藤田一照×木蔵シャフェ君子×猪瀬直樹  「禅とマインドフルネス」日本文明研究所シンポジウム載録|書評専門紙「週刊読書人ウェブ」

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読書人紙面掲載 特集
2017年8月10日

藤田一照×木蔵シャフェ君子×猪瀬直樹
「禅とマインドフルネス」日本文明研究所シンポジウム載録

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五月二十六日、日本文明研究所の第八回シンポジウム「禅とマインドフルネス」が行われた。登壇者は、曹洞宗国際センター所長で、十七年に亘り米国で坐禅指導を行った藤田一照氏と、脳科学とマインドフルネスを基にGoogle本社が開発した社員研修プログラムを日本企業に提供する一般社団法人MiLI創立者の木蔵シャフェ君子氏、モデレーターを作家で当研究所所長の猪瀬直樹氏が務めた。その内容の一部を載録する。

またシンポジウムでは、木蔵氏、藤田氏両人による瞑想指導の時間が前半と後半に設けられた。禅とマインドフルネス瞑想の違いもお楽しみください。 (編集部)

■二人のスズキと、マインドフルネス前史

禅と日本文化(鈴木 大拙)岩波書店
禅と日本文化
鈴木 大拙
岩波書店
  • この本をウェブ書店で買う
猪瀬
 鈴木大拙『禅と日本文化』は、昭和十年代に海外で出版されました。日本語訳で逆輸入され、岩波新書として刊行されたのが一九四〇年。それから継続的に読まれてきた本です。

鈴木大拙さんは戦前から戦後にかけて、禅文化を海外に広く知らせた仏教学者として知られる存在です。が、実はアメリカでは「二人のスズキ」と並び称される、鈴木俊隆さんという、もう一人の僧侶がいたのです。七〇年代には、ビートルズがインドで東洋的な世界観に目覚め、あるいはアメリカ西海岸でヒッピー文化が起こりました。その動きにも、鈴木俊隆さんの影響があると言われています。

そうした流れの上で現在、シリコンバレーのGoogleやfacebookのような先端を行く新企業で、「禅」が「マインドフルネス」と言葉を変えて、社員研修として取り入れられています。

藤田一照さんは、アメリカで十七年半、禅を伝える仕事をしてきました。今は日本で禅とは何かを追及する活動をしています。木蔵シャフェ君子さんはシリコンバレーのGoogleの研修システムを、日本で適応させる活動をしています。海外にマインドフルネスが広まることで、日本の伝統の中に息づいてきた禅が、改めて見直されています。

なぜシリコンバレーで、これほどマインドフルネスが流行しているのでしょう。
藤田
 言葉が使われ始めたのは、ずっと前のことです。僕は八七年に渡米しましたが、その年、ティク・ナット・ハンというベトナムの僧侶が書いた『ビーイング・ピース』という本の中で、マインドフルネスという言葉に初めて出会いました。
猪瀬
 木蔵さんは『世界のトップエリートが実践する集中力の鍛え方』を刊行しておられますが、実際どうでしょうか。Googleは、食事が食べ放題とかオフィスが独創的でレジャーランドやゲームセンターのような様々な施設が完備されているとか、表面的なところだけ報道されるけれど、実状は過酷だと思うんですよね。ハーバード大学に入るのは倍率約五〇倍、そこからさらにGoogleに入るには約一〇〇〇倍。入ったら周りには優秀な人間だらけで、毎日長時間労働で凌ぎを削ることになる。シリコンバレーは、もっともストレスの高い社会ですよね。
木蔵
 その通りです。例えば、Googleのような大きな情報量を処理しているところで、三ヶ月後に情報処理のスピードを今の倍にしてほしい、という課題が会社からポンと渡されます。それを、一〇人程のチームが必死になって、なんとか達成してしまうんです。世界中のトップエンジニアが集まっていますから。しかしやり遂げて息をついても、数ヶ月経つとまた、今度は三ヶ月後にこの倍でよろしくと。ストレッチして、やり終えたら、またストレッチの課題が与えられます。技術開発の恩恵を私たちも受けていますが、最先端にいる人たちは過酷な現状にあります。
藤田
 達成できない場合はどうなりますか。
木蔵
 首がかわります。では他の人、と。でも会社からのプレッシャー以上に、何かを作り出したい、新しいことを生み出したいという自発的な欲求が大きいのだと思います。そういう中で、毎日身を刻んでいるので、ストレスで病気になるとか、家族関係がうまくいかないとか、ドラッグやアルコール依存という問題にも繋がってくる。ところが、マインドフルネスで心が落ち着く状態を作ってみると、苦しみが軽減され、仕事の成果にも間接的に繋がる。そういうことで、広まっていったと思います。
猪瀬 直樹氏
猪瀬
 ところで鈴木俊隆さんは、何をした人なんですか。
藤田
 その話をするために、もう少し過去に遡りますが、明治維新の折、日本は多額な給料を払って海外から多くの学者を呼びました。その一人にフェノロサがいます。彼は日本にきて驚きます。極東の文明の遅れた地域にきたつもりが、とんでもない。日本の仏教美術や教学に触れて、その素晴らしさに目を見開き、たくさんのコレクションをボストン美術館に持ち帰ります。海外における禅の文化は、そういうところから受容が始まっています。

