44人へのアンケート 2017年上半期の収穫から 少年少女だった大人たちも一冊の冒険は必要だ。|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 特集
2017年7月27日

44人へのアンケート 2017年上半期の収穫から
少年少女だった大人たちも一冊の冒険は必要だ。

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illustration=桜餅シナモン
戦後七二年、東日本大震災から六年目の夏がやってきます。
毎夏恒例のアンケート特集「二〇一七年上半期の収穫から」では、今回もさまざまな分野の研究者、評論家、作家、書店員の方などに、昨年末から今年の上半期に出版された書籍から印象に残った三冊をあげていただきました。
刻々と変わる変化の瞬間を理解する為にも、読書の幅を広げるためにも、もちろん純粋な楽しみのための読書にも、読者に最良の一冊が見つかれば幸いです。(掲載は順不同) (編集部)

【上半期の収穫 執筆者一覧】

阿部公彦(英米文学)/飯島吉晴(民俗学)/五十嵐太郎(建築史)/石原千秋(日本近代文学)/岩本真一(衣服産業史)/植村八潮(出版学)/臼杵陽(中東地域研究)/小川さやか(文化人類学)/片岡大右(フランス文学・社会思想史)/鎌田東二(宗教学)/木村玲欧(防災・減災学)/木本好信(日本古代史)/倉本さおり(ライター)/郷原佳以(フランス文学)/河本真理(西洋美術史)/齋藤純一(政治理論)/佐々木力(科学史・科学哲学)/渋谷謙次郎(ロシア法)/砂川秀樹(文化人類学)/関智英(中国近現代史)/中筋直哉(社会学)/立川孝一(フランス史)/巽孝之(アメリカ文学)/田中智彦(哲学・政治思想)/辻山良雄(Title)/戸田清(環境社会学)/長野順子(美学)/長山靖生(文芸評論)/成田龍一(日本近現代史)/長谷川一(メディア論)/秦美香子(漫画研究)/原田直子(信愛書店en=gawa)/廣木一人(日本中世文学)/府川源一郎(国語教育)/藤塚巨人(くまざわ書店的場店)/北條一浩(ライター)/細見和之(ドイツ思想)/堀川貴司(日本漢文学・書誌学)/堀部篤史(誠光社)/町口哲生(評論)/森反章夫(社会学)/森村進(法哲学)/山田健太(言語法研究)/与那原恵(ノンフィクション作家)
廣木一人(日本中世文学)
 
大野裕之『チャップリン作品とその生涯』(中公文庫)。長年、チャップリン研究に関わってきた著者が、前作を全面改定した書。NGフィルムや直接関わりをもった人々からの聞き取りを加味し、チャップリンの作品および人としての魅力を感動的に描く。チャップリンによる映画技法の開発への言及も貴重である。

松井孝典『文明は〈見えない世界〉がつくる』(岩波新書)。〈見えない世界〉を解明することで文明を築き上げてきた人間が知り得たことは何であったのか追い求める書。宇宙物理学の知見を基盤に、人間は特別な存在なのかどうか、我々は過去・現在・未来にわたり、何者として捉えることができるのかを問う。

小原嘉明『入門!進化生物学』(中公新書)。生物の進化はどうして起こるのかを具体例を挙げながら興味深く説く書。「進化」は一般的な「進歩」ではないことを強調し、いかにすべての生物が同等に進化してきたかを語る。ニッチ論も貴重。(ひろき・かずひと=青山学院大学名誉教授・日本中世文学)
戸田清(環境社会学)
 
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』(岩波新書)は、政党政治、資本主義、植民地帝国、天皇制から日本近代を読み解く。岩波新書の値段が四倍になるあいだに国公立大学の学費が四〇倍に。大内裕和『奨学金が日本を滅ぼす』(朝日新書)は、高学費と「奨学金」の現状に警鐘を鳴らす。日野行介・尾松亮『フクシマ6年後 消されゆく被害 歪められたチェルノブイリ・データ』(人文書院)は、原発事故を小さく見せる情報操作を追及。近藤克則『健康格差社会への処方箋』(医学書院)は、医学や看護学を学ぶ若者に勧めたい。宮田律『ナビラとマララ 「対テロ戦争」に巻き込まれた二人の少女』(講談社)で、「対テロ戦争」を考えよう。髙山佳奈子『共謀罪の何が問題か』(岩波ブックレット)も必読。最後に、戸田清『核発電の便利神話』(長崎文献社)を紹介させていただく。「使えるのが百年、後始末(ごみの監視)に十万年」の一体どこが便利なのか。(とだ・きよし=長崎大学教員・環境社会学・平和学専攻)
飯島吉晴(民俗学)
 
中野剛志『富国と強兵―地政経済学序説』(東洋経済新報社)。激動する現代社会にあって、雑音に惑わされることなく、現実を直視し、これまでの知識を検討し直して、自らの世界観を組み直し、判断基準を再構築する上で、浩瀚な本書は明確な指針を与えてくれる。

天理大学考古学・民俗学研究室編『モノと図像から探る怪異・妖怪の東西』(勉誠出版)。本書は、考古学と民俗学の両方の視点から、妖怪研究の新しい可能性を探る三部作シリーズの完結編。妖怪や怪獣、民間信仰、身体感覚などの各分野における、東洋と西洋のや異同が分かりやすく論じられている。関連する妖怪本として、鈴木堅弘『とんでも春画―妖怪・幽霊・けものたち』(新潮社)も、江戸の驚嘆すべき想像力にみちた尋常ならざる多くの春画が登場しており興味深い。

芳賀日出男『写真民俗学―東西の神々』(KADOKAWA)。本書は、世界各地の神と人の関わりを東西の祭りや習俗の数多くの民俗写真や記録を通して、その相異や類似性の面白さを伝えてくれる長年にわたる貴重な成果の集成である。(いいじま・よしはる=日本民俗学会理事)
北條一浩(ライター)
 
岸政彦、石岡丈昇、丸山里美『質的社会調査の方法』(有斐閣)。データという言葉を聞くと数字を思い浮かべるが、社会学には「数字を使わない調査」があり、そうした「質的」データが社会研究に大いに有効だということをわかりやすく解説してくれる。他者に耳を傾けることを第一義にしながらも、三人の筆者の血の通った「私」も感じられる快著。

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)。著者はイギリスの最貧困層の子供たちと日々接している現役保育士。等身大の言葉で語りながら、日常の領域を超えて緊縮政策にあえぐ社会の暗部を打ち抜く。個々の登場人物が実に魅力的。

末井昭『結婚』(平凡社)。多くの人がすでにしている、あるいはしようとしている結婚という行為に対し、あまりにあけすけな文章で挑んだ本。ここには幻想を剥ぎ取られた本当の結婚があり、他の誰でもない末井昭「その人」がいる。極私的だからこそ普遍性のある本。(ほうじょう・かずひろ=ライター)
長山靖生(文芸評論)
 
人の意識と社会はどのようにつながっているのだろう。

石原千秋『漱石と日本の近代』上下(新潮社)は、漱石研究の第一人者による作品論であり、時代論であり、社会論だ。漱石は現代的主題を先取りしたが、その一端は近代日本の知識層が漱石的自意識を欲望して生きた結果なのではないかとも思える。

