とるにたらないちいさないきちがい / アントニオ・タブッキ(河出書房新社)言葉の檻を溶かし音楽に変えてしまうタブッキのしなやかな声|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年7月3日

言葉の檻を溶かし音楽に変えてしまうタブッキのしなやかな声

とるにたらないちいさないきちがい
出版社:河出書房新社
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今回、『とるにたらないちいさないきちがい』の書評を書くにあたって、題名に含まれる「いきちがい(equivoco)」の語釈をいくつかの伊伊辞典で調べてみた。評者にとっていちばん納得がいったのは、『il Sabatini-Coletti』という辞書による次のような定義である。「ある事実またはあるテクストの曖昧な性質のために生じる、間違った解釈および過ち」タブッキは、事実や言葉に本質的に備わっている「曖昧さ」を発掘し、収集し、それらを編みなおす術に長けた作家である。十一の短篇が収められた本書のなかでは、ひとつの「いきちがい」がまた別の「いきちがい」を、ひとつの「曖昧さ」がまた別の「曖昧さ」を招き寄せ、読者の視界を厚い霧で覆っていく。短篇「部屋」に記された「書くこと」をめぐる一節からは、タブッキの創作原理を垣間見ることができる。「部屋」の語り手アメーリアは、書くという行為は偽りであり、横暴であるとさえ感じている。なぜなら、私たちは言葉を使うことによって、事物をむりやり「ガラスの固体」に結晶させてしまうから。「だけどものは拡散している、とアメーリアは思う、だからこそ生きているんだわ、ものは拡散していて、輪郭を持たず、言葉に自分を閉じ込めさせないから」タブッキの文学は、事物を閉じこめている言葉の檻を、言葉によってこじ開けようとする営みとも解釈できる。もっとも、「こじ開ける」などという強い言葉は、この作家の文章について語るには不向きかもしれない。タブッキのしなやかな声はむしろ、言葉の檻を溶かし、音楽に変えてしまう。和田氏の翻訳は今回も、そうしたタブッキの声音を、見事な日本語によって変奏している。原書と訳書を読みくらべてみると、句読点の打ち方まで忠実に再現されているような箇所もあり、原文への敬意と愛情を感じさせる(先に引用した箇所はその一例)。読者の「読みちがい」を誘う心憎い邦題や、淡い色彩を基調とする洗練された装丁もまた、本訳書に一層の魅力を添えている要素である。

ただし、表題作「とるにたらないちいさないきちがい」のなかに気になる間違いを見つけたため、その点は記しておく。この短篇の前半、大学の老事務員とフェデリーコのやりとりのなかに、「un piccolo equivoco senza rimedio」という表現が二回、「un piccolo equivoco senza importanza」という表現が一回出てくる。それぞれの語尾に注目してほしい。「senza rimedio」は「取り返しのつかない」、「senza importanza」は「取るに足らない」という意味である。本訳書は当該箇所において、これらの双方に「とるにたらないちいさないきちがい」という同一の訳を当てている(本書九―一〇頁)。なお、短篇の後半にも「un piccolo equivoco senza rimedio」という表現が登場するが、こちらは「もはやどうしようもないちいさな勘違い」と訳されている(本書一九頁)。もちろん、正しいのは後半の訳であり、「senza rimedio」を「とるにたらない」と訳した前半が間違っている。老事務員が「言い間違い(lapsus)」のせいで口にした「取り返しのつかないちいさないきちがい」という言葉が、後半になって回帰してくるところに、この短篇の妙味がある。おそらく、翻訳作業の過程で生じた「ちいさな見間違い」に起因するケアレスミスであろうが、作品タイトルにも関係のある重要な箇所であることを考えると、この間違いはいかにも惜しい。第二版での修正を期待したい。(和田忠彦訳)

この記事の中でご紹介した本
とるにたらないちいさないきちがい/河出書房新社
とるにたらないちいさないきちがい
著 者:アントニオ・タブッキ
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年6月30日 新聞掲載(第3196号)
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