石川九楊氏ロングインタビュー 書の極北に立つ 「書だ!石川九楊展」「石川九楊著作集」(ミネルヴァ書房)を機に|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年7月13日

石川九楊氏ロングインタビュー
書の極北に立つ
「書だ!石川九楊展」「石川九楊著作集」(ミネルヴァ書房)を機に

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書家として、評論家として、常に独自の世界を切り開いてきた石川九楊氏が、七月五日より、東京・上野の森美術館で、「書だ!石川九楊展」を開催する。これまでに制作された作品は千点を越える。
一目見るだけで人間の脳裏に焼き付き、忘れることができない作品の数々が一挙公開される。
また『石川九楊著作集』全九巻・別巻三(ミネルヴァ書房)も刊行中で、間もなく完結をむかえる。
石川九楊氏に、展覧会と著作集についてお話をうかがった。(編集部)

書家誕生から現在まで

――七月五日から、初期の作品をはじめ、石川九楊さんの各年代の代表作が一堂に展示される「書だ!石川九楊展」が開催されます。加えて最新作もお披露目されるとうかがっております。実作者、書家としての石川九楊さんのお仕事に、まとまった形で触れられる貴重な機会となります。今回の展覧会の概要を、まずはお聞かせいただけますか。
石川
 今度の展覧会は、基本的に五部構成で、それに加えて、別枠でもうひとつ李賀の作品の展示があり、六部の構成になります。順番に説明しますと、入口を入ってすぐのところには、「感諷五種(五連作)」をはじめとして、李賀の詩を書いた時代の書が並びます。次いで第一室に並ぶのは、実作者として一番初期のものです。自分自身、書を書いているという手ごたえを初めて掴んだ、その頃の作品となります。戦後の詩人たちの言葉や聖書の言葉、あるいは自分の心に浮かんだ断章をコラージュして書いていった。たとえば田村隆一や吉本隆明、谷川雁といった詩人の言葉に同調する学生時代の自分がいたわけですね。それをなんとか書に表現したいと考えた。普通に作られているような書的な情緒に絡め取られてしまったら、言葉が死ぬ、というよりも辱められてしまう。白い紙に黒い墨を使って、筆で筆画の太いところと細い表現をひけらかせば、書的な情緒を作ることができる。しかし、そういうところに収斂してしまっては、現代の言葉を書に乗せることはできない。床の間に、いかにも「書です」と飾られるようなものを書きたかったのではない。今現在の言葉を書いていることをはっきりと感じられる形で書きたかったんですね。では、どのように書いたのか。まず白い紙に書かない。白い紙を一旦薄いねずみ色に染めて、その上に文字を書く。墨も黒ではなく、やや薄めの墨を使う。書きぶりも、筆の柔軟性をひけらかすような書き方ではない。柔軟性を殺す形で、むしろ鉛筆や万年筆のように筆を使い、ストレートなタッチで書いていく。そういう暴力的な表現を見出した時代がありました。その頃の作品が、第一室に並びます。メインとなるのは、「エロイエロイラマサバクタニ又は死篇」(一九八〇年)です〔2面中央に一部分を掲載=編集部注〕。六九センチ×八五メートルの長大作であり、私自身、ゆっくりと全部通して見たことがなかったですから、これは自分でも楽しみにしています。

――全長八〇メートルの作品ですと会場が限られてきますから、本当に貴重な展示となりますね。
石川
 以前一度、二〇メーターの部分を、日替わりで少しずつ巻き取っていって、展示したことがあるんです。でも今回は、一挙に公開しますから、見どころのひとつだと言っていいと思います。

第二室は、「歎異抄」全文を書き込んだ掛け軸(「№18」、一九八八年)が中心となります〔1面右上に掲載〕。「歎異抄」のシリーズは全部で二十作制作しました。最初から「歎異抄」を通しで書くつもりだったんですが、十八作目にやっと九二センチ×五七センチ大の紙に全文が書けた。それが今度並びます。二階に上がると、東京では初めての展示となる「源氏物語五十五帖書巻」(二〇〇八年)の五五点が並べられます〔2面左上に「賢木」を掲載〕。二〇〇八年に京都と福井では展示しましたが、東京では初の一挙公開です。「源氏物語」は五四帖なんですが、題名しか伝わっていない巻「雲隠」も含めて、五五帖としています。そして中二階に少し降りると、中央には「盃千字文」のシリーズ、これは千字文を盃に一字ずつ書いたものです〔8面に掲載〕。岐阜県多治見市にある市之倉さかづき美術館で所蔵しているものを、今回借り出しました。この「盃千字文」の周囲には、最近の書を展示します。一九九九年、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」をはじめとして、吉増剛造さんの詩、九・一一ニューヨーク同時多発テロ事件の時に書いた自作の詩、三・一一原発事故をめぐる作品〔1面左に「2011年3月11日雪―お台場原発爆発事件」(二〇一二年)を掲載〕などです。この部屋では最新作、今現在書いている評論を書にしたものを見ていただく形になります。