そして鈴木大拙さんは、シカゴの世界宗教者会議に、師匠の釈宗演さんという鎌倉円覚寺の管長と共に行き、その縁でアメリカに住み、英語で仏教の発信をするようになります。二十七歳で『大乗仏教概論』を書き、一九五〇年代に知識人の間に書物を通じて禅という哲学を伝えます。鈴木大拙さんは、主に「悟り」の世界を、英語で表現しようとしたのですが、西洋の知識人たちは、西洋的な二元論を超えたものが大拙さんの本には書かれている、と直感的に受け取ったようです。最初にアーティストや哲学者、思想家などが、大拙さんの言葉に惹かれました。そこから、一般にも広がっていきます。
猪瀬
 英語の文章は、私がいて相手がいる、そもそも二元論的です。一方、我々日本人は、「私」という主語なしに話す。二元論が文脈の中に常に存在する世界へ、大拙さんは、私とあなたが融和している世界観を持ち込んだのですね。
藤田
 そういうことですね。仏教では、自と他、心と体を分けることを「分別」と言います。僕らは日常的に、良し悪し、優劣、美醜など、自分の観点から物事を二つに分けて捉え、恰も客観的に分別されたものが存在するかのように、思考しています。仏教ではそれを「虚妄分別」と呼び、実際には存在しない区別を押しつけていると考えます。西洋にはそういう考え方はなく、別け隔てのあることを当たり前だと思っています。大拙さんは、虚妄分別を超えた無分別智の世界を、様々な禅マスター(禅匠)たちのエピソードを挙げながら説明したのです。二元論的思考法が様々な問題の根底にあると感じていた人々にとって、打開の新しい方向を指し示すものとして歓迎されたということが一つあります。

六〇年代になるとアメリカは世界一の大国となり、それに伴って問題が多々生じてきました。当時の若い世代の人々は、親たちが作り上げたアメリカの価値観を自分たちはこのまま引き継いでいくのか、と疑問を覚えるようになる。そのときに、鈴木大拙が説く虚妄分別を超えた悟りの世界に、魅力を感じたのです。

そして六〇年代初め、五〇代の鈴木俊隆という曹洞宗の僧侶が、サンフランシスコの日系の桑港寺の住職として渡米します。今までの住職と違い、アメリカ人に禅を教えたいという思いがあった俊隆さんと、禅の修行をしたいとサンフランシスコに集まってきた人々が、出会ったというわけです。ヨーロッパでも約一〇年遅れて同じことが起きてきます。そのときに禅の修行をした人が、世代的にいうと、現在マインドフルネスの牽引にあたっています。これを、「マインドフルネス前史」と言っていいのではないでしょうか。
■「己事究明」―自ら の内側を検索しよう

