堀禎一 × 伊藤洋司対談『夏の娘たち』と堀監督作品をめぐって|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年7月6日

堀禎一 × 伊藤洋司対談『夏の娘たち』と堀監督作品をめぐって

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『妄想少女オタク系』『憐Ren』などの作品で知られる堀禎一監督の、六年ぶりの商業映画作品『夏の娘たち~ひめごと~』が、7月1日より、東京・中野のポレポレ東中野でロードショー公開される。それに合わせて、堀監督作品の特集上映も同館で行われる(日程は7面に掲載)。上映を機に、堀作品をデビュー当時から高く評価してきた、本紙映画時評を担当する伊藤洋司氏と対談をしてもらった。 (編集部)

運命を受け入れる女

伊藤 洋司氏
伊藤
 七月一日から堀禎一監督の新作『夏の娘たち~ひめごと~』が公開され、それにあわせて、旧作の特集上映も行われます。これほど本格的なレトロスペクティブは初めてのことです。『週刊読書人』の読者には、堀さんの映画を観たことのない人もいるでしょう。そうした人へのお薦めはありますか。
 一本一本、これが最後だと思って撮ってきましたから、どれがというのはありません。ただ、劇場の館主さんに喜んでいただいたのは、『妄想少女オタク系』です。普段、映画館に来てくれないようなうら若い女性たちが連日来てくれたということで本当に嬉しそうにされていた。ピンク映画は嫌いな方もいますので、これが比較的観やすいかもしれません。
伊藤
 堀さんの映画は大雑把に見て三種類に分かれます。ピンク映画と高校生ものとドキュメンタリーです。新作はこのどれにも属しませんが、趣としてはピンク映画に近い。あえて僕個人のお薦めを言えば、ピンクなら『草叢』、高校生ものなら『憐 Ren』、ドキュメンタリーなら『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』です。ただし、映画を普段あまり観ない人は、『魔法少女を忘れない』が一番入りやすいかもしれません。観る人みんなが泣く映画ですから。
 『憐 Ren』は公開当初、お客さんが入らなくて、毎日神社に神頼みに行こうかと思ったぐらいの作品なので、一般的にお薦めできるかどうか(笑)。『魔法少女を忘れない』は主役の高橋龍輝君がすごくよかったので、自分としてはいい思い出として残っています。監督二作目に撮った『草叢』は、今から十二年前の映画です。ピンク映画の場合、三本撮って結果が出なかったら仕事がなくなるという暗黙の了解があります。一本目の『宙ぶらりん』があまり評判がよくなかったので、いわば背水の陣で臨んだ作品でした。今も気持ちは変わりませんが、特にそういう思いが強い映画だったと思います。『別所製茶工場』はそれまで自分が撮ってきた映画を全否定した上で撮り始めたものです。もちろん今ではそこまでの自己否定感は薄らぎましたが、デビュー作である『宙ぶらりん』より必死に撮っていたのではないかと思います。終わってしばらくすれば、結局、いつもどおりだなと思いましたし、それまでの自作に対する見方も大きく変わりましたけど(笑)。
伊藤
 新作の話をしましょう。『夏の娘たち』では、道祖神が印象的な登場をしますね。
 道祖神のテーマは、はじめからありました。最初の段階で僕の頭にあったのは、古い昔話なんです。ただ、それはオチのない話だった。あるところにお兄さんと妹さんがいて、年頃になったので、お互いの伴侶を探す旅に出る。長い時が経ち、それぞれが「綺麗な人がいる」と目を奪われて近寄って行くと、その兄妹だった。二人はこの運命を受け入れて夫婦になる、外国から入ってきた物語なのか、日本古来のものかわかりませんが、その話に惹かれたのがきっかけです。あまりにもオチがない話だったので、どうしてこんな話が生まれ、語り継がれてきたんだろうと、ずっと興味を持ち続けてきました。映画を撮り終わって思うのは、この昔話は、本当は結ばれなかった人たちの話から生まれたんじゃないかということです。それがなぜ結ばれる話に転化したのか、理論的にはうまく説明できません。しかし多分そうなんじゃないかと、僕には思えたんですね。決して貴種流離譚的に結ばれる話ではない。どこにでもある失恋話、遂げられなかった思いがある。それが形になったものが、道祖神なんじゃないかと思ったわけです。平たく言ってしまえば恋愛の不思議とか人の出会いの不思議さなどといったようなありふれた話なんですけど(笑)。
