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論潮
2016年8月5日

メディアにみる日本の現在 報道の「ポルノ化」とバッシング社会

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いま、マスメディアやジャーナリズム、報道のあり方が大きな問題を抱え、それへの危機感は広く共有されている。

東日本大震災と福島第一原発事故は多くの人々に政府発表とマスメディアへの不信感と怒りを深く根づかせた。その後の安倍政権下での変化は圧倒的である。自民党からの在京テレビキー局への要請文書「選挙時における報道の公正中立ならびに公正の確保についてのお願い」の提出(二〇一四年一一月)、自民党の「文化芸術懇話会」での百田尚樹による「沖縄の二つの新聞はつぶさないといけない」や自民党議員による「マスコミを懲らしめる」発言(二〇一五年六月)、高市早苗総務大臣による「政治的公平性」を欠く放送が繰り返される場合は「電波停止を命じることができる」との国会答弁(二〇一六年二月)。つい最近では、熊本地震をめぐりNHK籾井会長が「原発については、住民の不安をいたずらにかき立てないよう、公式発表をベースに伝えることを続けてほしい」と指示していた。この四月には「クローズアップ現代」や「ニュース23」、「報道ステーション」などで政府に批判的なキャスターがそろって交代した(「キャスターの相次ぐ降板とテレビ界を覆う萎縮と自粛」『創』八月号)。

いま、日本社会ではマスメディアに「中立性」や「公平性」を求める空気が強くなっている。だが、現政権がマスメディアに圧力をかけ、自主規制が行なわれているという単純な話ではない。問題は日本社会のありようそのものだ。「偏っている」という表現が、地域社会、学校、職場などで日々使われているように、読者や視聴者である私たち一人一人が「中立性」や「公平性」の必要性を内面化し欲している。

「中立性」がそもそも誤解されていると指摘するのは、「表現の自由」国連特別報告者として今年四月に来日したデイヴィッド・ケイだ。「中立性」は賛否両論をバランスよく扱う姿勢ではなく、「政府からの評価に従属しないジャーナリストに対して、その職業的責任を意味する理念的規定である」という(「日本の報道機関は独立しているか」『世界』八月号)。つまり、ジャーナリストが国家や資本から独立・自立しなければならないという理念なのだ。この理念はジャーナリズムの戦争加担への反省から生まれたことも改めて確認しておきたい。この歴史自体が忘れられようとしている。

では、いま、「中立性」の名の下に、報道現場では何が起きているだろうか。森達也は現在のマスメディアについて、「最優先順位はコンプライアンスとリスクヘッジ。圧力には抗わない。視聴者や読者の多数派が喜ばない情報は封印する。だって企業なのだから」と分析する(「報道の現場に希望への意思は生まれたか」『現代思想』七月号)。報道の理念とは何かという高尚な話ではなく、報道機関が企業体のマネジメント手法の一環として報道の方法と内容を決めているということ。資本主義的マネジメント手法は、ジャーナリストを「サラリーマン」へ、報道機関を企業体へと変えていく。「大手放送局 報道局若手社員」の次のような言葉は現場の雰囲気を伝えている。「気がつけば、争点となる政策課題(たとえば原発、安保)を取り上げにくくなっている。気がつけば、街録で政権と同じ考えを話してくれる人を何時間でもかけて探しまくって放送している」(金平茂紀「日本のテレビ報道でいま何が起きているのか――メディア危機の日本的諸相」『現代思想』七月号)。理念規定としての「中立性」とは相反する原理にふりまわされるジャーナリストの苦しい姿がここにある。

マスメディアの現在を考えるにあたって、舛添前東京都知事の辞職に至る過程は格好の題材だ。周知のとおり、批判されたのは舛添の政治資金や公用車などの使用方法であった。毎週の定例記者会見がテレビ中継され、舛添の言葉や受け答え、身ぶりや表情などが執拗に報じられた。ふと冷静になれば、東京オリンピック招致をめぐるカネの問題、自民党の甘利元大臣などの政治資金問題や資質を問う報道は消えていた。その分、舛添叩きはリンチのような異様さである。

進藤兵は、石原、猪瀬、舛添と三代にわたって都知事が任期途中で辞職してしまう現象を分析している。この三人は「東京という地域の『市民社会』と切り結ばず、『都政の重要課題』の解決に専念する」ことがなく、「都政を踏み台」にするような「エリート主義的心性」が特徴であるという。そして、東京オリンピックが最優先課題とされ、関連するインフラ整備や都市再開発事業には膨大な予算が配分されたが、その一方で、都営住宅の新規建設ゼロ、介護報酬の削減、国民健康保険料の引き上げ、子どもの貧困対策の遅れなど、新自由主義的な政策が強くなった。ここに都政の実態と生活者の求める政策との「根深い分裂」がある。この分裂が、反エリート主義的な大衆のムードとともに「水に落ちた犬をたたく」型の批判へとつながったと分析されている(「都知事はなぜ任期を全うできないのか――東京都知事選挙の課題」『世界』八月号)。だから、報道は政治家の個人的資質を焦点化し、舛添の辞任とともに姿を消す。粉川哲夫は舛添報道を「終末へのエモーショナルな高揚の速効的な手続き」を求めていく、報道の「ポルノ化」だと批判した(「報道のいまと余生」『現代思想』七月)。

「ポルノ化」したマスメディアによって、政治と私たちとのあいだの「分裂」、もっといえば潜在的な敵対関係が、一人の政治家へのバッシングに収斂してしまった。そして、私たちの批判は都政の具体的な政策には向かわない。都知事選挙も同様だ。まして、問題の核心であるオリンピックが、都市を資本蓄積の場へ、私たちの暮らしを収奪の対象へとますます破壊している現実は浮かび上がらない。

このような社会を「バッシング社会」と呼ぶことがある(阿武野勝彦「時代を超えるテレビドキュメンタリー」『現代思想』七月)。ここでは、バッシングが常態化するものの、それに埋没し、何ら肯定的な社会変革を導きだせない社会ととりあえず定義しよう。マスメディアによる舛添バッシングは、バッシング社会の再生産につながるだけでなく、その矛先をそのまま報道機関とジャーナリスト自身にも向けている。私の目には、舛添をバッシングし続けている報道関係者が、自らがバッシングされることに怯えているようにみえた。そこには視聴者や読者も抱き続けている「普通でないといけない」という怯えも反響しているだろう。

だから、いま、メディアに求められているのは、政治――そして、その背後に控えている新自由主義的な資本の動き――と人びととのあいだの敵対関係を言語化し、バッシングとは異なる社会性を開いていくことだ。そのような機能が可能となるのは、一つには「非営利メディア」や「独立系メディア」、あるいは一部の地方メディアによる調査報道においてである(チャールズ・ルイス/国谷裕子「調査報道がジャーナリズムを変革する」『世界』八月号)。そして、もう一つは市民の直接行動というメディアだ。福島原発事故のあと、メルトダウンや放射性物質飛散の実態が隠されるなか、市民や活動家は政府発表を待つことなく、専門家とともに過去の知見をふまえた警告を発し、測定器をシェアして独自に汚染実態を調べ公表し、安全神話を振り払うようにして避難した。その直接行動は、自らメディアとなり、脱中心的・脱権力的な情報と行動の網の目を自律的に組織することで、社会のありようを変えていったのである(持木良太・大畑〓編『民衆闘争テーゼ 酒井隆史×矢部史郎 対談』二〇一六年)。メディアの姿から私たちの内なる問題と可能性がみえている。

2016年8月5日 新聞掲載(第3151号)
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