最後の人間からの手紙 ネオテニーと愛、そしてヒトの運命について / ダニ=ロベール・デュフール(書肆心水)〈悪〉を明快に名指す道徳の書  人間の歴史を辿りながら、現代文明を批判的に考察|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年7月17日

〈悪〉を明快に名指す道徳の書 
人間の歴史を辿りながら、現代文明を批判的に考察

最後の人間からの手紙 ネオテニーと愛、そしてヒトの運命について
著 者:ダニ=ロベール・デュフール
出版社:書肆心水
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本書は十一章から成る。どの章も語り手が「愛しいひと」「ぼくの牝豹さん」と呼ぶ者に宛てた書簡である。生物としての人間の歴史を辿りながら、語り手にとって人間を滅ぼすとされる現代文明を批判的に考察する。

書皮には十九世紀フランスの画家ギュスターヴ・クールベによる〈世界の起源〉(一八六六)部分の左右を反転させた画像が使われている。本書の内容に鑑みて、自らの手で己を滅ぼすものをつくりだした人間という生物の転倒した様相を示しているのかもしれない。

本書仏語版題辞を日本語訳すると、例えば『かつて最後の人間がいた』となるが、本書題辞は『最後の人間からの手紙』である。本文中の「いっしょに暮らしているこのひとは人類最後の末裔になるやもしれない、ひょっとしてそんなことを思ってみたのでは?」(本書一六頁、以下同)や「愛しいひと、ぼくたちがここ、歴史の最後尾につながれた客車で落ち合えたいま、おごそかにぼくの結論をきみに伝えよう。ぼくはもうすぐ死ぬんだ」(二九四、強調原文)などに基づく変更であろう。

各章を簡潔に紹介する。一章では本書が人間を知と快楽の結合から成る生物として語る旨が告げられる。知/快楽は(乳幼児期には頭蓋泉門が見られる頭蓋に保護された)脳/(雄における陰茎骨なき)性器に対応しており(二章で詳述される)、これらに象徴される脆弱を起点として構成される(二三)。二章は「ネオテーヌ」(幼形成体)概念を導入して、この脆弱を考察する。他の生物においては幼若期を過ぎると見られなくなる形質が、人間にあっては成体状態に達しても残るという。人間は「延長されていく幼若状態」(三二)である。三章では人間の脆弱が「欠助désaideという概念で記述される。ここでは人間が生物界最高位にあるという教義(人間の胎児は個体発生に向けて生物の系統発生を辿り、完成体―人間に達して生誕するという物語)を揺るがす、アホロートル(トラフサンショウウオ)が紹介される。この両生類は幼形のまま一生を過ごすこともできるネオテーヌ的存在である(四五―四六)。人間=生物の完成形という物語は座礁し、その未完成・未完了が明白となる(五二)。この不完全・脆弱をフロイトは「欠助の状態Hilflosigkeit」(≪désaide≫はその仏語訳)と呼び、人間の特徴と捉えた(五八―六一)。

四章は時間と言葉を軸にして「第二の自然」を人間が創出する仕組みを説く。第二の自然とは、人間という生物を規定する自然からその脆弱・不完全ゆえに逸脱した人間がつくりだす代替物としての自然、ここでは神(々)を指す。失われた第一の自然に漲る力を、想像力と言葉によって、物語の中で再現・構成する行為から神(々)は生まれた(七六―七八)。人間は時空には定住できない(九四)。その欠陥を補うのが言葉である。言葉を用いて過去に戻り、未来への指針を引き出す、つまり時間という流れをつくりだすことで人間はその欠如を克服する。言葉が人間の領土である(一一〇)。五章は前章からの続きとして、言葉の中でも文字に注目し、主に「書く」という行為から、人間の不完全を補う法・物語・技術を説明する。要点はいくつかあるが、ここでは自然が書いた文字列としてのDNA(生物としての人間を内部から規定する遺伝法規)と、自然から逸脱した人間が己の外部に書く文字列を法として、自らを律するという対比が為されている点のみ、挙げておく。外部に書き記される法――それも一度では済まず、際限なく書き記されてゆく――が、内部に書き込まれていながら十全には機能しない法を代替する。六章では前章を承け、人間が神を必要とする事情が、人間に飼育されて犬となった狼との類推から説明される。「(人間が飼い犬(dog)にとっての、神(god)であるなら、人間は信奉する神の、飼い犬である)」(一七二)。なお人間が神と結ぶ関係の相違において男女の性的差異も論じられている(一七四―一七八)。

