アジアびとの風姿 / 山室 信一(人文書院)絶えざる「連鎖空間」としてのアジア 「実体化」を排した「関係」主義的な「アジア」論の提唱の試み|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 書評
2017年7月24日

絶えざる「連鎖空間」としてのアジア
「実体化」を排した「関係」主義的な「アジア」論の提唱の試み

アジアびとの風姿
著 者:山室 信一
出版社:人文書院
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「アジア」とは何か、あるいは、日本は「アジア」なのか?―この古くて新しい問いは、今こそ再考されるべき、学術的にも原理的であると同時に、国際関係を含む状況論的にも、すぐれて今日的な、喫緊の課題とも言うべき懸案であろう。慥かに「アジア」という呼称は、アジアの「他者」によって名指された、「非西洋」として表象するより他に、積極的な定義づけは困難な概念である。翻って、西欧中心主義への単なる対抗的な言説や逆に土着的な文化本質主義に陥ることなく、かかる規定を逆手に取りつつ、自らの与件として引き受け、積極的に捉え直すことは可能なのであろうか?

今般、「近現代東アジアをめぐる思想連鎖」との共通の副題を冠して公刊された二冊は、著者の山室信一氏が、京都大学人文科学研究所の退任を契機に、講演などにもとづき、改めて大幅に書き直されたものである。山室氏のこれまでの著作や文業の谺が、随処に反響しつつ、取り分け、浩瀚な名著『思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企』(岩波書店、二〇〇五)のいわば実践版とでも言うべき趣を持ち、分明で懇切な語り口で、一般の読者にも近づき易い内容となっている。

因みに、有名なマテオ・リッチの『坤輿万国全図』において、既に「亜細亜(アサイア)」という言葉や文字が記載されているが、それが二番手や劣位を意味する「亜」と小さく卑しいことを表す「細」という文字の組み合わせから成ることが指摘される。次いで著者は、「アジアにある」ことと「アジアである」こと、更には「アジアになる」ということが、全く異なる次元の問題であることに、正当にも注意を喚起している。その上で、それが単なる地政学的な問題や物理的な距離、人種・民族・文明などの問題に還元されない、ヒトやモノ、思想や情報の伝播や往来、流通や環流を通じた、ある種の「空間」への「共属感覚」に根差すものであることが示唆される。

著者が提唱する「空間思想学」とは、こうした「空間感覚」など「空間」的な拡がりへの着目を通じて、単に自生的・内発的な一国史観的な観点はもとより、総じて時系列的な推移や発展にのみ注視しがちな従来の歴史学の暗黙の前提に加えて、「アジア」を実体化する如何なる本質論的な言説にも抗いつつ、より開かれた「連鎖空間」として捉える「関係」主義的な「アジア」論の試みとして、高く評価される現代的な意義や内実を具えている。こうした「連鎖視点」とも言うべき着眼が、まずはむしろ史料の直中から導かれたという、著者自身の学問的な遍歴もまた、歴史学を生業とする者にとっては、頂門の一針とも言うべき点であろう。

より具体的には、東アジア近代の「思想連鎖」とは、欧米から日本へという径路のみならず、欧米から中国へ、中国から日本や朝鮮へ、更に今一度、日本から中国・朝鮮・ヴェトナムなどのアジアへという、まさに環流のシステムとして、把握され、再構成される必要があるとされる。例えば、欧州の歴史や国情を紹介した、清末の魏源の『海国図志』や徐継畲の『瀛環志略』、米国人宣教師のウィリアム・マーティン(丁韙良)が漢訳した『万国公法』などは、日本でも翻刻や和訳されて、日本人の世界観や国際認識、国制に関する理解に対して、深甚な影響を及ぼしたが、翻って、黄遵憲の『日本国志』は、梁啓超らに対して、日本の国民国家形成への強い関心を喚起した事実が指摘される。日本の明治維新に触発されて、中国では康有為らの変法維新運動が企図され、更にそれへの対抗として、孫文らの辛亥革命が起こり、一方、日本では、中国革命に活路を見出そうとしつつも、自由民権運動の挫折を経て、大正維新の企てが起こり、それも頓挫することで、昭和維新に至る道筋が用意されるに至る。更には、中国人留学生や亡命政客を介して、日本を結節環として、欧米から日本へ、日本から東アジアへという「思想連鎖」の回路が重層的に形成される。