人はあるべき自分を演出するが、隠したい自己は却ってその営為故に漏洩する。D・H・ロレンス『無意識の幻想』(照屋佳男訳、中公文庫)は精神世界の独自理論を展開した超問題作。ロレンスは人間の「生」は二元的であるとし、人間の原動力を宇宙的バランスの内在的指向に求めた。誤った学説ながらイメージの宝庫で、精神医学研究の貴重な分析対象であろう。

ピエール・マルシェ『精神障害の下部構造』(藤元登四郎訳、金剛出版)の視点は、さまざまな精神障害の奥底にあるものを探りながら、思考や情報交換システムに及ぶ。(ながやま・やすお=評論家)
堀部篤史(誠光社)
 
山高登『東京の編集者』(夏葉社)は、尾崎一雄や上林暁らのようなマイナーポエットたちを支持した名編集者への聞き書きだが、巻頭のモノクロ写真が余技の域を超えた素晴らしさ。その姿勢にシンパシーを抱き、裏方の仕事にスポットを当てた、夏葉社による重要な仕事。

原田治『ぼくの美術ノート』(亜紀書房)は、著者の遺作となった美術エッセイ集だが、その厳しい審美眼にかなう服部一成による造本が見事だった。アンティークタイルから絵本まで、「美術」の捉え方の視野の広さも著者ならでは。

井川直子『昭和の店に惹かれる理由』(ミシマ社)には、昨今の飲食業において、いかにソフトやコストパフォーマンスだけが評価され、ちょっとした融通やサービスが軽視されているかを改めて思い知らされた。「気働き」という言葉は決して忘れ去られてはいけない。いずれも個人的な関心と自身の店での売上が結びついた好例ともいえる3冊。(ほりべ・あつし=誠光社店主)
堀川貴司(日本漢文学・書誌学)
 
専門とその周辺から三冊。

野口善敬・廣田宗玄『石城遺宝 訳注』(汲古書院)は、中世禅宗文化の中心地のひとつ、博多の妙楽寺に伝わっていた日中禅僧の漢詩文作品を丁寧に訳注したもの。近年盛んな日中交流史研究にとっても有益であろう。

佛教史学会編『仏教史研究ハンドブック』(法藏館)は、インド・アジア諸地域・中国・朝鮮半島・日本の各地域へと伝播した仏教それぞれの歴史・教義等に関する最新の研究成果をコンパクトにまとめたもの。地図・年表・索引もついて二八〇〇円はお買い得。

渡部泰明『中世和歌史論 様式と方法』(岩波書店)は、著者の第二論文集。先年刊行された『和歌とは何か』(岩波新書)の言わば各論にあたるもので、様式と方法に自覚的たらざるを得なかった中世歌人たちの苦闘と喜びに寄り添いながら、それと拮抗する文体で、その表現の達成を説き明かしてくれる。(ほりかわ・たかし=慶應義塾大学附属研究所斯道文庫教授)
森村進(法哲学)
 
三冊とも私の専門の法哲学関係の本ばかりあげることができてうれしい。

福原明雄『リバタリアニズムを問い直す 右派/左派対立の先へ』(ナカニシヤ出版) 日本で数少ない現代リバタリアニズムの本格的研究。「自己著述者性」という観念から、分配に関する「十分性説」をとるリバタリアニズムを提唱する。私見が批判的に検討されたのは光栄だが、実践的結論は似ているようだ。

田上孝一編著『権利の哲学入門』(社会評論社) 思想史と現代的問題の二部に分かれており、二十人の執筆者の多くはまだ無名の若手だが(あるいはそのせいか)、どの章も堅実な研究に裏付けられている。定価が安いのもよい。

安藤馨・大屋雄裕『法哲学と法哲学の対話』(有斐閣) 各章とも共著者だけでなく当該分野の専門家によるコメントとそれへの応答まで加えられて、三つ巴の論争が読める。ただし読者にかなりの予備知識と注意力を要求する。(もりむら・すすむ=一橋大学教授・法哲学)
中筋直哉(社会学)
 
3冊のうち2冊が自分の本を出してくれた出版社というのは、今どき流行のえこひいき(腹心の出版社?)。でも気にせず推薦したい。

1冊目は武岡暢『生き延びる都市 新宿歌舞伎町の社会学』(新曜社)。もし社会学が、風俗ルポのより素人っぽいものでも上から目線で見てきたような嘘を言う評論でもないなら、こうあるべきだというような誠実な研究。

2冊目は森山至貴『LGBTを読みとく クィア・スタディーズ入門』(ちくま新書)。社会学は他の学問よりはLGBTフレンドリーだったかもしれないが、LGBTベーストではなかったと思う。その一歩を踏み出す画期的な宣言。

3冊目は中江桂子『不協和音の宇宙へ モンテスキューの社会学』(新曜社)。外見は地味だが中身はデユルケム以来の社会学の歴史を創造的に破壊する力を秘めている。価値や合理性でむりやり統一するのではなく、現実の多様性とていねいに付き合い、理解可能な共有知に置き換えていくのが21世紀の社会学の可能性で、これら3冊はそのことを強力に推進しているのだ。(なかすじ・なおや=法政大学教授・社会学)
府川源一郎(国語教育)
 
田中康二『真淵と宣長―「松坂の一夜」の史実と真実』(中央公論新社)。有名な「松坂の一夜」のエピソードには、賀茂真淵と本居宣長の国学に対する路線の違いが隠されていた。明治期になって美談として構成したのは佐佐木信綱で、それが『尋常小学国語読本』によって普及した。そうした経緯の解明とこの美談をめぐる国学関係者の様々な証言などが、的確に紹介・考察されている。平明洒脱でドラマティックな文章も魅力的だ。

竹長吉正『ピノッキオ物語の研究―日本における翻訳・戯曲・紙芝居・国語教材等』(てらいんく)。イタリア生まれの「悪たれ少年の破天荒な物語」である「ピノキオ」は、様々な著者と媒体によって紹介され続けてきた。これまでそれらを総合的に考察した仕事はなかった。長年にわたって多方面に広がるピノキオ像を追究した著者の探究心には脱帽するほかない。

勝又基『親孝行の江戸文化』(笠間書院)。江戸時代の「孝」という道徳は、一般に封建体制強化に役立ったと考えられてきた。本書は、日本の代表的な孝子を集成した『本朝孝子伝』を中心に、「孝」がどのように表彰され、伝記として記述されたのかを詳細に検討し、江戸期における「孝」の意義を再考する。「道徳の教科化」を長期の文化史的スパンから考える上でも、貴重な書である。(ふかわ・げんいちろう=日本体育大学教授・教育史・国語教育)
片岡大右(フランス文学・社会思想史)
 
わたしたちの出版文化の二〇一七年上半期は何より、デヴィッド・グレーバー『負債論』(酒井隆史監訳、以文社)を適切に迎えそこなった半年間として定義しうる。英仏独語版が大衆的成功を収め、路上ないし広場の運動を大いに活気づけるとともにエスタブリッシュメントにもこのアナキスト人類学者の仕事を正しく知的挑戦として受け止めさせるに至ったことを思えば、日本語版のインパクトの相対的な希薄さはそれ自体、わたしたちの文化環境の現状について何ごとかを語っているといえよう。とはいえ前年十一月刊行の本書は大いなる番外とし、何らかの意味で彼我の状況の隔たりが際立つ書物という観点から、以下三点を順不同に挙げる。