――書家・石川九楊誕生の瞬間から最近のお仕事までが俯瞰できますね。
石川
 ええ。還暦の時に一度回顧展をやりましたが、会場が狭くて、断片的な展示に終りました。今度は、一九七〇年代から二〇一七年まで、トータルに全体がご覧になれます。もちろん「歎異抄」を書いていた時期には、「方丈記」「徒然草」から「葉隠」に至る膨大な古典シリーズを書いております。それはほとんど展示できませんが、「歎異抄」を含めて何点かの作品で象徴していますので、ほぼ全体像は見渡すことができます。

――展覧会に合わせて、初の自選集である『石川九楊著作集』全九巻・別巻三の刊行も継続中です。『中国書史』『日本書史』『近代書史』の三部作が、石川さんのお仕事のひとつの大きな到達点だとすれば、今回の十二冊は、評論家・歴史家としての石川さんの、現時点までの著作活動を総括する著作集となっています。これまで実作者と評論家のはざまを行き来しながら、書を書き、批評文を著わしてこられた、そのふたつの顔が見える形で、展覧会と著作集が同時に、目の前に差し出されることになりました。これは意図されてのことですか。
石川
 当初の予定では、七月九日に『著作集』も全巻完結して、まさに「同時」だったんです。最終配本の「未収録論考」の巻の編集にちょっと手間取ってしまって、若干完結が遅れることになりました。それでも、展覧会と著作集は、両方合体する形になっています。
「筆蝕」とは何か


――『著作集』について、これまでのお仕事を振り返りつつ、もう少し詳しくお聞かせください。
石川
 私自身は、あくまでも「書を書く人間」、書家であるという思いでいます。文章で書く時よりも、書を書いている時こそ、ものが言えているという実感があります。時代に応じて自分の思いを書いていく際に、五年から十年ぐらいは、「書きぶり」というアナログな表現である書の方が、単語という、いわば網目で掬いとる一種デジタルな表現である文章よりも早く表現できている実感があります。ただ、書に向かっている時も、いろんな疑問が湧いてきて、「書とは何か」ということを、常に考えつづけてきました。その一連の思考の全体の流れが、今回の『著作集』を読んでいただければわかると思います。

振り返ってみると、大学に入学して、書道部に入り、そこでは飽き足らずに、書のグループを作りました。書道というのは古い世界ですから、学生や卒業したばかりの若い連中が書の会を組織し、雑誌を作って作品を発表するなんて、考えられないことでした。昭和三〇年代半ば以降でも、そういうことはあり得なかった。あの頃は、いわゆる書道界的な常識とも違った何か、なおかつ日本の知識人的な常識とも違う形で、書について考えていました。それは今も変わらないかもしれません。書をやっていると、実際に書いている目から見て、今ある一般の書の表現、またその言説と自分のあいだに、大きな齟齬を感じたのですね。そういうこともあって、書の研究誌を作ったわけです。そこで一番最初に書いたのが「現代において書は可能か」というタイトルの論考です。あの時、どんな思いでその文章を書いたのか。決して趣味や手慰みで書をやるのではない、書を書くことによってこそ自分はものが言える、あるいは、ここしか言える場所がないんだという気持ちでした。
書とは何だろう、書の表現とは何かと考えながら、ひとつ得た結論が「筆ショクの芸術」であるということです。書は触覚的な表現であり、美術として処理しようとしても無理がある。高村光太郎に言わせれば、「筆ショクの生理的心理的統整」。しかし触覚的なものだけではなく、そこには「刻る」という歴史がある。その高村の言葉の延長線上に「筆ショク」、「ショク」という字にしたんですね。「筆ショク」という考え方で、書くことを捉えることができた。書くという営みについて、世界的レベルで解明し得たと、今でも思っています。それは単なる行為ではない。筆記具の尖端と紙とがあたる、そこに生じる出来事、これこそが「書く」ことであり、それが「文」を作っている。その構造がはっきり見えたということです。そうした一連の著作が、第七巻(『筆ショクの構造 書字論』)に収録されています。