木蔵シャフェ君子氏
木蔵
 確かに、俊隆老師の弟子の中に、現在、禅僧でありながらマインドフルネスのリーダーになっているという方が何人もいますね。Search Inside Yourself――略してSIYと呼ばれるのが、Googleで生まれた、脳科学とマインドフルネスからなるメソッドなのですが、そのCEOを務めたマーク・レサーは曹洞宗の、鈴木俊隆さんの孫弟子ですし、ノーマン・フィッシャーというサンフランシスコ禅センターの僧侶が、スタンフォード大学の卒業式の講話で、マインドフルネスを伝えることもしています。アメリカでは、禅とマインドフルネスを分ける見方はありません。
藤田
 そうですね。僕は二人とも僧侶として知っていました。日本でも今、臨済宗のお坊さんがSIYのプログラムの習得につとめているそうです。
猪瀬
 SearchInsideYourselfとは、どんなプログラムなのですか。
藤田
 Googleのサーチエンジンは皆さんご存知かと思います。禅でいう「己事究明」とは、自分について究明することで、それを英語にしたのが、SearchInsideYourselfです。
木蔵
 自らの内側を検索しよう、ということですね。
猪瀬
 それを、Googleの社員がどのように定期的に行う仕組みになっているのですか。
木蔵
 頻度は分かりませんが、世界各国のGoogle社内で、二日間のプログラム、加えて七週間のフォローアップが行われ、実践を習慣化していきます。Googleではやりたい人が応募する、手挙げ式です。オンラインで募集があって、すぐにいっぱいになってキャンセル待ち、という状況で、Google社員の一〇%弱が、そのプログラムを受けていると聞いています。
猪瀬
 簡単に説明するのは難しいかもしれませんが、呼吸法や坐禅を、どのようにプログラム化しているのですか。
木蔵
 一つには、EQ(EmotionalIntelligence)――感情知性をリーダーシップに取り入れるというアプローチです。
猪瀬
 IQは知能指数ですが、EQでは様々な感情の起伏が現れるということですか。
木蔵
 最終的に感情を自己管理し、対人的な共感を生むことを目指すのですが、そのためにはまず、自己認識が必要です。まさにSearch InsideYourselfで、今、自分に何が起っているか分かるようになろう、というメソッドを行うわけです。

EQと業績向上との比例関係は、これまでのリサーチで明らかになっていて、EQを高めるためにマインドフルネスを行い、自己管理ができていると、社内でも活躍でき、あるいはリーダーシップが高まる、とそうした図式です。
猪瀬
 心理療法とはどう区別されているんですか。
藤田
 セラピーは、病気のレベルであると自覚した人々がセラピストの助けによって、自分をマネージするもの。マインドフルネスのプログラムは、自分のスキルや人間力を高めるために、仕事で経験する感情の波をうまく乗り切る、治療というよりは、練習でスキルを身につける、ということだと思います。
猪瀬
 エクササイズですね。
藤田
 まさに、「心の筋トレ」という喩え方があるぐらいです。
木蔵
 EQを感情知性だと言いましたが、他の言葉で表せば、一照さんがおっしゃった「人間力」です。人間力を高めることのニーズは、日本にもありますよね。しかし禅は、初心者が探求するにはハードルが高い。マインドフルネスのメソッドならば、初心者にも入口が分かりやすいんです。
猪瀬
 手の届きにくいところをマインドフルネスのメソッドとして因数分解して、マニュアル化したわけですね。

一照さんも経験があると書いていますが、禅寺に入門志願をすると、そのまま入口で数時間待たされるとか。正直、それがどのように人間力に〓がるのか分からないんです(笑)。
藤田
 辛抱強くはなりますかね(笑)。現在は芝居に近くなっていますが、もとの意味合いとしては、自分がなぜここにきたのかを、よく考えてみろということでしょう。あだ疎かに物見遊山で来たやつに用はない、という表明です。
猪瀬
 釈迦の説く、宇宙と自分との合一や、悟りのようなものは、教えるものではない、ということなのでしょうけれどね。

鈴木大拙さんの『禅と日本文化』の冒頭に、十二世紀ごろの説話が引かれています。夜盗の息子が、そろそろ手法を伝授してほしい、と言ったので、親父は息子を連れて他家へ泥棒に入った。そして長持の中に息子を入れ蓋をして、「泥棒だ」と叫んで、自分は逃げてしまった。閉じ込められた息子は、家人が来て蓋が開けられた途端飛び出して、井戸に大きな石を落して飛び込んだと見せかけるなどして、命からがら逃げ切った。家に帰ると、これでやり方が分かっただろう、と親父が言ったと。ノウハウは自分の体で憶えろということでしょうが、かなり無茶苦茶な話にも思えます。でもこれが禅の説話の中にあるということは、つまり、泥棒の手法と同様に、禅も教えられるものではない、自ら学べと。
藤田
 そういう話が伝わっているのは、自得するしかないものが、禅では大事にされているという裏返しですね。僕らは傾向として、具体的なものに頼りたくなるし、最短距離を目指しがちです。でも寄りかかって頼ることでは、身につかないものがある。近代的、合理的な考え方では、落としてしまうものがある。

