堀禎一・伊藤洋司対談 「夏の娘たち」と堀監督作品をめぐって(本紙のつづき)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年7月6日

堀禎一・伊藤洋司対談
「夏の娘たち」と堀監督作品をめぐって(本紙のつづき)

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<6月30日号本紙からつづく>
伊藤
 たとえば『夏の娘たち』では、ヒロインが「春雨」という端唄を唄って踊ったことが理由となって、あの結末に至るわけです。歌った後の台詞によって示唆される彼女の心理は、むしろ逆の結末を示しているのに。人間の心理を超越した宿命の存在。これがポイントだと、僕は思います。
 ただ現実問題としても、人は心理的に友だちを選んだりしないでしょ。考え方がまったく異なっていたとしても、親しくなることだってある。恋愛やもちろん性についても同様で、心理はあまり関係ないんじゃないかと思います。皆さんよくおっしゃるじゃないですか、なんでこの人を好きになったんですかと聞かれた時に、しばらく考え込んで「気の迷い?」って(笑)。
伊藤
 けれども、ドゥルーズも心理を全く重視していないから、心理主義を批判したところで、ドゥルーズにまったく対抗できないですよね。ドゥルーズは主体の同一性を否定するので、主体の心理も疑問視されることになります。意識された心理は表象に属するもので、ドゥルーズにとって、表象は生命を持たないものです。『シネマ2 時間イメージ』は、アラン・レネなどを参照しながら、潜在的なイメージを探究する書物です。これは問題があると思いますね。目に見える具体的なアクション、画面という現働的なイメージが重要だというのが、僕らの立場なのです。
 そうじゃないと、『されどわが愛は死なず』のような映画に、なぜ感動できるかがわからない。百年以上前のボロボロのフィルムで、しかも字幕はイタリア語でわからない。しかも主人公の女、あの女、結構悪い女ですよ(笑)。ともあれ、そんな昔の映画に感動できるのは、明らかに画面に感動しているからだとしか言いようがない。
伊藤
 そうやって画面に感動する人たちばかりならいいんです。しかし画面に感動しない人もいます。画面に価値を見出す人と、見出さない人がいるわけです。その時に、僕らはどうすればいいのか。画面に価値があるのはなぜか、きちんと説明しなければならない。ドゥルーズは実在的だが潜在的なものに重要性を認め、表象という現働的なものを、いわば歪み衰えてしまったもののようにみなす。ベルクソンにとっても、生命の躍動こそが重要であって、画面上の運動という錯覚に基づく映画は否定されます。それに対して、画面こそが重要だとどう主張するのか。煽動だけでは、成功しないファシズムに至ります。
 僕は、こう思うんですよ。いわゆる作り手もそうだけれど、映画好きの人って、基本的に人間嫌いなんじゃないか。少なくとも僕は人間嫌いだから映画なんて撮っているんじゃないかと思ってます(笑)。人間嫌いだから画面を観て心を動かされる。映画を通して人間や、昔の映画であればその時代の雰囲気を受け入れていく。ひとりひとりがそれぞれの方法でそういう作業をしてるんじゃないかと思う時があるんです。その時に、映画が何より好きな人がいたとして、その人がもともと人間好きのように振る舞うことに関して、僕は疑問を持っているんです。映画好きの人たちが話しているのを聞いていると、お互い憎しみ合っているようにしか思えない時がたまにある。シネフィルという言葉もあまりに歪んだ使い方をされすぎている。そういう場面に出くわす度に、映画好きって、人間嫌いなんじゃないかと思うんですね。結局、画面を観て素晴らしいと思っているのを、人間そのものが素晴らしい、自分は人間好きなんだと、勘違いしちゃっているだけなんじゃないか。
伊藤
 黒沢清さんに以前話をうかがった時、「人間を撮っているのではない」というようなことを言われました。登場人物は人間とは異なる。こうした視点はとても大事です。僕個人の考えを言えば、ドゥルーズやベルクソンに対抗するためには、映画という表象をフィクションとして称揚するしかないと思います。映画はフィクションです。現実と結びつけてはいけない。だからアンドレ・バザンの批評では駄目なんです。堀さんの作品が決定的に優れているのは、アンチ・バザンの映画だからです。長回し撮影がリアリズムをもたらす時でさえ、それは必ずでたらめなフィクションの一要素として機能しています。『草叢』は偉大なリアリズムの映画ですが、バザン的なリアリズムではまったくありません。これは本当に重要なことです。