また「書く」ことの構造が明らかになった後は、文字そのものが問題になってきます。結論から言えば、「文字」なんていうものはない。人の手によって書かれた「言葉」があるだけのことです。書くところから出発して生まれる、人の言葉だけが存在する。そのことがわかりました。これについては主に第二巻(『日本の文字 文字論』)でお読みいただけると思います。
実作と評論

石川 九楊氏
石川
 次に私が考えざるを得なくなっていったのが、日本語論です。第三巻(『日本語とはどういう言語か』)と第四巻(『二重言語国家・日本』)で扱っている問題で、今までの言語論は間違いであることを解明した。今なお信じられ流布しているのは、西洋から学んだ言語学です。いわば声の言語学です。しかし、東アジア漢字文明圏の言葉は、声の言語学からは捉えられない。もちろん文字のない段階、声だけの言葉の段階はあったでしょうけれども、東アジアの言葉は、一旦漢字を媒介にして、その共通項をもって東アジアに広がっている。そういう形で言葉が存在しているわけです。だから声の言語学では不十分。そして現在では、「日本語はない」という考えに至っています。漢字語とひらがな語、カタカナ語の混合体を、「日本語」と呼んでいるにすぎない。このように見ていけば、いろんな問題が解きやすいんですね。これは、先ほども言ったけれど、書道界的な常識、国語学の常識とも違うし、近代西洋に学んできた日本の学問の共通認識とも違います。でも、そのように考えないと、日本語はわからない。

――「書を書く人間」、書家であることが、まず第一にあると言われました。「書作と評論」という文章の中で、実制作と評論、このふたつのあいだを行き来する時に苦労すると書かれています(『著作集Ⅰ』四九四―四九五頁)。また次のようにも綴られています。「私にとっては書作は評論の源泉であり、評論は確実に書作に反射する」(同)。
石川
 少なくも私の作品は、評論を書いていなかったら、書くことがなかった、できなかったと思います。「歎異抄」の世界にも入っていかなかったでしょう。また現在のように、自分の評論を書にして、作品の形で提示するのも不可能だった。鉛筆で評論を書きついでいく中で、筆で書いていることとの共通性と違いを考えながら、書を書く。他の書道家があまり知らない評論の世界の言葉を書の中に埋め込んで、あるいはそこから啓示を受けながら書作に向かっていったということだと思います。

――『筆ショクの構造』の中に次の一文があります。「「なにものかに書かされた」という言い回しを使うことがあるが、これは〈筆ショク〉が考えていることを指している」(文庫版八五頁)。石川九楊さんご自身が一枚の白い紙を前にし、まず第一画を書くために筆を下ろし、送筆し終筆を迎え、次の画に筆を運ぶ。そして最後の一画を書き終える。その過程において、やはりそうした意識下にあり、いわば「トランス状態」に陥りながら書かれているのか、それとも一画一画、意識ははっきりとした中で書かれているのでしょうか。
石川
 基本的には、自分で構想した方向でずっと書いています。それは、小説を書く人も詩を書く人も、みんな同じだと思います。何かを構想し、それを元に書いていくわけです。ただし、自分が構想したもの、頭で書きたいと考えたものというのは、筆を執り、あるいはペンを持った瞬間に、「過去」のものになります。こういうふうに書こうという構想自体、「過去」なんですね。作品を作るというのは、自分の過去を超えて、「ああ、こんなものもあったんだ」という現在、未来を見つける、そのための旅をしているみたいなものです。それがもの作りの楽しさなんじゃないかと思います。
無限の可能性を秘めた文字


