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読写 一枚の写真から
2017年7月18日

異邦に住む古き友を訪ねて

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米国アナポリス兵学校を1881年に卒業した同窓生が、日本で同窓会を開くというので、同校卒業生の瓜生大将が肝煎りで、米国海軍卿デンビー以下多数の賓客が御用船ヘンダーソン号に乗じ、7月2日横浜港に入港した。(『写真通信』大正11年8月号)

「ラスト サムライ」。米国海軍人から、こう呼ばれた男がこの一枚に写っている。

瓜生外吉、右から二人目の白いスーツ姿が彼。左から二人目は繁子夫人、日本最初の女子留学生の一人「永井繁子」である。

外吉の左が米国海軍卿デンビー夫妻、これは日本で開かれた米国海軍兵学校の同窓会に来日した海軍軍人たちとの記念撮影だ。

大正十一(一九二二)年七月二日、デンビー卿らアナポリス同窓生たちは大挙して訪日した。瓜生海軍大将が企画したものだった。

この時期、日米関係は悪化していた。カリフォルニアに始まる日系移民排斥の法律が全土に広がりつつあり、日系人は土地も持てない苦難の渦中にあった。前年から始まったワシントン会議で軍縮がまとまり、世界は協調ムードに向かうかと思われたが、水面下の緊張は増す不安の時代の入り口にあった。

瓜生外吉大将は、この年から三年間貴族院男爵議員を務め、海軍軍人としての活躍はすでになかったが、有数の米国通として、前年には米国を訪問してハーディング大統領など要人と会って、外交を陰から支えていた。

瓜生は安政四(一八五七)年、加賀大聖寺藩士の息子に生まれた。優秀な少年だったので、明治八(一八七四)年に米国海軍兵学校に留学して卒業した。デンビー卿らとは、この「一八八一年卒業同期生」である。

瓜生の経歴は派手なものではなかったが、明治三十七年二月、第四戦隊司令官として仁川沖海戦に勝って、日露戦争の口火を切った。日露戦争を始めるにあたって、海軍トップの山本権兵衛海相は連合艦隊司令長官に東郷平八郎を任命した。目立たないが冷静豪胆で「運が良い」から選んだという人事が話題になったが、地味な瓜生の人事も同じく意外性があったようだ。

瓜生は、自ら英文で書いた「挑戦状」を仁川港内に停泊するロシア軍艦長に送って港外に誘い出し、これを撃破した。初戦の勝利を瓜生があげたのである。

米国海軍兵学校の卒業生たちが日本で同窓会を開くとは、前代未聞のことだったが、瓜生は同窓生だけでなく、「アナポリス」が最も信頼を寄せた日本軍人だった。

米国メリーランド州アナポリスに、米国海軍兵学校がある。地名が通称になっている校内の記念室に、日本関係の展示があると聞いて訪れた。平成七(一九九五)年初夏のことだった。部屋の一隅には黒船のペリー提督関連の品があり、中央の棚に「アドミラル・ウリュウ」のコーナーがあった。在学中の資料と並んで、瓜生から贈られた漆器があったのが、印象的だった。

外吉の伝記はなく、わずかに繁子夫人の弟・益田克信が書いた英文の追悼記が遺されている。そこにある、アナポリス同窓生が贈った「ラスト・サムライ」の言葉が、瓜生の人となりを表しているようだ。

瓜生は留学前から教会に通っていた。留学先で、繁子と出会って恋をして、帰国後に結婚し、七人の子をもうけた。繁子はピアノを学んで帰国し、東京音楽学校などの教師となった。三井物産創設の益田孝は実兄である。

外吉は、昭和十二年に八十歳で亡くなり、晩年を過ごした小田原の別邸脇の「瓜生坂」に名をとどめている。

瓜生が尽力した日米親善は実を結ばずに、この写真の十九年後に開戦を迎えてしまう。(いわお・みつよ=ジャーナリスト)

2017年7月14日 新聞掲載(第3198号)
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