仏教が最も大事にしているものに、「生老病死」がありますが、例えば死を目の前にしたとき、人間が頭で考え出した方法など何の役に立つか、ということです。
■坐禅で存在の次元に触れる

藤田 一照氏
猪瀬
 一照さんの本に『現代坐禅講義 只管打坐への道』がありますが、「只管打坐」とは、どういう意味ですか。
藤田
 只管とは、「ただそれだけ」という意味です。つまり、ただ坐っているだけ。タダならばお釣りが返ってこないでしょう。何も目指さず、返ってくるものはなく、坐っているだけなんです。僕は只管打坐とは、「人間を開店休業すること」と言っています。
猪瀬
 人間を開店休業?
藤田
 人間の特徴は二足歩行です。それから手で道具を操作する。口を使って話をする。頭で思考する。それが坐禅のときは、手足を組み、動かない。話さない。浮かんできた思考を握り込まず、現われては消えるままにする。

つまり坐禅では、人間の特徴的な活動を全て、一時的に保留するんです。ホモ・サピエンスはしているけれど、人間の活動はしていないので、僕はそれを「人間を開店休業している」と。立ち上がればまた、人間の生活が始まるけれど、いったん人間を開店休業したところから、改めて人生を眺め直してみようということです。僕らは人間の世界の中で、忙しい忙しい思い通りにいかない、と浮いたり沈んだりし続けていますが、その生活に句読点を打ち、隙間をあける。「無用の用」という言葉がありますが、そういう無用の隙間が、忙しい毎日を乗り越える触媒になるのではないかと思っています。

一方マインドフルネスのメソッドでは、人間として自分をマネージしていきます。職場や家庭で潤滑にやって行くためのスキルを磨くことも必要ですから、マインドフルネスで人間力を上げていけるといいと思います。ただ人間力では触れられないところもあって、それは禅のカバーするところなのです。人間社会の中でうまく生きるための方法と、生老病死の次元、存在の次元に触れる経験。映画ではないですが、二本立てでいけばいいと思います。
猪瀬
 禅では宇宙の中に自分がいて、宇宙と一体化しているということを自覚するのが悟りだ、などと言いますよね。難しいね。
藤田
 難しく考えるから難しくなる(笑)。ただ坐ればいいんです。「差をとる」とダジャレで言った僧侶がいましたが、私と世界の差をとる、とは言えますね。先ほど話をした「分別」をやめるということです。と言っても、言葉も時間も持っている我々は、完全に分別をやめることはできない。でもいったん手放して、分別で自分の手足を動かさないようにするのが、坐禅です。
猪瀬
 それは、無になるということですか? 
藤田
 無とは、拘りがないとか、仕切りがないという意味で、空っぽで何もないという意味ではありません。むしろ「全」と同じ。無限ということです。
猪瀬
 一即他とか、他即一とか、言いますよね。

鈴木大拙さんの本に、芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」は禅問答から生まれた句だとありました。しかし多くの人は、これを実景描写だと思っています。
藤田
 これは内面と外面の仕切りが取れている状態なのだろうと思います。芭蕉には句の生まれる瞬間、何らかの感動があったはずですが、それは外で起きているのではなくて、自分の中で起きている。その感動が句として結晶化した。表面的な情報の下に、隠されたメッセージがあるのです。
猪瀬
 意識の下には広大な無意識界があると言われますが、普段我々がコミュニケーションで使う言葉は、表面から近いところをほんの一部切りとったものだということですよね。鈴木大拙はユングと重なる時代に生きた人で、本にも集合的無意識という言葉が出てきます。意識界だけでなく、無意識界をも使って対話するのが、禅問答だということでしょうか。
藤田
 そういうことになりますね。禅問答は、そのままでは他者のストーリーで、禅マスターに弟子が尋ねたらこう答えた、という単なる情報です。でもその物語を咀嚼するうちに、するめのように味がジワジワ滲み出てきて、第三者的に見ていたストーリーが、あるとき私のストーリーになっている。集合的無意識ではないけれど、自分の内側の、普段は閉じている、私を成り立たせている深層世界へ届いていくことがあるのです。禅ストーリーはそのための装置です。そういうことが起こりやすい話が、代々試されて残ってきている。臨済宗ではそれを公案と呼びます。