 『草叢』は偉大な映画ではないと思いますし、バザンが何をリアリズムと呼んでいるのかもわかりませんが、ここも自分の経験から話します。二本目の『草叢』を撮り終わった時に、リアリズムに先はないと思ったんですね。これでは続けられないと思いました。リアリズムだけに映画を押しとどめてしまうのでは、魅力がなさ過ぎるし、そもそも僕が好きな映画はリアリズムではなかった。だいたい映画を作っている人にいわゆるまともな人がいるとは僕にはどうしても思えない(笑)。
伊藤
 だから堀さんは、ドキュメンタリーでも徹底的に編集していくのです。『天竜区奥領家大沢 冬』には、「栃餅」を作る場面がありますが、その編集が圧倒的に素晴らしい。ドキュメンタリー映画監督には、長回しによるリアリズムを信じている人も多いけれど、堀さんはドキュメンタリーにおける編集の重要性を正確に認識していて、これが強みになっています。ドキュメンタリーもリアリズムもフィクションの一形態であって、そうであれば編集による構築は決定的に重要なんです。ワイズマンの映画を観れば、これは明らかですよね。
 僕から言わせていただければ、そこは単に物理的な問題なんです。離れて撮っていると、手元が見えない時があります。作業しながら話している人物を撮らせていただいている場合、基本的に同録で撮っています。そうすると、他に欲しいカットがあれば、別に撮影して編集で入れ込まなければならない。そういう単純な理由です。
伊藤
 それが構築ですよね。『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』は五〇年代B級をやっていて、アンソニー・マンの斜面や、ドン・シーゲルのアクションの編集を思い浮かべました。これらもリアリズムではありません。
 アンソニー・マンまでは考えてないですよ(笑)。作っている時は、撮るのに必死だから。
伊藤
  アンソニー・マンを狙って撮っているとしか、思えませんでした。
 まさか(笑)。ただ、モノレールのカットでは、アテネ・フランセの特集上映の時にも話しましたが、ドン・シーゲル監督の『真昼の死闘』を意識しました。モノレールに乗っていらした方が、クリント・イーストウッドに一瞬見えてしまった。でも、それだってほんの一瞬ですよ。あとは必死で撮っているだけです。
伊藤
 ドキュメンタリーで天竜区に暮らす人々の魅力を撮る時と、劇映画で俳優を魅力的に撮る時では、何か違いはありますか。
 そんなに違いはありません。もちろん劇映画の場合、立ち位置を決めて、芝居のテストをしながら動きを決めていきますから、ドキュメンタリーと違う部分はあります。いわゆる演出が入っていますからね。その時に、さっきも言ったけれど、演出が邪魔をする時があるんです。映画の足を引っ張ってしまう。僕の場合、俳優さんたちが勝手に動いているように見えて欲しいんですね。自然な芝居というのとはちょっと違うけれど、役者さんが演じている様子をドキュメンタリーのように撮りたい。たとえば天竜区の大沢で製茶していたり、茶摘みをしていたりする人たちというのは、普段からやっていることだから、ひとつひとつの動きが非常に馴染んでいる。無意識に近い状態でやっていますからね。劇映画の芝居の場合、動きがこなれたり馴染んだりするのに、時間が必要となります。当然のことながら、いくらキャリアのある方でも俳優の皆さんはロボットではないし、限定された時間の中でやりますから、演出が残ってしまうことがあるんです。そうなると、俺さえいなければもっといい映画になったのにと思ってしまう。
伊藤
 演出が十分に実現していないと感じさせるのはよくないですが、誤解を恐れずに言えば、演出は残っていい。というより、ドキュメンタリーでさえすべては演出なのです。なぜなら、人は超越的なものを認識できないからです。経験的なものはすべて演出であり、演技です。それはともかく、天竜区の人たちは普段通りに作業していればいいのですが、『夏の娘たち』のヒロイン役の西山真来さんは、大変だったのではないですか。「春雨」を唄って踊ります。喪服や白無垢も着こなさなければならず、どうしたって、原節子や司葉子、岩下志麻と比較されます。泣き方まで小津の映画と一緒ですから。