七章は人間が己の限界に接する経験を、「快楽」と呼んで論じる。限界とは内と外の境界であり、人間においては皮膚がこれに相当する。内と外が反転するめまいの経験に快楽は基礎づけられると論じられる。しかし外に出ることは死の危険に曝されることでもあるため、外から身を護るために知は防壁を築く。めまいにおいて快楽と知は踵を接する(以上、一九二、一九八、二〇五)。なお前章における神との結びつきをめぐる議論と同様、男女における快楽の相違についても述べられている(二〇〇―二〇二)。八章では人間の内部に書かれた文字列―法を人間が外に自らの手で書きなおそうとする事態、すなわち第一の自然を第二の自然が飲み込もうとする事態が描出される。人間が自らを対象―客体として、己を再生・構成しようとする不死への欲望である。個体による己が属す種の性質の変形操作、いいかえれば種と個体の距離の縮小である。そして、「こうして個体と種の距離が縮まっていけば、ぼくのまえにはとめどない快楽への扉が開かれることになる。死せずしてむこう側に移動することができるようになるのだ。しかも、小さな死[性的快楽の絶頂――引用者]が許す時間など比べものにならないくらい、長くそこにとどまることも」(二二一)。ここに人間消滅の危機を語り手は見てとる。

九章では、種に限りなく接近してゆく個体を「つねにより多くもとうとする情熱」に由来する「プレオネクシ」と呼ぶ(二三八)。元々欠如を抱えていたネオテーヌからプレオネクシが生まれるのは或る意味では当然であり、古来、プレオネクシを掣肘する術として、人間は蕩尽や財の贈与を伝統的に行なってきた(二四〇)。しかしながら伝統が解体されつつある現代ではこの歯止めが奏功せず、むしろプレオネクシが大量発生するという。それが自由主義の風潮であり、その助長に一役買った者として、『蜂の寓話』のマンデヴィルと『国富論』のアダム・スミスを挙げ、いずれも私欲の追求が公共の徳に資すると説いたと論じられる(二四三―二四八)。十章は整形手術を繰り返したマイケル・ジャクソンを例に挙げ、不死を欲望する人間(プレオネクシの側面を肥大化させた)の、現代における象徴と見做す。十一章は、ネオテーヌから出たプレオネクシがネオテーヌを駆逐しつつある現在、プレオネクシの暴走に歯止めをかける「普遍憲法」「世界憲法」の起草と実施が要請されている(三一五)と本書を締めくくる。

以上、簡単に本書の内容を紹介した。「プレオネクシ」を〈悪〉と見做し、これを抑え込む「世界憲法」なる〈善〉を、デウス・エクス・マキナのごとく不意に登場させて終わる本書は、道徳の書である。〈悪〉を明快に名指すことによって、本書は現代社会の諸々に不満を抱く読者の憂さを晴らすだろう。〈最後の人間〉による語りという設定は、終末論や黙示録の物語への欲望を満たすだろう。系統発生を辿る個体発生という人間の物語を斥けつつ、〈最後の人間〉という形象が採用されている点が興味深い。〈最後〉である以上、この個体は種と完全に重なり合うからである。自らの種の来し方と行く末を物語る個体が〈最後〉の者であるかぎり、その欠如・脆弱・不完全・未完了がどれほど強調されようとも、本書は種を個において受肉した〈人間〉を英雄とする神話である。著者の仕事を本書以外知らないため、評子の誤読かもしれないが、気になったことのうち、一つだけ記しておく。本書がその保守を説く〈人間〉の範疇に、本書に明示的には現れない、例えば同性愛者、障碍者、病者、不妊者は含まれるのだろうか。というのも本書十章におけるマイケル・ジャクソンの〈異常〉視は、〈正常な人間〉――少なくとも現在の先進諸国に流布する〈健常者〉像――という〈標準〉を前提していると評子には思われたからである。だが、くり返すと、この点については心許ない。識者の御教示を乞う。(福井和美訳)
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2017年7月14日 新聞掲載(第3198号)
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