まず上巻に当たる『アジアの思想史脈―空間思想学の試み』では、宮崎滔天、安重根、正岡子規、井上毅らが俎上に載せられる。アジア主義者や社会活動家として著名な宮崎滔天は、著者の郷里・熊本の出身で、同じく同郷の徳富蘇峰に師事して、自由民権運動から浪花節語りなどを経て、有名な自伝『三十三年の夢』を残した。孫文の大アジア主義演説の真意を最もよく理解し得た日本人として、同書は章士釗の『大革命家孫逸仙』の種本ともなった。見果てぬ夢に終わった滔天の「志操」や「侠」の精神、志士仁人とも言うべき人となりに加えて、「アジア」、換言するなら、抑圧された民族や人民は、ヨーロッパの裡にも存在し、大アジア主義は、最終的には、王道による人類的な世界主義に帰結するものと考えた孫文の真意にも、著者は深い共感を吐露する。更に、インド独立の父・ガンディーや伊藤博文を暗殺した安重根の未完の「東洋平和論」の裡にも、そうした東洋的な平和思想、非戦・不殺生、四海同胞的な世界主義の発露が見出され、翻って、正岡子規の「四百年後の東京」、やはり著者と同郷の横井小楠や徳富蘆花、北御門二郎ら、日本の非暴力思想の史脈としても顕現しているという。
アジアびとの風姿 (山室 信一)人文書院
アジアびとの風姿
山室 信一
人文書院
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著者は一方で、憲法九条に体現された非暴力の思想を歴史的にも位置づけつつ、高く評価されるが、他方で、通り一遍のリベラルや左派とは、やや異なった、少しく陰翳に富み、些か屈折した歴史認識や歴史評価も下しており、政治的な立場に拘わらず、傾聴に値する創見も多く見受けられる。具体的には、やはり同郷の先達・井上毅に対する共感的とも言える内在的な理解、次いで、下巻に当たる『アジアびとの風姿―環地方学の試み』の第一章「アジア人の風声」における司馬遼太郎に対する些か独自の深い共感にもとづく評価である。

著者の研究の出発点で、デビュー作『法政官僚の時代―国家の設計と知の歴程』(木鐸社、一九八五)などでも扱われた、『教育勅語』の起草者・井上毅については、国学的な知の影響下に、国民国家の形成途上に際しては、自国の言語や歴史を教育する重要性を認めたものの、法制官僚として、『勅語』においても国民の内面の支配を否定し、朝鮮に対しても、むしろその中立化や法治国家化を構想して、決して侵略主義や植民地化を意図した訳ではないとする。一方、司馬遼太郎についても、ナショナル・ヒストリーの語り部といった、近年、有力な評価とは異なり、満洲体験や上田正昭・金達寿らとの対談などを通じて、彼が夙に日朝関係や韓国文化、在日朝鮮人に対しても、深い同情や親近感を抱いていたこと、最後の小説『韃靼疾風録』などに現れた、アジアの周辺に寄せる想いを正当にも指摘するが、福沢諭吉の『脱亜論』批判への彼の懐疑や不信感の表明に、むしろ肯定的な点などは、評価の分かれる部分であろう。

続く第二章「熊本びとのアジア」では、「環地方学」(リーローカロイジー)という斬新な方法論を標榜しつつ、熊本にコンパスの一方の軸足を置き、もう一方を東京に置いて、円を描いて見せる。円弧は遠く平壌や上海、更にはウラジオストクにも近接する。これは東京中心ではなく、ある地点から見直すと、世界像が如何に変わるかという、視座の逆転の試みでもある。同時に「民権」と「国権」とが逆説しつつ反転する、複雑な縺れ合いは、それ自体、近代日本に固有の政治風土とも言えようが、アジア主義や征韓論の如き言説が、九州の地から多く発せられた所以にも、深く思い至るものがある。

それにしても、熊本出身者とアジアとの深い関わりには、その質量ともに、文字どおり圧倒される。藩校・時習館や私塾などから、井上毅や竹添進一郎らに続いて、岡松甕谷、狩野直喜、宇野哲人など刑法学や支那学研究の先駆者も輩出した。アジアの連帯を説いた人々として、興亜会や東亜同文会を創設した長岡護美、あるいは、台湾や朝鮮での調査や開拓、領有や産業開発に携わった多くの人々が活写されるが、ここでも、彼らの善意の部分に光が当てられる傾きもまた、否めない。その他、閔妃殺害事件に関与した人々、実業家、支那通やジャーナリストら、夥しい数の有名無名の人士に言及するが、おそらく著者が、最も深い共感と哀悼の念を寄せているのは、旧満洲やロシアで、特務機関の諜報活動に従事しながら、『城下の人』『曠野の花』などの手記に「北のからゆきさん」への深い同情の念を記した、石光真清ではなかろうか。蓋し「アジア人になる」とは、他者の身になり得る「異化作用」でもあると考える著者の真骨頂であろう。他にも旧満洲国との関連で、岸信介、安部公房、山田洋次らに言及した件も、大いに肯綮に中る。

著者の独自の評価や論定には、異論もあろうが、豊富な情報と何よりも対象への深い愛着や熱気に富み、何処か無頼な懐の深さと謙虚な感覚とが混淆した、開かれた不思議な読後感こそ、一種のアジア的な感性の賜物なのかと妙に得心させられる。
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2017年7月21日 新聞掲載(第3199号)
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