 彼女は勇気のある人ですから(笑)。僕としては大人の女性ですから、泣いて崩れた顔はあまり見せたくないということもあって、手で顔を覆うということにしてもらいましたが、小津監督が女優さんにつけているお芝居と一緒だなと思ったことは確かです。でも、そんなことは恐ろしくて、表立っては言えませんよ(笑)。僕も図々しくなったんでしょうね。以前はそんなことはできなかった。最近面の皮が厚くなって表向き似てはいても、まるで非なるものと確信できれば、できるようになった(笑)。西山さんの手が綺麗だったんですよ。それをちゃんと見せたいというのはあって、ああいう演技をしてもらった。
伊藤
 橋本愛とか、いい女優を使いこなせる監督が日本にいませんね。
 僕も下手くそですよ。そもそも自分が映画に向いているとか映画の才能があると思ったことも一度もない。さっきの話に繋がることだと思いますが、僕は、俳優さんを普通の人みたいに撮りたいんですね。どんな有名な方であろうとなかろうと、普通の人に撮りたい。ピンク映画をやっている時も、そう思っていました。裸を撮る時も、女優さんがおしげもなく裸体を晒すという感じの撮り方はしない。日常生活で普通にお風呂に入ったり着替えたりする時に、裸になる。セックスする時もある。そのような感じに撮りたいんですね。
伊藤
 では、スターという存在に興味がないのですか。
 これは困った話なんですが、まったくないんです。以前からそうなんですよね。スターという選ばれた方がいるのは理解しているつもりなんですが。
伊藤
 だから『イタリア旅行』のバーグマンに惹かれるんですね。バーグマンなのに、決してスターとして撮られていないから。
 そういうことなんだと思うんですよね。『イタリア旅行』に衝撃を受けたのも、今まで見ていたバーグマンとはまったく違ったからというのも大きかったと思いますし。ヒッチコック監督やキューカー監督の映画のバーグマンの姿も、『イタリア旅行』を観た後にようやく受け入れることができた。順番が逆なんです(笑)。
伊藤
 最後になりますが、今回、堀さんが六年ぶりに商業映画の世界に戻ってきてくれて、僕はとても嬉しく思いました。ただ、撮影条件がよくないですよね。かなりの低予算でしょう。日本には、堀さんや城定秀夫さん、黒川幸則さんなど、突出した才能がありながら正当な評価を受けていない監督が何人かいます。この人たちに、いい条件で映画を撮ってほしい。大作でなくていいから、常識的な予算で彼らに撮らせる人が誰かいないのでしょうか。堀さんは今の日本映画の状況をどう見ていますか。
 なかなか答えづらい質問ですね(笑)。まず後輩のことは気になります。城定秀夫であったり、竹洞哲也であったり、直接の後輩になりますが、彼らが決して恵まれた条件の中で撮れていないことに関して。もちろん彼らの方が、映画は上手です。だから先輩である七里圭さんや黒川さんも含めて彼らがヒット作を連発しても、僕には何の驚きでもありません。それだけの作品を実際、彼らは撮ってきているとも思います。その意味で、伊藤さんの意見に賛成です。また、竹洞や城定の作品はちょうど『夏の娘たち』と同じ時期にテアトル新宿で上映されもします。ただ、僕に関しては、よくここまでやってこられたなという気持ちの方が強いんですよ。興味のないことをやってきたのでもない。だから、業界がこういうふうに変わればいいとか、あまり考えていません。撮りたいものを撮ってきました。『天竜区』のシリーズなんて、遊んでいるようにしか見えないでしょ。それを上映してもらっているわけだから、本当に幸せなことだと思います。アテネ・フランセ文化センターのみならず、神戸映画資料館でも上映していただいたんです。今回も、以前からお世話になっているポレポレ東中野で特集上映までやっていただける。嬉しい限りです。今後も年に何本もというわけにはいきませんが、自分の好きな作品を撮っていければと思っています。
(おわり)


【追記】追悼 堀禎一氏は2017年7月18日に急逝されました。心よりご冥福をお祈りいたします。
以下のオンライン書店でご購入できます
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シネマ2*時間イメージ
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翻訳者:宇野 邦一、石原 陽一郎、江澤 健一郎、大原 理志、岡村 民夫
出版社:法政大学出版局
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