『ジャック・デリダ講義録死刑Ⅰ』(高桑和巳訳、白水社)。ジョスパン内閣期のこの講義録を、「極刑」廃止を目覚ましい達成のひとつに数えるフランス社会党の政治的死が告げられたばかりの現在、それが議事日程に上るかすかな兆候もないわたしたちの国の現状のなかでひもとくことには独特の味わいがある。

ソウ泳日『世界文学の構造』(高井修訳、岩波書店)。韓国の文学状況を挑発しつつ文学的近代性の問いを考究する本書は、議論の前提をなす基本的事実の教示によっても胸を打つ読み物である――わたしたちの隣国ではこの二十一世紀において、世界文学全集が流行しているのだ。

ブレイディみかこ『子どもたちの階級闘争』(みすず書房)。何よりこの比類なく美しい闘争の書を語りたかったが、とうに紙幅は尽きている。(かたおか・だいすけ=東京大学研究員/フランス文学・社会思想史)
砂川秀樹(文化人類学)
 
森山至貴『LGBTを読みとく』(ちくま新書)。性的マイノリティに関する初心者向け知識から始まり、クィア・スタディーズの基礎に至る入門書。多数の文献を網羅した読書案内はさらに学びを深めたい人に便利。

白波瀬達也『貧困と地域』(中公新書)。「あいりん地区(釜ヶ崎)」が、高度経済成長期を境に単身男性の日雇い労働者が集まる街へ変化した歴史、経済状況や制度の変化の中で生じた問題を丹念に描く。様々なマイノリティ性を持つ人が集まるこの街にいた/いるであろう、性的マイノリティのことにもふと思いを馳せた。

マーゴ・デメッロ『ボディ・スタディーズ』(田中洋美監訳、晃洋書房)。健康/病、老い、生殖、人種、ジェンダーといった身体に関わるテーマの議論のポイントを整理。セクシュアリティや階層を論じる際にも、身体がどのように経験され表象され、せめぎ合いの場となるかを思考する必要性を再認識した。(すながわ・ひでき=文化人類学者)
植村八潮(出版学)
 
福間良明『「働く青年」と教養の戦後史―「人生雑誌」と読者のゆくえ』(筑摩選書)。勤労青年らが愛読した『葦』や『人生手帳』は、教養を語り、生きる苦悩を分かち合う場としての「想像の読者共同体」であった。両誌の編集者らは、大学の大衆化とともに実利主義、処世術を説く雑誌を創刊するが、今日の自己啓発本ブームにつながるようでもある。

芹川洋一・佐々木毅『政治を動かすメディア』(東京大学出版会)。メディアの敗北、ポスト・トゥルース、偽ニュースの言葉が飛び交い、広い意味でメディアが注目されている。政治のメディア利用が進む中で、ジャーナリズムの役割を問う。

武田徹『日本ノンフィクション史―ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)。フィクションに非ず(ノン)として、その他扱いで始まったノンフィクションが自立した分野として確立される過程を描く。事実の正確な記述をもって真実を「物語る」という道は、実は険しく高い峰を目指すこと。(うえむら・やしお=専修大学教授・出版学)
木本好信(日本古代史)
 
低調だといわれる日本古代史研究だが、上半期の本格的な研究書を中心に三冊紹介してみる。

中野渡俊治『古代太上天皇の研究』(思文閣出版)は、持統・元正・孝謙という女性の太上天皇の成立や存在意義、平安時代前期の平城・清和太上天皇を中心に王権構造などに焦点をあわせて、古代の太上天皇の実態を解明する。

市大樹『日本古代都鄙間交通の研究』(塙書房)は、八・九世紀を主として、古代国家の成立と中央集権的な交通制度の整備が密接な関係にあるということを前提に、都鄙間交通の制度的特質を分析しながら、律令国家の地方支配の特質を闡明しようとする。

三冊目は一般も対象の好著である瀧浪貞子『藤原良房・基経』(ミネルヴァ書房)。藤原道長に代表される王朝の栄華を誇る藤原摂関家、その基礎を築いた二人、最初に摂政となった良房、そして最初の関白に昇った基経の生涯を叙述しながら、承和の変や阿衡の紛議など政治動向などにも論及する。(きもと・よしのぶ=龍谷大学文学部特任教授・日本古代史)
長谷川一(メディア論)
 
水沢光『軍用機の誕生 日本軍の航空戦略と技術開発』(吉川弘文館)は、日本における航空機開発の発達を、国家・軍・民間がせめぎ合うなかでの技術開発体制の成立過程として示す。回想録やノンフィクションではこれまで多くが語られてきたが、本書はあくまで歴史研究の立場を堅持する点で稀少である。戦時中の日本が、欧米とは対照的に、基礎研究を奨励したという指摘が興味深い。

中村秀之『特攻隊映画の系譜学 敗戦日本の哀悼劇』(岩波書店)が取り扱うのは、その軍用機をめぐるメロドラマ的表象である。〈昇天〉〈蕩尽〉という二つのイメージの複合的な現れとして各作品を読み解きつつ、その言説の磁場がやがて自壊してゆくさまを炙りだす。

植田康夫・紅野謙介・十重田裕一編『岩波茂雄文集』(全三巻、岩波書店)は、近現代日本の出版および言論の枠組みの確立に枢要な役割をはたした岩波書店創業者の文章の集成。「教養主義」の時代の心性を理解するうえでも重要な資料である。(はせがわ・はじめ=明治学院大学教授・ミシガン大学客員研究員、メディア論・メディア思想・文化社会学)
岩本真一(衣服産業史)
 
グローバル時代を反映し衣服、特に洋服の描かれ方が変わった。井上雅人『洋裁文化と日本のファッション』(青弓社)は戦前に種が蒔かれ戦後から一九六〇年代半ばまでの二〇年間に全国民的規模で普及した洋裁を日本のファッション史の一面として捉える。ファッション誌、ファッションショー、アンアン等の馴染みある項目から戦後日本のファッション文化を詳しく論じる。洋裁文化の衰退後、既製服産業が主力となって日本のアパレル産業は発展したが、バブル崩壊後に急速な衰退をみせた。杉原淳一・染原睦美『誰がアパレルを殺すのか』(日経BP社)は、例年売上高の1割が減少しているアパレル業界について、川上・川中部門や小売りの代表格だった百貨店、および新興企業などを取り上げ、具体的な再生案を多数発掘している。今木加代子『衣装の語る民族文化』(東京堂出版)は世界の民族衣装を衣と装に分け、呪術的な用い方(装)から衣服立体化の経緯(衣)にいたる丁寧な主題選択に基づき、豊富な絵図資料をもとに世界の衣装を類型化した。従来、装に引きずられがちであった衣装研究において、世界的視野で衣服形態に着目した点が画期的。洋服と民族衣装が水平に展開されている。(いわもと・しんいち=同志社大学経済学部嘱託講師ほか・衣服産業史)
長野順子(美学)
 
