マルクスの問いは、今 『資本論』第一巻刊行から一五〇年|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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論潮
2017年7月11日

マルクスの問いは、今 『資本論』第一巻刊行から一五〇年

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『現代思想』六月臨時増刊号が「マルクスの思想 『資本論』150年」と題して総特集を組んでいる。今年はロシア革命から百年目でもある。一九九〇年前後にソ連・東欧諸国が崩壊したとき、東側陣営に対する西側陣営の勝利などとはしゃぐ向きもあった。その頃に書かれた藤原保信『自由主義の再検討』(岩波新書、一九九三年)を、学生諸氏と久しぶりに読み返した。いくつか批判したい点はあれども、一人の学生が、東側の敗北は西側の勝利を意味しないという同書の問題提起について、今でもまったく色褪せていないと話していたのが印象に残る。資本主義は病んでいく一方だ。

(1)柄谷行人氏は「生産様式ではなく交換様式に注目」してを読み解く(柄谷行人「精神としての資本」)。マルクスは第三巻で、商品交換の「最後の形態」たる「株式資本をふくむ信用制度について論じたあと」に「恐慌について本格的に論じる」。恐慌の必然性は「利潤率の傾向的低下の法則」に基づく。「《利潤を得て生産されるもののみが生産される》」から「利潤率が低下すれば、資本制生産は終る」。終りを避けるべく「《生産方法そのもののたえざる革命》」に迫られるものの、「生産力の発展は、利潤量を増大させるが、固定資本の割合が増大するために、利潤率を低下させてしまう」。信用制度のせいで、利潤率低下は「外見上はそう見えない」ので、「需要に応じて、生産が進められる」。しかしだからこそ「恐慌は先ず信用恐慌として生じる」。

信用制度は破局の延期にすぎず、資本は「矛盾を解決する手段を恐慌以外にもたない」。ただし「重要」なのは、恐慌が「危機を「克服」する症状」と「認識」されていることだ。恐慌は「《均衡を一瞬回復する暴力的爆発》」で、「資本主義を崩壊させるものではない」。「《外皮は爆破される。資本主義的私有の最後を告げる鐘が鳴る》」といった『資本論』の有名な叙述は、「資本主義経済の「没落の必然性」を明らかにするようなものではない」。

「一国の中」では「たちまち利潤率の低下が生じる」から、「資本主義のグローバリゼーションが要請される」。植民地に資本を「輸出」した「イギリス」の「帝国主義」がそれで、資本は「ネーションへの顧慮から解放される」。今日の「新自由主義」は「それを反復するもの」で、「新帝国主義と呼ばれるべきである」。だがグローバル資本主義も「早晩、利潤率の低下に帰結する」。資本蓄積は「ますます困難となる」。が、資本は「蓄積をやめない」。

柄谷氏のマルクス読解に従うなら、共産革命に必然性はなく、労働者階級にできることはない。「個々人がどう考えようと、自己増殖する資本の欲動は決して消えない」。柄谷氏は「ウォーラーステインの見方に従って」、ヘゲモニー「不在」期の帝国主義または新自由主義は「次のヘゲモニー国家が成立するまで続く、もしそれが成立することがありうるならば」と言う。閉塞感の漂う病める未来だ。「人間の生活、そして、自然環境の破壊」が続く。ヘゲモニー国家が成立しても、破壊の程度がより少ないだけだ。

(2)ネグリ氏は、「「絶対的民主主義」と「人びとの共」という理念が、革命が可能である」と主張する(アントニオ・ネグリ著、長原豊訳「共の構築」)。絶対的民主主義は「自由主義国家における「相対的」な民主主義を踏み越えて建設される政治的プロジェクト」で、「国家に対抗する根源―急進的な革命の指標」、「労働者階級による構制的権力の行使の指標」となる。その際、「共」と「公」は区別される。「ソヴィエト連邦や中国では国家は全能となり、共的なことは公的なことという形態のもとに組織(―捏造)されてしまった」。絶対的民主主義は「「公的なこと」に抵抗して「共的なこと」をつくり上げる」。

「存在の蓄積が共的なことの構成要素を作り上げる」とネグリ氏は言う。「人間存在」は「関係性を築き上げることを、多数であることを望
む」。「何よりも、ひとは孤独に苦しむ」。存在の蓄積は、マルクスの言葉でいえば、類的存在としての人々の類的行為の積み重ねに相当するだろう。共の構築は「存在論を前提とし」、「マルクスを必要とするのはまさにここ」だという。