伊藤
 その道祖神が示唆するように、『夏の娘たち』では運命が重要な問題になっています。小津安二郎の映画は、いかにして運命を受け入れるかという物語を繰り返し語りました。堀さんの新作も、小津の映画を直接参照しながら、運命を受け入れる女の物語を語っています。『秋刀魚の味』の岩下志麻が報われぬ恋を生きたように、西山真来扮する『夏の娘たち』のヒロイン、直美は報われぬ恋を生きます。直美は別の男と結婚するという選択をするのです。これは運命でしょう。かつてパスカルやキルケゴールは、「選択することを選択する」ということについて語りました。しかし直美の選択は、これとは少し違うものです。むしろスピノザやライプニッツに近いと思います。つまり、スピノザによれば、唯一の実体である神がすべてを定めています。ライプニッツでは、実体はモナドになりますが、神があらかじめモナドの中にすべてを折り込んでいます。いずれにせよ、現実の行為の理由としての自由意志は否定されているわけです。小津安二郎が描く人間も、こうした考え方と親近性を持っているのではないでしょうか。もちろん僕らは神の信仰を生きているのではありません。僕は無神論者です。でもそれでも、超越的なものの決定的な役割は認識しているわけですね。この新作のヒロインは、ある男と結婚するという選択をします。しかしその心理的な理由は描かれていません。彼女の選択は、運命によってあらかじめ定められていたのです。
 自分自身が、周りから、という意味ではありませんが、追い詰められないと何もしない怠惰な性格なので、それが物語や登場人物のキャラクターに影響しているのかも知れませんし、そのような受け身的なものの作り方をしているということを「運命を受け入れている」というように、伊藤さんが優しく見て下さっているのかも知れませんが(笑)。ただ、そこは、今まで何本か映画を作りながら考えが変わってきているんですよね。基本的に僕の場合、実際に台本を作ったり、映画を撮りながら、ようやくいろんなことを考えることができるわけです。映画自体も、準備、撮影、仕上げの過程で、さまざまな偶然の状況が重なり合いながら、当初は考えもつかなかった姿に変わっていく。とてもではないが初めからすべてコントロールできるものではない。考えてみると、それが映画というメディアの特質だと思うんですね。たとえばドキュメンタリーを撮っていれば、ある風景に出会わなければ、その風景は撮れない。そこで何かが偶然起こるから、それを撮ることができる。そのことすべてが超越的な存在によって統御されているのだとすれば、僕が現場で感じている感覚にすごく近いと思います。いわば映画自体が超越的存在であるというか、それは大げさなのかも知れませんが、少なくとも映画は、そうやってできているということです。もちろん人間の中にある心理というものも重要だと思います。しかし、それで映画が動かされているのではないように、人も心理のみで動いているのではない。超越的存在、それをもし運命と言い換えてもいいのであれば、それこそ映画というメディアの特性だと思うし、今までの自分の体験からも、そのことは実感としてよくわかります。劇映画にしたって、役者さんの体調や気分によって、当初撮ろうとしていた画が撮れないことが少なからずあります。その逆ももちろん少なからずあります。そういう意味では、現場で常に超越的なものを感じているところはあります。それは撮影所の中で、天候も含めて、ある程度コントロールできる状況下で撮られている監督さんでも、同じ感覚は持っていると思います。
画の物語を語る