ネルソン・グッドマン『芸術の言語』(戸澤義夫・松永伸司訳、慶應義塾大学出版会)。近年ようやく英米系の分析美学が紹介され始めたが、その最も基本的な文献とされる一冊。「再現/表現」「美的価値」といった伝統的概念を解きほぐし、諸芸術を「記号システム」とみなす分析は今なお新鮮。

アーサー・C・ダントー『芸術の終焉のあと 現代芸術と歴史の境界』(山田忠彰監訳、三元社)。現代アメリカのアートシーンの転変を追跡しつつ分析的思考を続けた哲学者/美術評論家による論文集。自らの「アートワールド」論をも越えて、歴史の終焉以後の様々な芸術形態の「多元的共存」を予見する。

渡辺裕『感性文化論 〈終わり〉と〈はじまり〉の戦後昭和史』(春秋社)。音楽についての既成概念を覆す数々の仕事を通じて若き後進に刺激を与えてきた研究者による、戦後文化論。1964年のオリンピック経験を中心に、日本人の感性全体に関わるパラダイム転換の諸相を描き出す。

もう一冊、梅原賢一郎ほか著、富田大介編『身体感覚の旅 舞踊家レジーヌ・ショピノとパシフィックメルティングポット』(大阪大学出版会)。フランス・南太平洋・日本を繋ぐ舞踊家や研究者の体・声・音をめぐる創作プロジェクトの記録。新しい「アート」の形の一例である。(ながの・じゅんこ=大阪芸術大学教授・美学)
五十嵐太郎(建築史)
 
ピーター・ペジック『近代科学の形成と音楽』(竹田円訳、NTT出版)は、音楽と科学の関係を歴史的に論じた大著。むろん、比例論を媒介して両者をつなぐ試みは従来も存在したが、本書が画期的なのはさらに拡張し、様々な科学者に音楽がどのようにインスピレーションを与えたかを踏み込んで考察したこと。

服部一晃の『妹島和世論 マキシマル・アーキテクチャーⅠ』(NTT出版)は、論理的かつ物語的にセジマのデザインを解析した好著。建築批評において期待の若手が登場した。

櫛野展正『アウトサイドで生きている』(タバブックス)は、死刑囚のアートなど、鞆の浦のミュージアムで攻めの展示を企画していたキュレーター(現在は独立)が日本各地で取材した驚くべき表現者のルポルタージュ。例えば、大量の昆虫の死骸で制作した武者人形や、自作アートで埋め尽くされた住宅。売るためではなく、創作意欲が彼らをつき動かす。今やアール・ブリュットが制度化=政治化されるなか、そうした枠組を軽く一蹴するアウトサイダーのアウトサイダーにこそアートの原点を感じる。(いがらし・たろう=建築史家・東北大学大学院教授)
成田龍一(日本近現代史)
 
小笠原清・梶山弘子編『映画監督 小林正樹』(岩波書店) 「人間の条件」や「東京裁判」などを監督した小林正樹の集成。全作品の紹介から考察、日記やシナリオの収録まで多面的な編集となっているが、なかでも小林への長時間のインタビューは読み応えがある。小林自ら作品のモチーフをあかし、実現しなかった企画にも言及する。小林正樹という傑出した監督の全容に接近しうる、最適の著作が刊行された。

飯田泰三『大正知識人の思想風景』(法政大学出版局) 「明治知識人」や「戦後知識人」などに比し、大幅に遅れている「大正知識人」についての考察。すでに40年以上前に、学位論文として提出された論考が単行本化され刊行された。左右田喜一郎、土田杏村、あるいは長谷川如是閑らを取り上げ、先駆的かつ本格的な議論が提供されている。すでに「大正知識人」をめぐって、こうした精度の高い考察がなされていたことに感銘を受ける。

ヘイドン・ホワイト『歴史の喩法』(上村忠男編訳、作品社) 『メタヒストリー』以降に刊行された著作のなかから、主要論文7編を、思想史家の上村忠男が抽出し編んだ一冊。『メタヒストリー』以後にも、ホワイトは歴史―歴史学の方法に積極的に発言していたが、その様相があらためて明らかにされる。上村の編集は「解題」「解説」をふくめ目が利いており、ホワイトの議論の展開がよくうかがえる一書となっている。(なりた・りゅういち=日本女子大学教授・日本近現代史)
河本真理(西洋美術史)
 
アーサー・C・ダントー『芸術の終焉のあと――現代芸術と歴史の境界』(山田忠彰監訳、三元社)は、アメリカの哲学者ダントーの主著の待望の邦訳。アンディ・ウォーホルによって「芸術(モダニズム)」が終焉した後に到来する、様式的統一性が欠如し、ナラティヴによって方向づけられる可能性のない「ポスト・ヒストリカルな」現代における芸術制作の可能性を問う。

伊藤大輔・加須屋誠『天皇の美術史2 治天のまなざし、王朝美の再構築 鎌倉・南北朝時代』(吉川弘文館)は、天皇と美術の知られざる関係に光を当てる意欲的なシリーズの第一回配本で、院政期・鎌倉時代および(従来等閑視されていた)十四世紀美術を多元的に論じている。歴代の治天が権威創出のために、古典たる王朝美を継承・再構築していく際に交錯する、多様な「まなざし」の力学とその美意識(「風流」/「過差禁制」など)が明らかにされる。

利根川由奈『ルネ・マグリット――国家を背負わされた画家』(水声社)は、二十世紀ベルギーの芸術家マグリットが第二次世界大戦後に参加した国際展と彼が手がけた多くの公共事業作品に着目し、シュルレアリストのマグリットが(意外にも)ベルギーの国家イメージ戦略において重用された逆説的な理由とその役割を探る。「もう一人のマグリット」を炙り出す意欲作。(こうもと・まり=日本女子大学教授・西洋美術史)
関智英(中国近現代史)
 
小野寺史郎『中国ナショナリズム―民族と愛国の近現代史』(中央公論新社)は、ナショナルシンボルの専門家による中国近現代通史。近年の研究成果もふんだんに盛り込み、現代中国のナショナリズムが、近代以来の歴史過程の中で形成されてきた事情を、わかり易く跡付ける。

韓国の国民的スポーツと言われる野球。その受容・定着の歴史を探ったのが、小野容照『帝国日本と朝鮮野球―憧憬とナショナリズムの隘路』(中央公論新社)だ。日本野球の影響を払拭しようとする韓国球界だが、実際には朝鮮人自身が日本野球を参考に、その普及を試みていたという指摘は興味深い。

名古屋市美術館の展覧会図録でもある竹葉丈編著『異郷のモダニズム―満洲写真全史』(国書刊行会)は、三百点を超す写真で満洲を振り返る。淵上白陽・満洲写真作家協会・雑誌フロントなど、おなじみのテーマはもちろん、ポーレー・ミッションによる戦後の写真までも網羅し、四半世紀にわたる満洲写真が一望できるのは嬉しい。(せき・ともひで=日本学術振興会特別研究員・明治大学兼任講師・中国近現代史)
秦美香子(漫画研究)
 