公案では、今起きていることに対し、自分をどのように折り合いつけていくか、それが刻々問われています。今、ここにおられる何人かは、眠たいな、寝てしまうか、それとも頑張って起きていようか、という葛藤の狭間にあるかもしれません(笑)。その瞬間瞬間の状況から問われていることに対して、自分がどう応答するかが、まさに公案なんです。刻々に問われているのだ、ということを心底から感じるために、頭で考えても分からないような問題を投げかける。そうした方法が、発明されたということです。
■水平方向のマインドフルネス 垂直方向の禅

猪瀬
 取っ掛かりがないようでも、禅にも理解のための装置として、説話があるわけですね。マインドフルネスでは、そこを徹底的にマニュアル化するから分かりやすいと。
木蔵
 ただ、マニュアル化されたものを、実践するのは個々人なんです。マインドフルネスには枠組みはありますが、たった二日間の学びで七週間のフォローアップをしていくわけで、入口を通過した後は、自分自身の探求になり、禅の修行に近いものになっていくと思います。
猪瀬
 説話の他にも、仏教画の余白や枯山水の石庭のようなものも、アートや文化のかたちを借りて、禅の隠されたメッセージを伝えているように思います。一方、シリコンバレーにおけるマインドフルネスの影響は、具体的な成果として見ることができるのでしょうか。
木蔵
 数週間マインドフルネス瞑想をやった前と後で、脳の状態がどうなっているかなど、神経科学的なビフォーアフターの変化についての調査結果があります。
藤田
 昔に比べると瞑想しているときにどんなことが起きているか、脳のどの部分の血流が増えるとか、体温が上がるとかが、リアルタイムに分かるようになってきていますよね。今まで瞑想修行者が内観してレポートしていたものを、客観的な脳科学のデータでバックアップできるような時代になっている。
木蔵
 ハーバード大学やウィスコンシン大学には大きなリサーチセンターがあります。脳は複雑系なので、全てが分かるわけではないですが。例えば感情を司るといわれる「扁桃体」という脳幹の中心にある小さい器官が、瞑想をすることで、闘争反応やイライラを終息させやすくなることが分かっています。また耳の奥あたりにある「島皮質」は自分の体に何が起こっているかに気づく器官ですが、瞑想により、この皮質の厚みが増し、直観や体感覚を感じる能力が発達する可能性を示唆する調査結果も出ています。

もう一つ、スマホやテレビを見ている時間は、リラックスしている印象がありますが、実はデフォルトモードネットワーク(DMN)というものが発動されて、脳は疲労していることも分かっているんです。
藤田
 自覚的には何もしていないようだけど、脳は一生懸命働いているんですよね。
木蔵
 ところがマインドフルネス瞑想をすると、デフォルトモードネットワークの状態で、あちこちイライラ、チカチカしていたものが、スーッと落ちついていく。DMNの中では、だいたい同じことばかり考えています。多くは私が、私が……と、自分についての物語を繰り返します。マイストーリーを繰り返すと、だんだん現実とは異なる思い込みが強化されてしまうのです。自分の中で作られた私像と、実際に世の中に適応することができる自分が乖離してしまう。そういった状況を落ちつかせるためにも、マインドフルネスは有効です。
藤田
 世の中が自分中心に回っているなんてことは、実際にはあり得ないのだけど、デフォルトモード化していると、現実と自分の思考の産物との区別ができなくなって、現実が見えなくなり、落ち込んだり、攻撃的になったりする。ストーカー的な行為や鬱にも繋がってしまったりするわけです。
猪瀬
 脳科学が進んだことで、キリスト教の成立より以前に釈迦の唱えた、宇宙と自分が一体となるという禅の思想の、裏付けがとれている状態ですね。
藤田
 人は経験的に天動説だと思って生活してきたけれど、理論的には地動説が正しかった。これはcounter intuitiveと言って、僕らの直感とは逆で、経験からくる思い込みが覆されるということはよくあります。かといって、急にはビジョンを変えられない。そこに起こってくる齟齬を埋めるためにも、私と世界は切り離されていない、一体であると考えようということですね。
猪瀬
 結局、人間は皆、死ぬことを前提に生きていて、分別しない悟りの世界はおそらく、死に近づくような、自然に融けていくようなことに近いのでしょうね。
藤田
 そうかもしれません。死とは、切り離されたと思っている場所へ、また還っていくということです。そう思えば怖いことではないのですが。
猪瀬
 そう思えれば、悟りですよね。
藤田
 海の表面には、大きな波小さな波とんがった波、いろいろな形をした波がたくさん立っています。喩えれば、僕らは波の尖端を自分だと思っている。簡単に言うと仏教の修行は、波は海からできているという、自分のホーム(故郷)を見つめ直すこと。禅の方向性は、波の尖端から海の底へ向っている。マインドフルネスのメソッドは、波の形を維持すること、さらに大きくするとか、きれいにするという目的もあるかもしれません。マインドフルネスでは世俗をきちんと生きるため、アイデンティティを見つめるために、水平方向に視線が向いている。そういう違いは禅との間にあると思います。ただ僕は、波をなくして、ベタ一面の海に帰れ、とは思いません。自分のルーツが深く広大な海であることを知りつつ、一介の波として、個性を発揮することを目指す、ということですね。海との繋がりがあって初めて個性が生まれることを忘れずに。水平方向のマインドフルネスと垂直方向の禅とは、対立するものではありません。むしろ二方向のマインドフルネスが共存して、広がるといいと思っています。    (おわり)