堀 禎一氏<
伊藤
 小津のような撮影所の時代の監督と、すべてがロケ撮影で、しかも極めて少ない撮影日数で撮るような今の低予算の監督では、ダイレクトな撮影と演出の統御の関係は、変わってきていませんか。
 本質的にはそれほど変わっていないと思います。この前、伊藤さんが薦めてくれたイタリア映画『されどわが愛は死なず』(マリオ・カゼリーニ監督)を観た時に、映画の本質ってそう変わっていないんじゃないかと、改めて思ったんです。あのフィックスショットを観ていて、一番近いと思ったのは、たとえばマノエル・ド・オリヴェイラ監督の『フランシスカ』や『アブラハム渓谷』です。百年以上前の映画と、一九八〇年代、九〇年代に撮られた映画と、そう変わっていない。
伊藤
 劇映画を撮る時と、ドキュメンタリーを撮る時も、あまり変わらないですか。
 ええ。ただ、劇映画の場合、何かの機会で作品を見直したりすると、自分が映画を駄目にしていると思う時があるんですね。自分さえ足を引っ張らなければ、この映画はもっとよくなっていたのではないかと感じる。不思議とそれが、ドキュメンタリーの時はないんです。
伊藤
 けれども僕は堀さんを、物語を演出によってきちんと語る監督だと思っています。ただし、ドキュメンタリーの短篇で『海水浴場』や『天竜区旧水窪町 山道商店前』がありますね。こうした物語性のかなり薄い作品を撮る際に、どのような態度で臨んでいるのでしょうか。劇映画を撮る時と美学が変わるのか、あるいは、同じ姿勢で撮っているのでしょうか。
 僕の場合、物語を語ることが最優先順位になります。その時に、画から受けるニュアンスで、ショットからショットへと繋いでいっていると思うんですね。もちろん何が正解とは言えません。人それぞれやり方があります。でも僕は、画面が持っている物語があると思っている。つまり画の物語を語っているという感覚ですね。
伊藤
 ひとつのショットが既に物語を語っているということ。これは重要なことだと思います。クリスチャン・メッツは映画を「ラングなきランガージュ(言語なき言語活動)」だとしました。だから映画には文法などないのですが、それでも映画は物語を語るわけです。これに対して、ジル・ドゥルーズは『シネマ』で、映画は本来ラングでもランガージュでもないとしました。映画の言語活動は、運動イメージの感覚運動図式に基づくもので、歴史的に後から獲得されたものに過ぎない。つまり本来、映画は物語を語るものではないということです。ドゥルーズは、こうした運動イメージの感覚運動図式に、時間イメージの光学的音声的状況を対置させて、後者を現代映画の美学の重要な指標のようにみなしました。時間イメージそれ自体は物語を語りません。しかし、ドゥルーズのこの主張は今の堀さんの指摘と齟齬をきたします。実のところ、この主張は何重にも間違いを含んだ、かなり困ったものだと、僕は考えています。それはともかく、堀さんのような、物語を普通に語ることを重視する物語映画監督にとっては、運動イメージに基づく言語活動は決定的に重要であって、ドゥルーズの主張は甚だ迷惑なものではないでしょうか。
 たとえば撮影中は、当然カメラポジションに拘りますよね。何かを優先させてポジションに拘らないというのも、拘らないというポジションになってしまいますよね。フレームがある以上。ドゥルーズの主張は、カメラ位置には意味がないと言っているようにも受け取れますね。
伊藤
 リュミエール兄弟がカメラを置いてフィックスで撮った時、もうそのショットには意味の作用があって、物語を語っていたわけですよね。映画は誕生した時からすでに言語活動だったのです。
 そうです。リュミエール監督たちがカメラポジションに拘らなかったとは思いません。ストローブ=ユイレ監督たちのフィックスを観ても、それだけで感動する。皆さんが写真を撮る時にだって普通にカメラポジションを気にされてますよね。そこに意味がないとは思わないんですね。
出来事の連鎖