山田奨治編著『マンガ・アニメで論文・レポートを書く 「好き」を学問にする方法』(ミネルヴァ書房)。卒論・修論の「サンプル論文集」とされているが、一般的な論集としても読み応えがある。第十一章「言語」は、読者が著者による分析過程を追体験しながら研究法を学べるよう工夫されており、初学者には非常に勉強になる。

吉光正絵・池田太臣・西原麻里編著『ポスト〈カワイイ〉の文化社会学 女子たちの「新たな楽しみ」を探る』(ミネルヴァ書房)。若い女性に特有の感性とされていた〈カワイイ〉は、今や日本文化一般を象徴する語の一つにもなった。現在の日本における様々な文化的事象が各章で考察され、それらを通して編者らが「ポスト〈カワイイ〉」と呼ぶ時代の有り様を窺い知れる構成になっている。

是永論『見ること・聞くことのデザイン メディア理解の相互行為分析』(新曜社)。マンガなどのメディア表現に対する読者の理解がどのように産出されるかを分析している。エスノメソドロジーの視点を応用しメディア表現を分析する方法が参考になる。(はた・みかこ=花園大学准教授・漫画研究)
郷原佳以(フランス文学)
 
言語の問題に照準を当てることで文学研究の枠を広げてくれる三冊。

平塚徹編『自由間接話法とは何か 文学と言語学のクロスロード』(ひつじ書房)。フローベールが発明した文学的話法として知られる捻れた語りが「自由間接話法」と名づけられてから一世紀になるが、この話法は文学理論と言語学が手を結ばない限り解明されえない。本書は二〇一四年に日本フランス語学会で行われた言語学と文学理論の専門家によるワークショップを元にした論文集で、両分野の知見を結集してこの話法に迫っている。「文学的言語」は存在するかという問いに関心のある人は必読。

星野太『崇高の修辞学』(月曜社)。ロンギノスの『崇高論』が「美学的崇高」に回収されてきたという観点に立ち、ロンギノスから現代に至るテクストを分析し「修辞学的崇高」の系譜を取り出そうとする野心的な著作。「崇高」そのものというよりも、言語が直面せざるをえない逆説に様々な角度から迫った書物として、その意味で、ほとんど文学論として読んだ。

橋本陽介『物語論 基礎と応用』(講談社)。『ナラトロジー入門』(水声社)に続く物語論概説だが、日本文学の例も多く、物語読者一般に向けて理論の意義を示そうとしている。「物語現在」の捉え方に特徴がある。作家志望者向けの指南書は文学理論の勉強になると常々思っていたが、本書はいわばそれを踏まえて書かれた読者向けの技法書。(ごうはら・かい=フランス文学)
臼杵陽(中東地域研究)
 
トランプ米政権が発足してから、中東情勢は混迷の度合いを深めたようだ。トランプ大統領の最初の中東訪問がサウジアラビア、イスラエル、パレスチナ、バチカンであったところをみると、三つの一神教に配慮したのかもしれない。だが、米大統領の中東政策は宗派紛争を煽る結果を招いているようにも思える。そんな中でトルコ、イラン、サウジ、エジプト、イスラエルといった中東の地域大国の動きがこれからを規定していくことになるだろう。とりわけ、米ロを天秤にかけて「オスマン主義」の復活をめざすトルコは台風の眼だ。今井宏平『トルコ現代史 オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』(中公新書)はその現代史を概観した待望の書である。その隣国のシリア内戦は依然として出口が見えない。青山弘之『シリア情勢――終わらない人道危機』(岩波新書)は、シリア内戦のマッピングには最適である。現代アラブを知るためにはその歴史的前提となるオスマン統治期が決定的に重要である。長谷部史彦『オスマン帝国治下のアラブ社会』(山川出版社)はこれまでの研究の空白を埋める簡潔な概説書である。(うすき・あきら=日本女子大学教授・中東地域研究)
細見和之(ドイツ思想)
 
武井彩佳『〈和解〉のリアルポリティクス――ドイツ人とユダヤ人』(みすず書房)。戦後ドイツとイスラエルの〈和解〉を可能にしたものはなにだったのか。本書はそれを、双方における利害をめぐる「リアルポリティクス」と位置づけ、その経緯を実証的な研究として丹念に跡づける。そのうえで、二一世紀において「ホロコースト」の記憶をどう継承すればよいのか、問いは真摯に開かれたままだ。

高階杞一『詩歌の植物――アカシアはアカシアか?』(澪標)。洋の東西を問わず、詩歌にしばしば登場する花や草や樹木。あらためて確認すると、間違い、誤解、勘違いがずいぶんあるようだ。それはなぜ? H氏賞受賞詩人で、造園技師として働いていたこともある著者による、薀蓄と謎解きがスリリング。

『トレブリンカの地獄――ワシーリー・グロスマン前期作品集』(赤尾光春・中村唯史訳、みすず書房)。大著『人生と運命』、『万物は流転する』など、一連のグロスマンの翻訳がこれで出揃った。ロシア革命百年の年にまことにふさわしいと言うべきか。とくにタイトル作品は、トレブリンカ絶滅収容所についてのもっとも早いルポルタージュとして、限りなく貴重。(ほそみ・かずゆき=京都大学教授・ドイツ思想)
原田直子(信愛書店en=gawa)
 
A・キンブレル『生命に部分はない』(福岡伸一訳、講談社現代新書)。進む人体パーツの商品化に警鐘を鳴らす名著。生命はそもそも誰のものか、神の領域に土足で上がり込む哲学なき特許ビジネスに震える。

栗原康『死してなお踊れ 一遍上人伝』(河出書房新社)。文字の隙間から立ち上がる念仏に気おされてページを繰る指が止まらない。かとおもえば空也上人像に添えられた鹿の杖にほろりとする、そんな著者に振り回されるここちよさ。「捨て身で生きろ」ですか。

アン・チャップマン『ハイン 地の果ての祭典』(大川豪司訳、新評論)。「あのころは本当に楽しかった」、部族の秘儀を語る100年前まで息づいていた神話世界の貴重な記録。私たちはどこからきてどこへ行くのか、「文明」の仮面をつけた強欲によって永遠に失われた楽園の遠い隣人たち。

(番外編) 武田一義『ペリリュー 楽園のゲルニカ』(白泉社コミックス)。水木しげる亡き後最有力の若手戦記漫画家誕生を喜びたい。(はらだ・なおこ=信愛書店 en=gawa)
阿部公彦(英米文学)
 
(1)岩田美喜『兄弟喧嘩のイギリス・アイルランド演劇』(松柏社)は野心的な研究書。「兄弟喧嘩」というテーマでイギリス文学・文化を読み直し、中世から近代までカバーする。初期近代イングランドでは兄弟が社会システムの一部、ゆえに精神的な紐帯とは無縁だったとか。大英帝国の先兵は弟キャラで、弟はプロメテウスのように便利に使われた、とか。論述がオープンで風通しがよいのもいい。
(2)高村峰生『触れることのモダニティ』(以文社)は、「感触」について文学、美術、哲学、政治などさまざまな視点から考察した好著。D・H・ロレンス、スティーグリッツからベンヤミン、メルロ=ポンティなど多岐にわたる対象を、よけいなてらいもなく透明な文章で整理し、資料価値もある。
(3)坂本忠雄『小林秀雄と河上徹太郎』(慶應義塾大学出版会)は若い頃に担当編集者として両氏と付き合った著者が「小林さん」「河上さん」とさんづけで思いをつづる貴重な記録。本人たちを前にしたような緊張感と、編集者らしい細部への視線とが読み所。理屈っぽくならないところもいい。(あべ・まさひこ=東京大学准教授・英米文学、文芸評論)
木村玲欧(防災・減災学)
 