日本文明研究所第八回シンポジウム「禅とマインドフルネス」の会場で行われた、藤田一照氏、木蔵(ぼくら)シャフェ君子氏による瞑想指導の模様を収載します。(モデレーター・猪瀬直樹氏) (編集部)


マインドフル ネスの導入法

猪瀬
 今日は、会場の皆さんに、できるだけリラックスして話を聞いていただければと思います。最初に木蔵さんから、Google的なメソッドではどのようにリラックスするのか、お話いただけますか。
木蔵
 はい。今、皆さんの心の状態はどうでしょうか。このシンポジウムに間に合うように駆けつけて、少しずつ落ちついて、クリアな状態になりつつあるのか、それともまだざわついているでしょうか。

スノードームは揺らせば粉雪が舞い散ります。これを落ちつけるために一番いいのは、置くことです。皆さんの心の状態も同じように、思いや責任や感情などを、置いていきます。

これからマインドフルネスのごくシンプルな導入法をお伝えします。三つのことだけをします。

まず、「今を意識する、今に注意を向ける」。同時に、「リラックスする」。その状態で「次に起こる一呼吸に注意を向ける」。この三つをやってみましょう。

始めるにあたって姿勢を楽にしてください。目は閉じていても開けていても構いません。

今に注意を向けて、リラックスしている状態で、次に浮かぶ呼吸に注意を向けます。続けて三呼吸ほどに、注意を向けてみましょう。

どうぞ、そのまま続けてください。途中で呼吸以外のことが心に浮かぶかもしれません。残してきた仕事をどうしよう、このあと何を食べようか。

浮かんだ思いに気づいたら、「Beginagain」。再び、初めに戻って、次に浮かんでくる呼吸に注意を向けていきます。

それではひとつ深呼吸をして、出来うる限り、今の気持の状態をキープして、今後のトークへ注意をむけていってください。
猪瀬
 楽な姿勢とは、具体的にどのようにすればいいですか。
木蔵
 背骨はカーブしているので、重力に対して真っ直ぐではありません。自分が一番楽な状態を探します。肩は、普段の生活の中では、真横よりも前に置かれることが多いと思います。呼吸がしやすい楽な状態とは、肩を一度上にあげて、後ろからストンと下したかたちです。頭は首に乗っていますが、これも重力に対して一番楽な位置を探してください。
猪瀬
 パソコンをいじったり、スマホを見たり、日常生活では前かがみになることが多いですからね。頭の重さは約七キロあって、ボーリングの球を乗せているのと同じだと聞きました。それで不自然な位置に頭があれば、肩凝りになるよね。
木蔵
 いい位置を探していくと、最終的に骨盤に腰が立つという状態になるのですが、はじめからそれを言うと、ちゃんとしようとして、体がギュッと縮こまってしまうので、ゆるゆる自分にとって楽な場所を探していきます。
猪瀬
 藤田さんの『禅の教室』には、よい姿勢を言葉で説明すると、耳と肩を一対、鼻と臍を一対、と考えるといい、とありましたね。
藤田
 それも結果的にそうなる、ということで、先に正しい姿勢の条件を言葉にされると、我々は型を作ってしまうんです。自分の体に訊いて、内側から正しい姿勢が生まれてくるのではなく、外側に鋳型のように理想の姿勢を作って、それに自分を合わせてしまう。最初に理想があり、目標値が決まっていて、それに近づこうとする。日頃から僕らが陥りがちな、頭で考えたアプローチになってしまうのです。そうした人工的なアプローチには禅は非常に注意を払います。