石川
 考えもしなかったものが出てくることへの驚き。もちろん自分自身が作っているんだけれども、自らの構想だと思っていた中には、漠然としていて形にならないものがある。そこから想像外とも思えるようなまったく新しいものが生まれる。それはどこから来るのか。筆記具の尖端と紙が触れる、その触覚的・視覚的な劇に導かれたものだと、私は考えています。まさに「筆ショク」自体が作りあげたとしか言いようがない。意識の上では、こっちの方向に行く計画であった。でも尖端と紙が触れるその現場では、意識に領導されるだけではなく、触覚、ショク覚自体が意識に働きかける。そこで、意識下にある何かが働いて、作品が違う方向に花咲いていく。そういうからくりだと思います。その状態を言葉で表すと「トランス」とか「神懸る」というふうになってしまうかもしれませんが、そうじゃないんです。やっぱり最初はもやもやっとしている。小説家だって、ストーリーが全部わかってから書くのではない。結末は大体こんな感じだろうとか、登場人物はこういうふうに動いていくだろうとか、その程度からスタートして、書いていく中で物語が動いていく。その過程が、私がいつも言っているのは、パソコンで書いていくのと、筆記具を使って書いていくのとではまったく違う。筆記具でも、鉛筆と万年筆、筆で書くのでは違う方向に導かれて、文ができていく。「筆ショク」というのは、そういう構造のことです。簡単な話です。たとえば「一」という文字を書く時、ワープロであれば「iti」とキーを押して変換する。けれども、筆で書く時には、起筆にはじまり、送筆から終筆へと、無限の可能性がある。「一」という一文字にも、膨大な情報が組み込まれているわけです。だから、書いた人によって「一」の文字に違いが出てくる。その差、書きぶりが書です。そうした情報を作っている力、筆ショクそのものが、言葉になり文になるわけですね。

――ご著書を拝読していると、漢字というものが誕生し、様々な経緯を経て生まれ変わっていく。そして今我々がその漢字を使い考え、思いを伝えていくことができる。その奇蹟を感じずにはいられません。誕生そのものも奇跡ですが、現在まで伝わってきたことも奇蹟であり、石川さんのように、後世に伝えようという書家の営みがあったからなのではないかと思います。ただ、この先どうなるのか。何万年後かはわかりませんが、「かつて「漢字」という文字があった」と振り返られる時がやってくるかもしれない。そうした事態が今始まっていることに対する「警世の書」としても読むことができるのではないでしょうか。
石川
 逆に言うと、ヨーロッパ世界が漢字を使いはじめることだって考えられるわけです。ライプニッツは、自分たちの言葉に、漢字を当て嵌めて読めばいいと言っています。そういう世界になるかもしれない。ただ、私が常々言ってきたのは、こういうことなんです。漢字語を使わないと、日本は政治と宗教と倫理の面で瓦解していく。そうした領域は、日本の場合、漢字の言葉によって形作られてきた。ひらがな語では作り得ない。真に民主主義になるためには、漢字語を吸収し、咀嚼しないといけない。そのことによって初めて、みんなが政治の主役になれる。それが東アジア漢字文明圏の言葉の構造なんですね。漢字語で考えることを弱めてしまうと、政治や宗教、倫理の面が弱まってしまう。むろん漢字語は皇帝制に色濃く染められた言語。為政者としての倫理、あるいは易姓革命の思想はあっても、民主主義を知らないという限界はある。極端に言えば、お金さえ持っていればいいんだという言説さえまかり通る。いわば大国意識ですね。そうではない。かつての日本という国を思い浮かべてみてください。たとえ小さくて豊かでなくても、道義や礼儀の面で尊敬されていた、宣教師たちがやって来た時代、清潔な生活をし、学習することに貪欲であった。それが今、ある程度のお金を持っているだけの、だらしのない国民文化になってしまった。人々が漢字で考えることをしなくなった結果だと思いますね。

――『書の終焉』に、とても印象的な一文があります。「書が近代の段階に至るには副島種臣の書の出現をまたねばならなかった」(単行本四五頁)。副島種臣は石川九楊さんにとって特別な存在であり、『近代書史』の中でも四四頁にわたって「副島種臣論」を書かれています。
副島種臣と河東碧梧桐

石川
 近代では、副島種臣と河東碧梧桐、このふたりが大きな存在だと、私は考えています。共通するのは、ふたりとも歴史上抹殺されてしまったことです。教科書には、碧梧桐であれば「赤い椿白い椿と落ちにけり」という一句が出てきて、自由律俳句の創始者として紹介されています。しかし、それだけです。副島も、征韓論者の一人として名が記されても、歴史の中にはほとんど登場しません。しかし、書の表現を見ると、ふたりは、非常に遠い時代までを視野に入れながら思考していたと、判断できます。でも、スクールを作らなかったから、弟子もいない。そうすると、敬遠されて、たとえば俳句界では結局虚子派しかほとんど残らなかった。でも本当にすごいのは河東碧梧桐だった。碧梧桐の場合、日本的なるものの表現の生命はどういうものか、その問題に真正面から向き合ったと思います。ひらがな語から生じた和歌の、その外側にできたひとつの表現形態である俳句が、果たして近代の時空の中で表現たり得るのかと。それに対して高浜虚子は、非常に割り切って考えていた。季語と定型を踏まえた、花鳥諷詠でいい。そう居直るわけです。まっすぐに俳句について考え、実践しつづけた碧梧桐には、その居直りができなかった。もちろん碧梧桐も、自分自身の表現として、俳句に可能性を見ていた。その時に、俳句が世界的なレベルでの詩と釣り合い、競い合う表現たり得るのかどうか。そこをずっと推し測っていって、最終的には「表現たり得ない」という結論を出したんでしょうね、俳壇引退を宣言する。この問い詰め方が非常に興味深いので、なんとかもう少し自分なりの答えを出していきたいと思っています。

