音楽と沈黙 1 / ローズ・トレメイン(国書刊行会 )音楽のように奏でられる人間の生、その光と闇|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年7月17日

音楽のように奏でられる人間の生、その光と闇

音楽と沈黙 1
著 者:ローズ・トレメイン
出版社:国書刊行会
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人生、それはあたかも我々の意識を絶えず流れゆく音符のようであり、それら連続をかろうじて聴きとりはじめてとらえうる旋律のようであり、また記憶のうちで幾度となく耳を傾けては反芻し味わうことをゆるされたひとつの音楽のようなものであろうか。だが我々が過去を把持し未来を予持しつつも、静止することのない現在を生きている以上、それら断片が音楽として聴きとられるためには、始まりと終わり――すなわち沈黙が不可欠であり、ひとつの「物語」として奏でられてこそ我々の魂に届くのである。

本作は一九九九年にウィットブレッド賞(現コスタ賞)を受賞した歴史小説であり、十七世紀デンマーク王クレスチャン四世と二番目の妻キアステンを中心に、その人間模様と愛憎劇が織り成す壮大な物語である。失われた秩序を音楽によって再びもたらしたいと望む理想主義者であり、旧友の死に胸を痛め続ける繊細な心と、妻への愛をデカルトになぞらえる知性を持ちながら、野晒し同然の地下室に楽団員を待機させ自らが望む音楽を意のままに奏でさせる暴君でもあるクレスチャン。その出自ゆえに王妃の称号を正式に与えられぬ不遇な妻として、王への復讐心を露に愛人との情事にのめり込むキアステン。史実に加え著者はクレスチャンとキアステンそれぞれの心の拠り所となるリュート奏者ピーターと侍女エミリアを生み出し、この二人の恋と運命もまた翻弄される様を描く。登場人物の誰もが抱える満たされぬ想いは、あたかもリュートが奏でる調べのように悲哀に満ち、その寄る辺なき儚さもまた人間の真実として胸に響くことだろう。
邦訳の装画にはカラヴァッジオの名画に描かれたリュートが配されその音色を想起させるが、原著(初版)では実際の肖像画をもとに、クレスチャンの身体は弦楽器に、キアステンはリュートで顔を覆い、表裏共にウィットに富んだコラージュが施されている。物語もまた各々の人物が楽器のように独奏で語り出し、やがて読み進めるにつれて絡み合いポリフォニーを奏で出す。だが手記や手紙、回想といったモノローグが入り乱れる断章の連続は、ときに読み手を疲労させ物語を捉えるまでには労を要するかもしれない。また原著が常に内包する声の余白――すなわち沈黙――があくまで自己との静かなる対話であり、思索であり、また告白であるのに対し、邦訳においてあたかも歌劇のように聴衆を意識した抑揚は、ときに女たちの浅ましさばかりが誇張された演出として、むしろ本来的な沈黙――思慮、問いと諦め、それらが醸す色香までもが、些か騒々しく掻き消されてしまう傾向については留意すべきであろう。

とらえることのできない何ものかを常に追い求めては、敬虔と堕落、懸命さと愚かしさ、そのどちらもあわせ持つ人間。だが崇高に翻弄され生贄のように捧げられた犠牲者たちの屍の上に築かれる理想などあるはずもない。それはもはや盲目であり、やがて男たちが崇高という幻影を求め亡霊のように没落していくのに対し、その犠牲となった空虚な女たちは自らを満たすものの方へとあてどなく――だがその足取りは男たちより遥かに逞しく――この世界を彷徨いながらも歩みを続ける。死が生を完結させるように、沈黙が音楽を完成させるその時、我々をとらえるのは果たして喪失か、それとも安堵であろうか。物語が幕を閉じふたたび沈黙を聴くとき、さて読者の脳裏にはいかなる音楽が立ち現れるだろうか。(渡辺佐智江訳)
2017年7月14日 新聞掲載(第3198号)
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