7月1日よりポレポレ東中野でロードショー公開
伊藤
 フレーミングは運動イメージに関わるので、ドゥルーズも軽視しているわけではないのですが、彼の映画論にはもうひとつ困ったことがあります。たとえば『夏の娘たち』では、速水今日子さんが何度か倒れて、最後に和田みささんも倒れます。こうして、「倒れる」という映画的な主題が立ち上がってきます。倒れることが反復するわけですが、そうなるとドゥルーズの『差異と反復』を考えざるを得ません。ところがドゥルーズは反表象の哲学者であり、その一方で、一九八〇年代以降の日本のシネフィルは表象主義者でした。なので、ここで大きな問題が生じます。ドゥルーズの『差異と反復』は圧倒的に優れた哲学書であり、否定しがたい。そうすると、僕らは気楽に表象主義を謳歌して、表象の快楽を生きることができなくなります。でも、たとえばホン・サンスの映画に登場する差異と反復は、徹底して表象的です。『夏の娘たち』では、道祖神のそばの作業小屋でラブシーンがあり、その後、西山真来さんがひとりで夜道を帰るかけがえのないショットがあります。表象として素晴らしいんですね。しかしドゥルーズが称揚するのは、常に表象以前のもの、潜在的なもの、画面に映っていないものです。彼の『シネマ』が提示するのは、反表象の反シネマであり、僕らはこれをそのまま認めるわけにはいきません。でもこうした問題に対処できなかったから、日本のシネフィルは、この二〇年間影響力を失い続けてきたのです。ではどうするか。堀さんも僕も、映画という表象を表象として肯定しますよね。ドゥルーズ哲学の重要性を認めながらも、どうやってそれを成し遂げるべきでしょうか。
 まともに理論書を読んできたこともない人間なので、きちんと答えることはできませんが、ひたすら現場で考えてきたいわゆる作り手のひとりとしてならば、一つだけ言えることがあります。まず映画を撮る時には、僕の場合、内容を優先します。人物の気持ちであったり、何か伝えたいことがあると思えば、それを形にして画に撮ろうとします。一方で、画が行きたい方向あるいは音が行きたい方向というのがあるんです。このふたつがぶつかる時がある。ここで悩むんですね。たとえば、しっとりした内容を伝えたいと思っているとします。しっとりした内容だから、ゆったりとしたリズムにしようとする。でも撮っている画や音は、もっと速く行きたがっている。そういう齟齬が必ず出てくるんです。その時に、どうするか。以前は、映画が先に行こうとしても、しっとりとした内容に合わせて、速度を緩めてしまうことがありました。ところが、そうじゃない方が、内容が伝わることがわかったんですね。映画が行きたい方向、画や音が求めているスピードに合わせる方が、内容も付いてくる。それは最近になってようやくわかったことです。

もう少し具体的に話します。『山道商店前』の撮影中、商店のご主人がたまたま話しかけてきたんですね。その話をずっとフィルムにというかビデオですけど、収めました。水害の話をされていたり、普通に聞いていても、大変だったことが想像できる。そのシーンを編集している時に、ご主人の経験を、なるべく観客の方たちに想像していただけるように、ゆったりと余韻を残して繋げていこうと、最初は思ったんですね。ところが映画のリズムとして、余韻を残さず切って次に繋げていく、もしくはもっと速く繋げていかなければならない時がある。その時に、感情移入してもらいたいと思って作っていた隙間を切ることで、逆にご主人の経験の大変さや、人柄がより伝わるようになった。これは面白い経験でした。