――それは今後の展開が楽しみです。副島種臣に関してはいかがでしょうか。
石川
 副島から教わったのは、速度の問題です。当時の書道界では、現代書の父と言われた比田井天来が、ともかく「早く書け」という教えの人だった。早く書かなければ現代の書にはならないと。副島は逆です。「ゆっくり書くと、上手い下手ということではなく、そこになにがしかのものが生まれてくる」と、そんな言葉を副島は残しています。私たちの世代は、「早く書く派」にずっと教わってきました。副島の言葉に出会い、それを素朴に実践することによって、私の書は変わりました。生まれたのが、「李賀詩」のシリーズです。最初にちょっと触れましたが、ほとんど真っ黒く塗り潰したような書です。ともかく速度をゆっくり、墨がニジミとなって延び広がっていくのに任せて書くわけです。そうやって書くことによって、「一」という文字にも膨大な情報があることがわかったんですね。横にスーッと書いてきて、途中から上に行くことも、下に行くこともできる。速く進めることもできるし、ゆっくりも行ける。なんて膨大な情報が、この一本の線の中にあるのか。文字が抱くこの膨大な情報が、無意味であるはずがない。なおかつ、時間もコントロールできるわけです。それがわかれば、すべてが自由に、どんなふうにでも書けるようになる。副島が、あのデザインのような字を書くのは、自分で時間をコントロールできたからです。では、時間をコントロールできない状態で、普通に書くとどうなるか。たとえば斎藤茂吉だったと記憶するのですが、「書は偶然との苦しい戦い」だと言っています。コントロール下にない速度の下では、自分の思う通りには書けず、偶然に支配される中で書かざるを得ない。副島には、こう書けばいいという意識がはじめからある。だけど場合によっては、元々考えていたものとは違う方向に書くことだってできる。時間と空間は元々混沌としており、それがやがて別次元に展開していく。そういう時空のあり方を、副島からは教わりました。

――「副島種臣の書は、書の作品「世界」自体が時代や状況の「世界」に等価で対峙しているのだ」とも書かれています(『書の終焉』六八頁)。石川九楊さんの歩んでこられた足跡をたどってみると、まさに、ご自身にぴたりと当てはまる言葉に感じられます。
石川
 自分もそういうふうにありたいとは願っています。もしそのように感じていただけるのであれば、嬉しいですね。

――最初に、田村隆一さん、吉本隆明さん、谷川雁さん、三人の詩人の名前を挙げて話をされました。石川さん自身、「詩人=書家」という定義もされています(『書字のススメ』あとがき)。創作の根底には、「詩」があるのでしょうか?
石川
 やっぱり詩ですね。だから詩集だけは、いつも特別な存在と感じてしまうんです。詩集は、別格の棚にいつも収めてあります(笑)。

――繰り返しになりますが、創作と評論に絡めておうかがいします。石川九楊さんの中では、やはり分かちがたいものとしてふたつが存在しており、両者が絡み合いながら、螺旋状に思考が上昇し、また創作が深まっていく、そう考えてもよろしいのでしょうか。
石川
 それはありますね。書を書く時には、自分が評論で結論付けたところに教わりながら書いている。ただし、評論通りではない。そこで表現しきれていないものがあり、書いていく中で新しい何かを見つける。たとえば「歎異抄」シリーズの中の「歎異抄 №18」という、今回展示される作品。これは足かけ八ヶ月かけて書き上げたものです。
表現が生まれる瞬間