よってここで、ネグリ氏は「問題の核心」に入る。かつて「ランシエールがアルチュセールの立場に対して猛烈な批判を展開し」、「「党の人間」が用いた相も変わらぬ知識人的な前提」や「「主体なき過程」の構造主義的抽象性」を論難したが、それらは「今日、バディウに向かっても提起されねばならない」。「彼にとっては、どんな大衆運動もプチブル的なヤラセ」で、「結局は資本主義的指令に服従し、呑み込まれて」、「もはやなすべきことが何もなくなってしまう」。存在の蓄積は資本の蓄積を凌駕できるかどうか。これが“問題の核心”だ。

ネグリ氏は「価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働」というマルクスの一節を引き、後者の労働を「政治的主体として把握するには」「どのように進めばよいでしょうか」と問う。氏いわく、この労働主体は資本への「抵抗のなかで」、「自由に生き、幸せを享受することが可能な世界の建設」を目指す。この方向へ進めば、「資本の関係」は「巨大な圧迫の下に措かれ」「その爆破が可能」だという。

氏によると、階級概念は今日「社会的主体としてその根底から大きく変化した」。背景には「労働者階級のマルチチュード、つまり共的なことを構築する特異性の集合としての再登場があった」。しかし、マルチチュードは社会的主体ではあれ、政治的主体とは呼ばれない。実際にネグリ氏は「政治的主体として、労働者階級は依然として存在しているのかが問題」とする。政治的主体としての把握は問いのままで、爆破も可能性にとどまるわけだ。爆破の必然性を否定する柄谷氏の読みが正しいなら、存在の蓄積は“プチブル的なヤラセ”に終わる可能性がある。

(3)バディウ氏は、ネグリ氏の批判に抗して「僕もまたマルクス主義者
だ」と明言する(アラン・バディウ著、長原豊訳「資本主義の現在」)。ただしバディウ氏は、「現代資本主義」が「コミュニズムへの変態を間近に迎えている資本主義なのかどうか」と問い、「ネグリ氏の立場」と「まったく反対の立場」をとる。「現代資本主義は、自分の論理が局所において断固として勝利を収める階級的行動によって阻止されない限り、みずからに期待されている姿にぴったりと一致してしまう」。その姿とは、「ただ一つの規範が利潤」で「必要であれば膨大な人民を踏みにじる」「追い剥ぎの体制」だ――「全部民営化しろ」「病者や失業者の救済を廃止しろ」「ジジババは勝手に死んでいけ」「貧乏人の賃金をカットしろ。でも、金持ちは減税しろ」等々。高橋まつり氏の過労自殺を思うと、追い剥ぎ以上の殺人体制だ。文系学部は抹殺、でも獣医学部はどんどん増設、等々。医学なのに病的とは。

バディウ氏は「野蛮」の阻止のために「唯一可能な」こととして、「〈理念〉の力に根ざした人民の主導権の覚醒」を説く。人民主導の階級的行動という点で、バディウ氏とネグリ氏に大きな違いはない。だがネグリ氏は「ドゥルーズ=ガタリ」を引用し、バディウ氏の“理念”を「卓越した哲学という古い考え方に回帰すること」と批判する。永遠の真理=イデアに基づく哲人王支配は、全能国家が共的なことを公的なこととして捏造することだと。バディウ氏は別書で、共産主義の理念のためにプラトンを擁護する。

プラトンは『国家』第九巻で、最善国家は「範型として、天上に捧げられて存在するだろう」と書いている。「その国がどこかにあるかどうか、あるいは将来存在するだろうかどうか」は「どちらでもよい」。第七書簡では、“真理”を語る「私の著作」は「存在しない」とも。最善国家は現実化のためのプランというより、現実評価のための参照点だ。おかしいなら見直せばいい。ドゥルーズによるテクストの“モナド的読解”の恣意性は以前より批判されているが、ネグリ氏も含め、彼らはイデアと哲人王が語られる第五巻と第六巻しか見ていない。大衆向けのプラトン主義だ。理念に照らし現実を評価し、行動の指針を得る。ただし行動は個別具体的だ。バディウ氏が唱えるのも“局所”での階級的行動であり、「失敗」した全能国家の再建ではない。ネグリ氏によると、共的なことは「みずからを普遍的なこととして提示することがない」し、「目的論的なものも、存在しません」。公の捏造への警戒としては理解できるものの、バディウ氏なら、理念がないからマルチチュードは政治的主体になれない、と反論するだろう。

マルクスは資本主義の崩壊については詳論するが、共産社会についてはじつは具体的に語っていない。いわばソ連・東欧は、マルクスの問いに答えを出す試みだった。答えの誤りは問いの誤りを意味しない。病んだ現実への応答の模索は続く。マルクスの問いは、今も生きている。

2017年7月7日 新聞掲載(第3197号)
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