畑中章宏『天災と日本人 地震・洪水・噴火の民俗学』(ちくま新書)は、歴史・民俗学を通して、災害・防災への造詣を深められる好著。水害、地震・津波、噴火・山体崩壊、雪害・風害の各災害について、現代の災害を端緒に、豊富な事例と平易な語り口で紐解くという各章の構成力に敬嘆する。

アベナオミ『被災ママに学ぶ ちいさな防災のアイディア40』(学研プラス)は、イラストレーターである著者の豊富でわかりやすく暖かみのあるイラストが特徴。1日1防災・あの日から始めたこと、ミニマル防災(ミニマリストの防災)など、生活者の視点で気軽に実行できる間口の広い防災対策集として専門書を凌駕する。

ピースボート災害ボランティアセンター編『災害ボランティア入門』(合同出版)は、災害ボランティアに行く前の必読書。九十頁弱の構成ながら、被災地の現状、ボランティアの使命・作業内容・注意事項等が豊富な現場写真とともに簡明に記述されている。(きむら・れお=兵庫県立大学准教授、防災・減災学)
森反章夫(社会学)
 
奥村隆『社会はどこにあるか』(ミネルヴァ書房)。副タイトルに「根源性の社会学」とある。なるほど本書は、社会学的な思考そのものの「脱構築」の試みとして読まれる。根源性は感覚までも明らかにしようとする分析に向かう。そして、問題は、そのような感覚がどのように生産・反復されるのかという問題にいたる。ここに、装置論がからまないか。

平野恵嗣『水俣を伝えたジャーナリストたち』(岩波書店)。1971年東京大学駒場では折原浩氏は授業再開拒否闘争中で社会問題を扱う「連続シンポジウム」を開催されていた。そのなかの重要なテーマが「水俣」であった。本書は、水俣病をめぐるネットワークの厚みをあらためて確認させてくれる。

佐藤滋編著『まちづくり教書』(鹿島出版会)。佐藤チームとは95年阪神淡路大震災以降の付き合いである。都市計画のど素人の私は住民と共に佐藤研に多くをご教示いただいた。本書は、その佐藤研の実践の集大成の開示である。都市計画の素人でも読み進められる。しかも、その内容はまちづくりの最上の成果である。(もりたん・あきお=東京経済大学教授・社会学)
町口哲生(評論)
 
國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)。言語の歴史を辿ると受動態ではなく、かつて存在していた中動態こそが能動態と対立する。それを古代ギリシアから丹念に確認した重要書。スリリングな読解が展開され、とりわけフーコーとアレントの権力論を緻密に読み解いた第六章が見事だった。

藤田直哉『新世紀ゾンビ論』(筑摩書房)。ブードゥー・ゾンビから近代ゾンビ、そしてゼロ年代にゾンビ映画は復活を遂げ、走るゾンビ・賢いゾンビとさまざまな形が生まれた。それらを的確に整理するだけでなく、日本独特なデフォルメ・ゾンビと美少女ゾンビに共存の可能性をみる。ゾンビ論の決定版。

杉田俊介『ジョジョ論』(作品社)。荒木飛呂彦の大作に内在する可能性に着目し作品を組み立て直す。それは同時に作品を生き直すことであるが、杉田は自立・欲望・平等・自己啓発・協働・運命・奇跡といったテーマで縦横無尽に論じ、自己啓蒙の書とした。ゾンビ論の部分も秀逸。(まちぐち・てつお=評論家)
巽孝之(アメリカ文学)
 
今年二〇一七年はインディアンの王女にしてイギリス人に嫁いだポカホンタスの没後四百周年。松尾弌之の最新刊『列伝アメリカ史』(大修館書店)は評伝形式でまさにポカホンタスから大富豪ロックフェラー、フェミニスト思想家フリーダン、さらにトランプ大統領まで15名のキーパースンを楽しく語る一冊。類書がないわけではないが、松尾独自の歴史理解の深さには驚嘆するしかない。

待ちに待った福岡大学教授・大島由起子氏の第一著書『メルヴィル文学に潜む先住民――復讐の連鎖か福音か』(彩流社)が届く。長年、本書表題どおりの方法論でブレることなく、カフカら不条理小説の先駆とも目される「代書人バートルビー」すらインディアンの置かれた苦境と無縁ではないとする新たな読みで専門家をアッと言わせた著者渾身の研究が遂にまとまり、嬉しい限り。

そしてアメリカ・ロマン派文学研究の権威である伊藤詔子のライフワークともいうべき『ディズマル・スワンプのアメリカン・ルネサンス』(音羽書房鶴見書店)はポーを中核にストウ夫人やソロー、フォークナーとの関わりにまで踏み込み、ゴシックからエコクリティシズムまで幅広い視角で切り込んだ、まさに文学思想史の万華鏡とでも呼ぶべき一冊だ。(たつみ・たかゆき=慶應義塾大学教授・アメリカ文学)
佐々木力(科学史・科学哲学)
 
三谷太一郎『日本の近代とは何であったか――問題史的考察』(岩波新書)。政党政治/資本主義/植民地帝国/天皇制の四項目について、それらの成立と現在までの問題史を簡明に記述した碩学ならではの佳作。教育勅語への静かな憤怒の念と、福島の深刻な原発事故を日本資本主義の挫折ととらえた透徹した所見が印象的。自然科学思想と政治との関係についてのバジョットを援用しての議論は秀逸。

長沼美香子『訳された近代――文部省『百科全書』の翻訳学』(法政大学出版局)。十九世紀の英国で刊行された百科全書の明治初年になされた系統的な翻訳の企図から、近代日本思想の成立を跡づけた労作。数学者の菊池大麓が「修辞及華文」についての論考を訳した理由がよく理解できた。

江田憲治・長堀祐造編訳『陳独秀文集3』(平凡社・東洋文庫)。中国トロツキズムの第一の指導者の晩年の言説の邦訳。陳独秀思想は「生涯にわたる反対派」の政治思想と特徴づけられている。社会主義が民主主義を伴ったかたちでなくては存続しえないことを説いた思想はいまこそ重要である。(ささき・ちから氏=中部大学中部高等学術研究所特任教授・科学史・科学哲学専攻)
小川さやか(文化人類学)
 
カルロ・セヴェーリ『キマイラの原理』(水野千依訳、白水社)は、儀礼的記憶の実践に基づく図像的伝統の豊潤なフィールドを横断し、西洋文化のかなたに位置づく記憶術の解明を企図。プリミティヴ・アートや文字の歴史、「口承的」な文芸研究から、イメージに基づく思考実践に関する独創的な人類学的研究へ。