もうひとつ。今話していて、ハワード・ホークス監督の『三つ数えろ』を思い出しました。最初観た時に、まるっきりわからなかったんです。八回観てようやくわかった。でもその間、内容はわからないながらも、ずっと面白かったんですよ。なんで状況もわからないのに、こんなに面白く観られるのか。映画は話がわからなくても面白く観えるものなんだと、そのことに気づかされるきっかけとなりました。これは衝撃だった。映画としてリズムがちゃんと刻まれているから、話がわからなくても面白い。ただ単にリズムを刻んでいるから面白いという意味ではありません。画面のニュアンスも含めて、リズムがあり躍動的であるから、最後まで観ることができる。それゆえ話がわかったような気にもなれるし、面白いと感じられるわけですね。本当は驚くほど何も分かっていないのに(笑)。
伊藤
 物語の内容と言説の関係ですね。今のホークスについての意見はむしろ僕の立場のものであって、堀さんの立場ではないと今まで思っていたので、ちょっと驚きました。映画を観ていて、物語がよくわからないけれど、面白いということが、僕にはよくあります。物語をわかりやすく語ることだけが重要ではない。画面と音というメディウムが決定的なんです。でも、堀さんは物語内容を経済的に語ることを基本に据えて、画面の視覚的効果が過剰になるのを嫌がる人だと思っていました。
 伊藤さんがご指摘下さったように、僕は、本人なりにですが、物語の内容を語ることを基本に据えて、画面の視覚的効果が過剰になるのを極端と言ってもよいくらい嫌がりますけど(笑)。その方向と映画の言葉を最優先にすることとは矛盾しないと思うんです。物語を丁寧に語るとはどういうことか。僕にとっては、事実として何が起こっているのかが、わからなくなってはいけないということです。「どうして」このような事態になったのかまではわからなくてもいい。「なぜ」登場人物の気持ちがこうなったのかとか、そういうことを描くのは、優先順位としては一番高くないということです。もちろん、いわゆる作る側はその理由を自分なりに考え、通していなければとは思います。しかし、それが正解であるわけがない。それよりたとえ拙いながらでもなんらかの形にしなければとは思います。
伊藤
 エドワード・ヤンの『牯嶺街少年殺人事件』は暗闇が深くて出来事の全容がわからず、人間関係も複雑で一回ではきちんと把握しにくいですね。でも面白い。ただどんな映画でも、観客は虚構世界の断片的な表象しか知覚できず、虚構世界で本当に何が起こっているのか知りえないと、僕は思います。では「事実として何が起こっているのか」がわかるとは、どういうことなのか。たとえばカット割りがされる場合、空間的な位置関係まできちんと示されることが、わかるということになりますか。
 位置関係はわかっていた方がいいと僕は思います。ただ、一画面一画面は独立して撮っていますから、無闇に厳密性に拘る必要はないと思います。すごく単純な意味で、どこで何が起こっているか、そこだけはわかっていただけるようにするということです。もちろん例外は常にあるとは思いますが。
伊藤
 「何が」ではなく「なぜ」という理由の問題も重要です。ミシェル・フーコーは『言葉と物』で人間が近代の概念であることを示しました。この近代的な人間は自由意志を持ち自分の心理に基づいて行動すると、しばしばみなされます。つまり、心理が行動の理由とされるわけです。しかし、ライプニッツやスピノザの充足理由律によれば、人間の心理は理由となりません。堀さんの映画は、近代的な人間観よりむしろスピノザやライプニッツの考えに近いと思います。だから、運命の問題が出てきたのも必然なのです。堀さんの映画には、近代のヒューマニズムの価値観を超えた、出来事の連鎖があります。
 僕がこれまで映画を観てきて、自分なりに面白いと思った映画というものがあります。その時に、登場人物の心理とかに心を動かされたことがなかった。それと関係していると思いますね。やっぱり画面に引きつけられてしまう。以前伊藤さんが編集された『中央評論』に『イタリア旅行』(ロベルト・ロッセリーニ監督)に出会ってしまった体験についてすこし書かせてもらったことがありましたよね。「すごい」という言葉しか言えないほど衝撃を受けた。あの映画だって、イングリッド・バーグマンの心理がどうなっているかとか、関係ない。もちろんロッセリーニ監督は考えていらっしゃったと思いますし、通されていたと思いますが。

<つづきは「読書人ウェブ」限定で掲載中>


【追記】追悼 堀禎一氏は2017年7月18日に急逝されました。心よりご冥福をお祈りいたします。

2017年6月30日 新聞掲載(第3196号)
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