つまり、全ての人に一律にあてはまる、理想の姿勢があるわけではないんです。それどころか、今日のいい姿勢と明日のいい姿勢は違う。それぞれの人にとって一番楽な姿勢を作る。楽な、といっても、ダラッとすることではありません。意識が覚醒するような姿勢が、人それぞれに、その都度、生まれてくるための条件を調える。日々新しい姿勢を正しく作る方法を学ぶのであって、正しい姿勢を学ぶのではない。その違いを禅では大事にしています。

心を落ち着かせようとするのと、心が落ち着くのとが違うように。背中が伸びるのと、背中を伸ばすのが違うように。些細な言葉の違いですが、置かれた当人の風景は全く違います。この微妙な違いの中に、禅の重要な特徴があるのではないでしょうか。

トークが進み、体と頭が強張り始めたところで、今度は藤田氏による坐禅法。禅とマインドフルネスの違いは如何に?


座禅は安泰の法門なり

猪瀬
 先ほど、木蔵さんがリラックスできる呼吸法を教えてくださったので、今度は一照さんにやっていただきましょうか。
藤田
 では、伸びをしてみましょう。というと、だいたい皆同じになるんですよね。本当にそれが、今皆さんの体が求めている伸びですか。ストレッチだと、手を上へまっすぐあげましょう、などと言うのでしょうが、禅的アプローチとしては、時間を取るのでどんな伸び方かは、自分で探してください。

伸びの仕方は、皆知ってます。うちの猫など伸びの天才です。胎児も、お腹の中であくびや伸びをするんですよ。お腹の中は窮屈だから、赤ちゃんも動かないと体が凝るのではないでしょうか。僕らは、あくびや伸びを人前でやるのは不作法だ、と抑圧するように条件付けられているので、頭で考えずに、自然の呼び声に従って、のびのび動くことを忘れてしまっている。

と、これぐらい皆さんを刺激しておいてから、もう一度伸びをやりましょう。ギューッと伸びると、心境がガラッと変わります。

そうしましたら、椅子の上に坐っている自分の体を感じてください。姿勢で大事なのは、グラウンディッドネスといって、しっかり地面、床、椅子に支えられること。緊張しているときは、筋力で体を持ち上げているので、それを手放していく。重さを下に預けていく。グラウンディッドネスをしてはいけないんですよ。やらないで、むしろ止めていく。そうすると、グラウンディッドネスが結果的にできる。下からの支えを感じてください。同時に、アップライトネスと言って、垂直性を感じる。日本語で言うと、接地性と垂直性、それが姿勢の大事なところです。

自分の体に問いかけてみてください。今、自分の体重が、どんなラインで坐骨に落ちていますか。垂直に落ちていますか、前傾きですか、後ろ傾きですか。体が後ろ過ぎるという信号があったら、もっと楽に。力んで支えている感じが消える地点があるはずです。
猪瀬
 これも、自分で感じてみつけろということだね。
藤田
 ここならば、ずっといてもいいかな、と思える場所を探してください。

先ほど君子さんも言ったけれど、腕はどうしても、前側に置かれる傾向にあるので、一度肩甲骨をゆっくり持ち上げて、後ろに回して、ここまでは意識でやって、あとはホッと落とします。どこに落ちるかは体と重力にまかせておく。変な言い方ですが、自然を稽古するということです。

今、腕がぶら下がっていますね。腕の重さで胸が広がります。

と言うと、意識して広げてしまいがちですが、広がると広げるは違います。僕たちは手ごたえが大好きです。エゴは、「俺はやってるぞ」というドヤ感が好きです。でもエゴを満足させるのではやり過ぎている。手ごたえのなさを目指す。努力している感じがないのは、エゴには物足りないので、寝てしまったり、考えごとをしたりしてしまうのですが、そうならないように。

腕は肘からゆっくり曲げて、坐禅の場合は下腹の前に持ってきて、左手を右手の上に置き、四本指を重ねて、親指の尖端どうしが軽くくっついているかたちになります。これも作ってはダメなんですね。リラックスして合わせると自然、そういうかたちになる。