石井美保『環世界の人類学』(京都大学学術出版会)は、インドの神霊祭祀を舞台に人間どうしと人間と人間ならざるものとの関係性で紡がれる世界を生物学者ユクスキュルの「環世界」とそれを発展させたヴァイツゼッカーの議論を手がかりに解き明かし、近年の存在論的人類学の思潮を精緻な筆致で乗り越える。

稲賀繁美編『海賊史観からみた世界史の再構築』(思文閣出版)は、大航海時代の海賊から、ネット世界を跋扈する現代の海賊まで、様々な海賊行為から新たな世界史・文明史観を構想。三六人もの学際的な執筆者の船出に羅針盤を与えた編者の世界観が何よりユニークだ。(おがわ・さやか=立命館大学先端総合学術研究科准教授・文化人類学・アフリカ研究)
倉本さおり(ライター)
 
くだけた語りから繰り出されるぶっとんだサイエンス・ノンフィクションが大豊作の近年。中でもキワッキワの著者がこちら。

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』(光文社新書)は、いわばエクストリーム昆虫学者の記録。出オチのような表紙に引くなかれ。実はこれ、著者の念願の夢を果たすための秘密兵器であることが読めばわかる……はず。

川上和人『鳥類学者だからって、鳥が好きだと思うなよ。』(新潮社)はエクストリーム鳥類学者の記録、というか妄想。森永チョコボールのマスコット・キョロちゃんを実在の鳥類とみなし、その生態を8ページかけてガチ検証するくだりに好奇心の愚かしさ愛おしさが凝縮されている。

小倉ヒラク『発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ』(木楽舎)は前代未聞の「発酵文化人類学者」の記録。発酵や微生物というキーワードにより、個々の文化の思いがけない関連性が次々に明らかになってゆく過程に興奮必至。(くらもと・さおり=ライター)
石原千秋(日本近代文学)
 
シルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体』(小田原琳・後藤あゆみ訳、以文社)。マルクスとフーコーの盲点を突く異色の本。近代への「移行期」などとソフトな言葉で呼ばれる時期に魔女狩りがあった。それはペストの大流行による労働人口減に遠因があり、支配層に恐怖を覚えさせた貧しい女性労働者の連帯を立ち切り、カトリックも手を染めることで、プロテスタントによって分断されたヨーロッパ統合の最初の事例となったと言う。魔女狩りが終わったときには、女性は従順なイメージに変わっていた。言うまでもなく、近代資本主義の力の源泉である。恐ろしい本だが、これを読まずしてもう近代は語れない。

光石亜由美『自然主義文学とセクシュアリティ 田山花袋と〈性欲〉に感傷する時代』(世織書房)。広い意味での『蒲団』論である。『蒲団』の竹中時雄は「女々しい男」だが、彼らは「女らしさ」とは連帯せず、「煩悶」に「感傷」する男たちの感性の共同体を形成したと言うのだ。何が何でも連帯する男たちを浮かび上がらせた手腕はみごと。ただ、『キャリバンと魔女』を読むと、フーコーの踏まえ方がナイーブに見えてしまう。

関谷博『明治二十年代 透谷・一葉・露伴 日本近代文学成立期における〈政治的主題〉』(翰林書房)。二葉亭四迷『浮雲』は「政治的主題」の可能性が閉じられたところから近代小説となったとする『浮雲』論には目を開かされた。一葉の小説にまで「政治的主題」を読み込む手腕にも感服。この「政治的主題」が日本の資本主義とどう切り結ぶのかを考えたくなった。(いしはら・ちあき=早稲田大学教授・日本近代文学)
齋藤純一(政治理論)
 
田中将人『ロールズの政治哲学――差異の神義論=正義論』(風行社)は、『ポリティカル・リベラリズム』を『正義論』と並ぶロールズの主著として位置づけ、それが価値観の多元性のもとでの「正統性」を主題とするものであることを論じる。両著の関係をどうとらえるかについては論争が続くと思われるが、「正義」から「正統性」への移行はけっして「後退」ではないとする著者の議論にはかなりの説得力がある。

藤原聖子『ポスト多文化主義教育が描く宗教――イギリス<共同体の結束>政策の功罪』(岩波書店)は、イギリスの宗教教育が、この間、異なる価値観の理解を促すものから、社会への貢献を重視するものに変化してきたことをシラバス・教科書をもとに具体的に分析し、それを「コミュリタリン的転回」と呼ぶ。今後のシティズンシップ教育を考えるとき、この「転回」が何を意味するかについての検討はとても示唆的である。

加藤哲郎『「飽食した悪魔」の戦後――731部隊と二木秀雄『政界ジープ』』(花伝社)は、731部隊の中堅として数々の人体実験を企画、実行したにもかかわらず、その資料と引き替えに戦犯となることを免れた人物が戦後どう振る舞ったかを周到に描く。戦後医療体制の起点を明らかにするとともに、「科学者の社会的責任」がこの社会でどう問われてきたのかについて再度考えさせる。(さいとう・じゅんいち=早稲田大学教授・政治理論)
藤塚巨人(くまざわ書店的場店)
 
河野通和『言葉はこうして生き残った』(ミシマ社)。休刊となった雑誌「考える人」元編集長のメールマガジンの書籍化。言葉に関わる仕事の魅力を優しい語り口で綴っている。同著者『「考える人」は本を読む』(角川新書)とともに読書案内の好著でもある。

モルモット吉田『映画評論・入門!』(洋泉社)。好評の(映画秘宝セレクション)シリーズの一冊。映画評論をめぐる論争・事件の経緯を通して映画評論とは何かを感じられる内容。「映画評論を語ることは、取りも直さず映画を語ることに他ならない」に納得。

武田徹『日本ノンフィクション史』(中公新書)。誰が「『ノンフィクション』を殺すのか?」と叫ばれる現在、ノンフィクションという概念がどう誕生したのかを明らかにし、「物語るジャーナリズム」としてのノンフィクションの可能性を問うた意義は大きい。(ふじつか・きよもり=くまざわ書店的場店店長)
田中智彦(哲学・政治思想)
 
本川達雄『ウニはすごいバッタもすごいデザインの生物学』(中公新書)。生きもののからだはなぜそうなっているのか。平明に解き明かされる「造化の妙」。そのしくみがわかるほどに、生きものがそのように「ある」ことの不思議さもまた深まる。生物学とは本来ひとを謙虚にさせるものなのかもしれない。

クロード・レヴィ=ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』(中沢新一訳、角川書店)。クリスマス論の白眉が復刊。サンタクロース幻想をそれと承知でなぜ私たちは守ろうとするのか。その謎解きは、ひとの社会が昔も今も「生者」だけで成り立ってはいないことに目を開かせる。訳者解説も充実。

長谷川晶一『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)。ファンならずとも琴線(と時に涙腺)に触れる佳話の数々。ただの礼讃に終わらないのは著者の「愛」の深さゆえだろう。ひとを知り歴史を知ると、試合は違って見えてくる。球場で風に吹かれて飲むビールもまた、美味くなる。(たなか・ともひこ=東京医科歯科大学准教授・哲学・政治思想)
山田健太(言語法研究)
 
