田原総一朗の取材ノート「稲田防衛相の辞任をめぐって」|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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田原総一朗の取材ノート
2017年8月8日

稲田防衛相の辞任をめぐって

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南スーダンPKOの日報問題をめぐって、稲田防衛相が辞任した。日報を開示するか、開示しないかを決める会議で、稲田氏が聞いていたのかどうかは曖昧のままに終った。各紙は、その曖昧さを厳しく批判している。

だが、この問題についての記事では、産經新聞の論説が、最も核心を突いていた。

問題の発端は、二〇一二年、民主党の野田内閣の当時、南スーダンで「戦闘」が行なわれて、陸上自衛隊の報告書には「戦闘」と記されていたのを、安倍政権になって、防衛相となった稲田氏は「戦闘」ではなく、「武力衝突」だと答弁したことである。

この矛盾を、民進党や共産党からも、メディアからも厳しく批判された。これが稲田防衛相批判のはじまりでもあった。

だが、これは稲田防衛相の失言ではなく、実は、PKO五原則では、日本のPKOは戦闘に参加できないだけでなく、戦闘がはじまれば撤退しなければならないことになっているのである。

しかし、南スーダンに駐留しつづけていたのだから、防衛相としては、「戦闘」ではなく、「武力衝突」だと答えざるを得なかったわけだ。

だが、実は、産經新聞が指摘している通り、南スーダンにPKOを派遣したこと自体が、PKO五原則違反だったのである。

南スーダンにPKOを派遣したのは、二〇一二年で、民主党の野田内閣のときだが、PKOはガリ国連事務総長の時代に大きく変わっていたのだ。

一九九四年にルワンダで一〇〇万人を超える大虐殺が起きた。このとき、各国がルワンダに、それぞれPKOを派遣していたのだが、当時のPKOは戦闘行為ができないことになっていたために、大虐殺を阻止することができなかった。

そこで、ガリ事務総長のときに、PKOが「交戦できる」ことになったのである。

あるいは、野田内閣の二〇一二年には、PKOのあり方が大きく変ったことを知らずに南スーダンに派遣したのかもしれない。なぜならば、わが国は、自衛隊自体、交戦権がないのだから、PKOが派遣できるわけがないのだ。今後、PKOは派遣しないのか。それとも自衛隊のあり方を変えるのか。国会で審議すべきである。
2017年8月4日 新聞掲載(第3201号)
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