体や自我という虚構をいかに生きるか マルコ・ベロッキオ「甘き人生」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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映画時評
2017年7月11日

体や自我という虚構をいかに生きるか マルコ・ベロッキオ「甘き人生」

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マルコ・ベロッキオの『甘き人生』は二つのダンスを軸に、母親の不在の物語を巧妙に構築する。冒頭で、子供のマッシモは母と一緒に幸せそうに踊る。だが母は謎の死をとげてしまう。時が流れ、マッシモは三〇代になるが、まだ母の死の傷は癒えない。やがて彼はエリーザという女性と一緒に踊り、彼女のもとで幸福を見出す。彼のダンスが子供のようなのは、幼少期の母とのダンスを反復しているからだ。映画の中盤で描かれるクラブでの若者たちのダンスを折り目として、マッシモの二度のダンスが折り重なる。母の失われた愛がエリーザのもとで取り戻されるのだ。

ダンスの主題と対立するのは落下の主題であり、これはエリーザの高飛び込みによって締め括られる。繰り返されるダンスと落下は、観客にとっては裸(表象)の反復だが、マッシモにとっては、エロスとタナトスにそれぞれ関わる着衣(深さ)の反復である。

子供のマッシモは母の突然の死を受け入れられず、虚構の物語のなかに閉じこもった。母は外国で暮らしていると友人たちに嘘をつく一方、ベルフェゴールに自分は守られていると思い込む。ベルフェゴールという魔物をめぐるテレビドラマが流行り、母はそれが大好きで、息子のマッシモも一緒に観ていた。そのためベルフェゴールは、母の代わりに彼を守り命令もする超越的な存在になったのだ。三〇代になっても、マッシモは不安に駆られるとこの魔物の名を唱える。彼がトラウマを克服するのは、エリーザの愛を得て、さらに母の死の真相を知ることによってである。

主人公が本当の意味で大人になるまでの物語と言っていいだろう。しかしそれは、彼が虚構世界の殻を破って現実を生きるようになる過程では決してない。彼が新聞記者として成功するのも、彼の生きる虚構が原動力となっている。例えば、サラエヴォの紛争を取材する際の写真にも、幼き自分と死んだ母の関係が歪んだ形で現前している。そしてまさに、虚構のなかで熟成された母への想いを叫ぶ記事によって、彼は読者を感動させるのだ。

そもそも、世界の認識や主体自体が虚構的であることを忘れてはならない。授業中に、少年のマッシモは教師の神父に、宇宙の誕生以前に何があったか質問する。創造主の神がいて、私たちの生命に意味を与えたと、神父は答える。これは裏を返せば、もし神がいなければ、世界や人生に意味など存在しないということだ。人は世界や人生の無意味に耐えられないから、神という虚構によって、意味という虚構を作り出したのではないか。

マッシモは母の死の真相を知り、自分の愛した母の姿が偽りだったことを知る。しかしこの虚構こそが彼の人間形成において決定的な役割を果たした。そのことに気づく時、彼が思い出すのは幼少期にした母とのかくれんぼの記憶だ。母が死ぬ前から、すでに彼は母の不在に恐怖を覚えていた。そして、愛する者とのこうした距離の認識から、幼き主体が立ち上がり始めたのだ。主体自体が不在によって形成される作り物、虚構なのである。

『甘き人生』が語るのは、現実を生きよということではない。主体や自我といった虚構をいかに生きるかという問いを語ったのだ。生前の母がマッシモに語った最後の言葉が、それをよく示している。「良き夢を」

今月は他に、『ゴールド/金塊の行方』『こどもつかい』『劇場版 屍囚獄』などが面白かった。また未公開だが、グスタボ・フォンタンの『樹』も良かった。

2017年7月7日 新聞掲載(第3197号)
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