日常的に、僕らは手の平を外に向けることが多いですが、これは道具操作の手で、世界を変えようとする手です。坐禅で手の平を上に向けてそっと置くのは、世界をそのまま受け入れる手、とだと僕は解釈しています。

この手を楽なところにおきます。坐禅では普通脚を組んでいるので、足の上に置きますが、今は椅子に坐っていますので、下腹の前ぐらいに置いて下さい。坐骨の真上に鎖骨があって、坐骨、鎖骨、耳が同じラインそして、鼻の真下のラインに臍がくるというのが、調っている状態です。七キロもある重たい頭が、うまくラインの中に入っていないと、首や背中の筋肉を緊張させて支えることになる。これだと長続きしません。頭の重さが消えるラインがあるはずです。

軽く口を閉じて、下あごを緩めます。下あごはぶらーんとぶら下がっている感じです。でも口はぱかっとあかない。口で息をせず、そっと上唇と下唇を触れ合せる。

僕らはストレスに耐えるとき、歯を噛みしめます。噛みしめて緊張が生まれると脳に刺激がいって、それがきっかけで考えてしまうので、なるべく体から余計な緊張を手放して、過剰な刺激が脳にいかないようにする。それが全てではないと思いますが、一つの説明法ですね。

目は、今は軽く閉じて、自分の体の内側をそれとなく感じます。といっても、自分の姿勢をモニターしてしまうと、自分とモニターされるものが分かれてしまうので、全体をそれとなく見る。真面目に何もしない姿勢を目指します。何もしないというと、ダラっとなるんですけれど、それではダメ。
猪瀬
 ダラッとしている方が、一見楽なように思えるけど。
藤田
 実は、息が苦しいんです。一ヶ所が楽をして、他がさぼっている箇所の肩代わりで苦しい姿勢になってしまいます。全身が協力して、体を上手く支えます。ただ外側の筋肉は休んでいていい。骸骨をイメージして骨のバランスで坐ります。如何に、努力を減らしていくか。僕らが普段、「鍛錬」という言葉でイメージするのと逆方向です。
猪瀬
 厳しい修行に入るようにみえて、逆に、楽になりにいくんですね。
藤田
 そうです。「坐禅は安楽の法門なり」というのが、道元さんの言葉です。仏教は苦行を超えたところに生まれているものなのです。

今、音は聴こうとしなくても聞こえています。一生懸命に聞こうとせず、聞こえているままにします。匂いと味は、今はあまりないと思いますが、いつでも感じられる状態に。仏教では心も感覚器官として捉えます。浮かんでくる思い、消えていく思いをただ感じます。深くリラックスすると、僕らは大抵の場合は寝てしまって、くつろいでいるときに自分に何が起きているかを見損なってしまうのですが、これは修行なので、静かに覚醒して、起こってくることを深く味わう。そしてゆっくりすだれを巻いていくように、瞼をゆっくり上げていきます。今の自分の心境に合う光の量を受け入れてください。自分をオープンにして、六つの感覚器官から届いてくる、様々な情報に自分をなるべく均等にさらします。鏡が、その前に来たものをそのまま映す感じ。ゆがめたり、拡大したり、小さくしたりしない。

居眠りや考えごとの方にそれたら、姿勢は崩れていますので、姿勢を直すことで最初に立ち戻ります。立ち戻り、立ち戻りしながら、ある一定の時間続けます。ここには、名前も性別も年齢もない。命が純粋に生きているだけです。
猪瀬
 六つの感覚というと?
藤田
 眼耳鼻舌身意という、般若心経に出てくる六つの感覚器官です。「身」は身体感覚「意」は心。仏教では、この六つで全てだといいます。プリンターは四~五色で、あらゆる色を作り出して印刷しますよね。知らない人がみたら、あの中にあらゆる色のインクが備わっているかと思うのですが、そうではない。僕らのあらゆる経験も、仏陀によると、六つのインクカートリッジで印刷されているようなものなのです。そこで、何が起きているかに気がついているということが、マインドフルネスの根本です。
木蔵
 五感プラス心の六つで、今何が起っているかに気づきながら、自己認識をもって一瞬一瞬を生きることを、マインドフルネス、というんですよね。

(瞑想編おわり)
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2017年8月4日 新聞掲載(第3201号)
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