深い事態なんですが、中動態をまだ有していた古代ギリシア語には、意志に相当する単語がありません。古代ギリシアには意志の概念が存在しないのです。アリストテレスの哲学にも意志の概念がありません。意志というのは決して普遍的な概念ではないのです。
【捜査方法3】 アレント的「意志」の概念 ―但しその意図に反して

実在する一切のものには、その原因の一つとしての可能態が先行しているはずだという見解は、暗々裏に、未来を真正な時制とすることを否定している(『精神の生活<下>―意志』岩波書店、十九頁)

國分
 いま説明した意志を巡る問題を実に明快に整理し、この概念を定義してみせたのが、ハンナ・アレントの『精神の生活』(岩波書店)です。古代ギリシアに意志の概念はなかったというのも僕はこの本を読んで知りました。アレントは意志の概念を発見したのはキリスト教哲学だったと言っています。特にパウロとアウグスティヌスですね。

先ほど、責任を問うにあたっては、意志の概念が引き合いに出されて行為の帰属を可能にするのだと言いました。この場合、意志というのは行為にとってのゼロの出発点と考えられている。しかし実際にはそんなものはあり得ない。どんな行為も無数の要素の影響を受けています。その影響を切断して、ゼロの出発点を生み出すのが意志という概念なのです。言い換えれば、意志というのは心の中での「無からの創造」(creatio ex nihilo)としてある。言うまでもなくこれはキリスト教哲学において世界の創造を説明する言葉です。実際にはそのようなものは考えられない。「無からの創造」というのは信仰においてのみ意味をもつ。ならば、同じ「無からの創造」としての意志を信じている我々は、意識せぬまま、何事かを信仰しているということができます。僕らの文明は意志と責任を当然視している。もしかしたらそれは一種の信仰かもしれないのです。
■言語から社会の在り方を問う

國分
 僕らは意志と結びついた仕方で責任を考えます。そのようなタイプの責任の概念を用いており、そのようなタイプの責任の概念に基づいた社会に生きている。僕はこの責任の概念が普遍的だとは思わない。その概念が依拠する意志の概念は矛盾に満ちたものであるからです。しかしそれを簡単に否定することはできません。

しばしば学者たちは「意志の概念は虚構に過ぎない」と言います。確かにそれは虚構でしょう。しかし、そのように述べる時、人は自分たちがこの概念にすがらずにはいられなくなる場面のことを忘れている。それは犯罪の場面です。自分が何らかの犯罪に巻き込まれ、当事者となったとき、僕らはそう簡単に意志や責任の概念を批判できるだろうか?

もちろん、僕はいまの責任概念のままでいいとは思わない。しかしそれが容易には乗り越えられないものであることを忘れてはなりません。それはある種の信仰に基づいているとはいえ、この信仰は非常に強力です。興味深いのは、現在の司法のあり方に疑問を唱える、たとえば修復的司法などの思想もキリスト教的な考え方から来ているということです。もしかしたら司法というのは信仰と切り離せないのかもしれません。

こうして話をしてくると、中動態を巡る問題が実に大きな問題に関わっていることが分かります。二〇世紀の哲学は言語の問題を鋭く問いました。僕はその問いかけはまだまだポテンシャルを使い尽くしていないと思っています。現在、哲学の中では二〇世紀の頃ほど言語の問題は注目されていないように思われます。それは我々の存在の仕方やコミュニケーションの仕方の変化とも切り離せないでしょう。しかし、哲学はまだまだ言語に関してやらねばならないことがある。中動態から始まって、意志や責任、そして信仰の問題を問う僕の本はそのための一つの訴えです。もっともっと言語について深く問いかけていきましょうと僕は強く訴えたい。いまはそういう気持ちでいっぱいです。 (おわり)
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年6月23日 新聞掲載(第3195号)
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中動態の世界 意志と責任の考古学/医学書院
中動態の世界 意志と責任の考古学
著 者:國分 功一郎
出版社:医学書院
以下のオンライン書店でご購入できます
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