さかしま 書評|J・K・ユイスマンス(河出書房新社)|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」
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2017年7月31日

河出文庫
彼方からの微笑
J・K・ユイスマンス著、澁澤龍彦訳『さかしま』

さかしま
著 者:J・K・ユイスマンス
出版社:河出書房新社
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手元にカバーのないユイスマンス『さかしま』の文庫本が、ある。表紙には1―2―198と鉛筆で入れられている。

二◯◯七年に留置所に入った時、編集者に頼み差し入れて貰ったもので、係官が記入した。留置所では名前の換わり、ナンバーが与えられる。この時、僕は198番と呼ばれておりました。

『さかしま』は莫大な遺産を譲り受けた厭世の貴族が、暇と金に飽かして無駄に贅を尽くす―亀の甲羅を宝石で飾ったり―小説ですが、特に筋はない。ユイスマンスが偏愛するラテン文学や神秘思想、美術などがつらつらと書き並べられてあるのみ。

主人公は書斎で生活の大半を過ごし、飢えた子供を観ると生まれてこぬほうが幸せだと思い、気紛れに何の関わりもなき少年に放蕩を教え破滅させようと悪巧む冷酷の者ながら、歯医者での虫歯治療の恐怖に戦慄し、泣き叫ぶ脆弱者でもある。

デカダンスのバイブルと呼ばれるこれを最初に読んだのは大学生の頃でした。澁澤龍彦の翻訳だし、澁澤のエッセイにはこれに触れたものが多いので、高価な桃源社の匣入り本を頑張って、古書店で手に入れました。衒学の塊のような『さかしま』の面白さなぞ、まだ解ろう筈もなかったのですが、憧れる澁澤に一歩でも近付きたくて背伸びを、した。

一週間程で少し留置所の生活に慣れてきた頃、これを所望しました。檻の中、三食の粗末な食事にしか喜びを見出せない身の上で、世俗を軽蔑し反自然世界で蕩尽の限りを目論む様子が描かれた『さかしま』を読むことは、皮肉ですがとても贅沢でした。

作家になってまもなく、澁澤の『黒魔術の手帖』の解説を担当する栄誉を授かりました。緊張の余り筆が進まず、本人に逢うことは敵わぬので鎌倉の墓を訪ねた。

二年前、僕はまた留置所に入りました。二度目の逮捕に愛想を尽かし、今度は面会や差し入れをしてくれる編集者はおらず、執行猶予で出てはこられたものの、仕事らしい仕事は貰えず、今に至る。

そんな今年、河出書房新社より、澁澤の特集を組むので寄稿せよとの依頼がきました。渾身で挑みますとエッセイを書き送り発売日を迎える頃、別の部署から今度は、『極楽鳥とカタツムリ』なる澁澤のアンソロジーを文庫で出すので、解説文を願いたいと頼まれました。その発売を待ちつつ、僕はまたこうして澁澤絡みの原稿を書いています。

まるで澁澤が「おい、君。作家なら作家らしく、そろそろちゃんと仕事をし給え」と、膳立てを整えてくれている気がしてならない。死者と話は出来ませんが、遺された作品、文章と僕等は五◯年、百年経とうが対話出来る。『黒魔術の手帖』の解説の己の言葉より引用すれば「これぞまさに知の贅沢」。

彼岸で、自分の翻訳に対し鞭撻を受けるべくユイスマンスの隣に座り、メモを走らせ続ける澁澤が、微笑んで悪戯っぽく頷きます。
この記事の中でご紹介した本
さかしま /河出書房新社
さかしま
著 者:J・K・ユイスマンス
出版社:河出書房新社
以下のオンライン書店でご購入できます
2017年7月21日 新聞掲載(第3200号)
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