フーコー国家論 / 山本 哲士(文化科学高等研究院出版局)独自の「国家論」を練り上げる  吉本/フーコー/ブルデューから固有の概念空間へ|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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読書人紙面掲載 書評
2017年7月24日

独自の「国家論」を練り上げる 
吉本/フーコー/ブルデューから固有の概念空間へ

フーコー国家論
著 者:山本 哲士
出版社:文化科学高等研究院出版局
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本書は、著者の国家論研究――「吉本隆明と『共同幻想論』」「ブルデュー国家資本論」とともに国家論三部作――の一部である。フーコーの仕事は、吉本の幻想論とともに、著者が、マルクス主義からの離脱を含め、〈問題化〉の枠組みを変えていくうえで、きわめて重要な媒介項となっている。だが、現代の資本主義の現実と向き合って国家の問題を考えるとき、この二人の仕事だけでは不十分であり、ブルデューによる国家と資本主義の分析を媒介にすることが戦略上必要だったと思われる。

フーコーの講義終了から数年後、ブルデューは「国家」についての講義を行っているが、そこには、近・現代国家に関するフーコーの統治論的な分析が理論上孕まざるをえない空洞を、異なるかたちで開示し、別様に埋めていくという構図が読み取れる。この点、著者もまた、フーコーの分析の重要性を評価しつつも、現代の考察にそれをどう接続するのかという問題意識をいっそう尖鋭にしたと思われる。

著者は、吉本/フーコー/ブルデューの成果を統合的に織り込みながら、現代の問題に関説しうる固有の概念空間をひらいていこうとする。この試みは、著者の述語論的/場所論的な概念空間の構築と並行しており、また現代の資本主義を代表する諸企業や地域=場所に発生する諸資本を分析するなかで、「商品」と「資本」の差異を見いだし、この差異を通して資本主義の可能性を再考する一連の研究と連動している。

本書の理論的な目標は、フーコー講義録のうち、主に『安全・領土・人口』『生政治の誕生』の解読を通じて、国家という概念や実体に関する歴史主義的前提を括弧に入れることにより可視化された、統治にかんする理論を摂取し、それを吉本が開示した幻想論に接続するかたちで独自の「国家論」に練りあげることにある。またその問題意識は「国家の認識構造に自らがからめとられている様態を、国家から切り離して、自らが自らに対して自由である」ようなプラチック(pratiques)の場を確保することにある。

著者の視点からすると、国家が統治テクノロジーの相関項であるとしても、現実にはその統治技術の総体によって社会が管理されているという事実に変わりはない。問題はそれが何をもたらしているのかであり、重要なのは、強固な「社会空間」がかたちづくられ、諸個人のうちに「社会人」が形成されていることである。この「社会空間」では、〈国家〉は自らが形成した社会なくしては存在しえないほどに社会化されており、諸個人の〈生〉もプライベートな次元を無化されるほど過剰に社会化されている。

この点、自由主義の思考は、プライベートな次元を私的所有と保険制度の軸線に添って担保しているようにみえるが、実際には「プライバシー」という社会化された現実(へのフェティシズム)が担保されているにすぎない。この「社会空間」では、個人は根本的な自由を保証されるが、その自由を行使するゲームの場や規則は益々厳密に管理されるようになる。著者の国家論は、このような社会の過剰を、そしてこの社会の過剰のなかに没入している国家/統治の現実を、同時に相対化する試みを目指しているのだろう。

ただし、著者のフーコーへの依拠は限定的にならざるをえない。フーコーの場合、自由主義の系譜とそれに関連する統治のテクノロジーの問題性を、主として自由主義をめぐる言説の歴史、つまり言説史に浮上する出来事を通して掬い取っており、実際に起こっていた出来事―歴史とは微妙に乖離した水準で統治の問題を捉えていた可能性があるからである。たとえば、自由主義の言説が商品・貨幣・市場という視点で掬い取る経済は、果たして社会史的な現実としての経済の諸プラチックと、どれほど乖離しているのか不詳である。この乖離の仕方とその度合いを問わない限り、フーコーによる統治の分析は一つの自己満足となり、歴史が言説史に代行される範囲でしか整合性を担保しえないとの疑念が残る。それゆえ著者は、この点にフーコーの危うさを見ているのだと思われる。

また、ある時代以降、生権力・生政治と呼ばれる配備があったのだとしても、それらはその内容からして「資本」の実際的な働きを見えなくする権力行使の形態だとすれば、この点にブルデューの仕事が自分の領分を主張しうる根拠があるだろう。そしてブルデューが、「資本」の営みを等価交換の体系による商品経済の枠に限定しないことにより、「資本」の実際的な振る舞いとその可能性に対する視界を広げ、その視界のもとで「資本」の多義性と国家の諸機能との関係を考察していたのだとすれば、著者としてはそれこそ、ブルデューの分析をもう一つの参照点とする重要な理由になるといえよう。
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2017年7月21日 新聞掲載(第3199号)
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