石川
 「歎異抄」の二十連作の中で「№16」でひとつの飛躍がありました。小品でしたが、途中で休みを取って、完成までこぎ着けたものです。前半と後半にわかれていて、前半は、横画が延びていく時、既に縦画があれば、必ずそこをジャンプして進んでいった。ところが後半ではジャンプしないで、縦画をぶすっと切って横にそのまま延びていく。「飛ぶか、切るか」、そこには大きな差があって、ぶすっと切る「音」も、触覚と共に確かに聞いている。新しいひとつの表現が現われた瞬間だと思います。その経験と手法を手に入れて、十七番目、そして、十八番目に全文が書けた。おそらく切らずに書いていたら、最後まで全文を書くことはできなかったと思います。切ることによって、「歎異抄」が持つ世界を何とか表現することができたんじゃないか。親鸞が語る断言と逆説、それと、どこまでもまっすぐに延びている垂直線を、横にぶすっと切った時の手ごたえ、そこには何か関係があると思っています。

――ライフワークである『中国書史』『日本書史』『近代書史』の三部作の話を、最後にもう一度おうかがいします。ひとつの書を微に入り細に入り見つめ、本当に丁寧に、その「姿形/たたずまい」を、我々の前に指し示してくれています。その時に、石川さんの「目」の存在を感じずにはいられません。目から入った情報が脳に伝わり、それが記憶に埋め込まれるという流れにはなっているのかもしれませんが、石川さんの場合、もっと生々しい身体的な「目」があるのではないでしょうか。
石川
 「書」における目というのは、私の場合、筆記具と紙の接点に触覚的、ショク覚的にあるわけです。それは目だけではない。すべての意識と身体の振る舞いがここに集中してある。筆記具の尖端が動く時の力、その触り具合、ぶつかったり、飛んでいったり、あるいはある角度とベクトルを持って、筆記具と紙がどういうふうに関係を結ぶのか。書の点画は触覚の塊、文字はベクトルの塊です。触覚的なものとベクトル的なものが融合して書がある。そこが理解できれば、わかりやすい表現なんです。そのことを評論に絡ませて言えば、書の評論は、科学にならないといけないと思っています。誰がやっても、ちゃんとトレースできるようになるために、書の中にある膨大な情報を解き明かしていく。トレースとは臨書のことです。ある書を横に置き、自分で書いてみる。同じように書けるようになれば、その書を書いていた当人の筆の動きが全部甦ってくる。
石川
 そうすると、どんな思いで書いていたのか、どこで迷ったのか、わかってくるはずなんですね。たとえ千年前の人が書いたとしても、筆の動きが蘇ってくれば、それにまつわるいろんなことが見えてきます。その時の気持ちがわかることもあります。そんな表現は他にはありません。文章でも、文体にそういうことがもれ出ているかもしれませんが、細部まで読み取るのは難しい。だけど、書には書かれるプロセスがすべて刻まれている。たとえば斜めにぐるっと入って、それを掘り起こすように持っていく。それからすっと力を抜いて、また押し広げていくというように。臨書をしていれば、その振る舞いが蘇ってくるわけです。なんだか難しいことのように聞こえるかもしれませんが、きちんと解いていけば、書ほどわかりやいものはないと思います。

――三部作を拝読していても、一文字一文字に対する再現のされ方が本当に詳細で、王羲之「蘭亭序」の三種の「八注本」を比較して論じられているところなど、何度読んでも飽きることはありません(『中国書史』八章九章)。どうすれば、このような「目」を持つことができるのでしょうか。
石川
 いや、本当は、ほとんど見えていないんです(笑)。「書」そのものが持つ世界が、ほとんど言葉になり得ていない。まだまだ書けることがいくらでもあると思います。自分自身、そのもどかしさがあります。きちんと言語化できれば、それが科学になり、みんながその判断を共有することができる。たとえば千二百年前の空海の書きぶりが、目の前に現われてくる。その書きぶりを見れば、その時代も蘇ってきます。そこまでは書ききれていませんね。もちろん、ひとつの切り口は作ったし、ある程度までは書けた、つかまえたという自負もあります。しかし、緒についたばかり。書、その書きぶり(筆ショク)には厖大な情報が隠れています。その過半は読み解かれていないのだから、若い次の世代の人たちのやっていく余地はいくらでもある未踏の曠野。人間が書いてきたその営み、書き言葉の中に込めた一点一画、膨大な時間をかけて作って書いた「字」というものが、そんなに簡単に読み解けるものではないと思っています。しかし、それは隠れた表現の一大宝庫です。

★書だ!石川九楊展
7月5日(水)~7月30日(日)まで、
上野の森美術館(東京都台東区上野公園1―2)、
開館=10時~17時(入場は閉館30分前まで)、
入場料=1200円。
9のつく日と土日祝日は石川九楊氏が在館し各種イベントを開催。
2017年7月7日 新聞掲載(第3197号)
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