ジャーナリズム考察の三冊。

澤康臣『グローバル・ジャーナリズム―国際スクープの舞台裏』(岩波新書)は、「パナマ文書」スクープの調査チームとして日本から参加した共同通信記者の著。世界各地で活躍する“一匹狼”の調査報道記者が、同時に組織を超えて国際連帯して組織犯罪の闇を暴こうとする、「いま」のジャーナリスト像を描く一冊。

武田徹『日本ノンフィクション史―ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)は、ノンフィクションがどう誕生し発展したかを辿る。単なる系譜を追うものではなく、横糸にメディアを絡ませ、文学・雑誌・テレビ・ケータイ、そしてアカデミズムと交わる中で、「物語るジャーナリズム」として新しい形を生み出す可能性を探る一冊。

樋口陽一・中島徹・長谷部恭男編『憲法の尊厳―奥平憲法学の継承と展開』(日本評論社)は、現在の日本の憲法学界を代表する二四名からなる壮大なる追悼論文集。一五年に亡くなられた奥平康弘先生の「表現の自由」への強い思いを改めて思い起こす一冊。(やまだ・けんた=言論法研究者・専修大学教授)
与那原恵(ノンフィクション作家)
 
さまざまな「旅」について考えさせられた三冊。

浜本隆志『シンデレラの謎』(河出ブックス)は、よく知られるシンデレラ譚が、ヨーロッパ生まれではなく、紀元前五、六世紀の古代エジプトにまでさかのぼることができ、世界中のほとんどの地域に分布していることを解き明かしていく。各地の倫理観や文化を織り込んで変容するシンデレラ譚。文化の伝播、さらには人類の壮大な移動の足跡にまで迫った。

森まゆみ『子規の音』(新潮社)は、短命を悟りつつも、その切実さゆえに旅を重ねた正岡子規の姿が浮かびあがる。人に出会い、清澄なまなざしで旅先の風景を詠んだ子規。病床についてからも、持ち前の明るさを失わず、町の音に耳を澄ませた。

小沢信男『私のつづりかた』(筑摩書房)は、過ぎた時間への旅といえよう。銀座生まれの著者が小学校二年の時(一九三五年)に書いた作文が残されており、やがて九十歳を迎える本人が、作文とともに記憶をよみがえらせていく。銀座の一角に息づいていたごく普通の暮らしが愛おしい。(よなはら・けい=ノンフィクション作家)
辻山良雄(Title)
 
三品輝起『すべての雑貨』(夏葉社)。西荻窪の雑貨屋「FALL」の店主が書いた、世にも珍しい雑貨論。衣食住が満たされた社会で、それまで雑貨のカテゴリーに属さなかった商品も〈雑貨化〉するようになった。もちろん〈本〉も〈雑貨化〉を免れ得ない。しなやかなエッセイから、本屋の店頭で感じていたことを言い当てられた。 

國分功一郎『中動態の世界』(医学書院)。言語の表舞台から消滅したかのように思われる「中動態」。しかしそれは、あらゆる場面で見られる二項対立を、解きほぐす可能性をもつ。認識の変化が人を、より外へ、より自由へと導く。

上間陽子『裸足で逃げる』(太田出版)。沖縄の風俗業界で働く女性たちに話を聞いた4年間の調査の記録。語られる彼女たちの人生は、つらいというよりは懸命である。自分の人生は客観的に見ることは出来ない。だからこそ著者のような「ただ、話を聞く」という向かい合い方が、人を心の底から救う時がある。(つじやま・よしお=Title店主)
鎌田東二(宗教学)
 
大澤真幸『<世界史>の哲学 近世篇』(講談社)。「<世界史>の哲学」シリーズも、古代篇・中世篇・東洋篇・イスラーム篇に続く第5冊目。大澤の世界への切込みがいよいよ近代の核心に近づき、実にスリリング。イスラーム教の聖地は厳密に固定されているが、キリスト教の聖地は移動するとか、哲学者による神の存在証明と議会による王の承認は同じ構造の逆説(退位=存在否認)を孕むとか、大澤節満開で、いよいよ佳境入り。

福島泰樹『日蓮紀行 滅罪、求道、救国の旅』(大法輪閣)。『わが心の日蓮』の著書のある「絶叫歌人」福島泰樹は法華宗本門流法昌寺の住職であり、筋金入りの熱烈なる日蓮行者。その福島ならではの肉身・肉声で日蓮の軌跡を辿る熱書。教祖論述は難しい。著者の理解とスタンスが厳しく問われるから。その厳しさを百も承知で歌僧は日蓮歌枕の地を巡り詠い語る。

藤田一照・永沢哲『禅・チベット・東洋医学 瞑想と身体技法の伝統を問い直す』(サンガ)。藤田はアメリカ滞在の長い学識豊かな禅僧、永沢は在家のチベット仏教行者にして宗教学者。学問と修行と現代仏教の問題と可能性を縦横に対話する臨床禅書。(かまた・とうじ=宗教学者)
立川孝一(フランス史)
 
平山裕人『シャクシャインの戦い』(寿郎社)は、徳川幕府から蝦夷地の支配を任された松前藩に対して、一六六九年にアイヌ民族がおこした一斉蜂起の原因と結果を一次史料にあたりながら、丹念に描く。「神話」や「民俗」ではなく、「歴史」が語られようとしている。

宮崎揚弘『函館の大火―昭和九年の都市災害』(法政大学出版局)。著者はフランス史の研究者で、十七世紀トゥルーズの災害(ペスト・洪水)についての著書があるが、ここでは、存命中の罹災者一三九人の証言をもとにしながら、大火のありさまを再現すると同時に、開拓地における都市行政の脆弱性(中央権力への依存)をも指摘している。

タルディ『塹壕の戦争』(藤原貞朗訳、共和国)は昨年末の出版だが、鮮かな記憶として長く生き続けるであろう作品。第一次大戦については、戦死者の記念碑が何千という町でたてられたフランスでは少なからぬ研究があるが、これはあくまで一兵士の目から見た国家による身勝手な戦争の現実。(たちかわ・こういち=筑波大学名誉教授・フランス史)
渋谷謙次郎(ロシア法)
 
ロシア革命百周年にちなんで、関連する以下の三冊を挙げたい。

池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』(岩波書店)は、副題が象徴しているように、かつてのような十月革命勝利史観とは異なって、なぜ臨時政府が挫折し、「街頭の政治」へと雪崩れ込んだのかという問題を再検討する。

松戸清裕『ソ連という実験 国家が管理する民主主義は可能か』(筑摩書房)は、「ソ連体制=共産党の独裁・非民主的」というステレオタイプと異なって、「一党制民主主義」が、いかにソヴィエト代議員候補者の選出過程等で苦慮したのかといったリアリティを、当時のアルヒーフ資料をもとに描き出す。

的場昭弘『「革命」再考 資本主義後の世界を想う』(KADOKAWA)は、今となっては「革命」について積極的に語る人がほとんどいなくなった状況の下で、フランス革命以後の様々な「革命」の意義を再検討する。近時のアフリカの「ジャスミン革命」、「新自由主義と結合した『革命』」についての議論も見所。(しぶや・けんじろう=神戸大学教授・ロシア法)

2017年7月21日 新聞掲載(第3199号)
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